21-5.彼女のいないダンジョン


 すーはー、すーはー。


「えっと、主任。いいですか。この書類のことなんですけど……」


 よし。

 できるだけゆっくりと発音することに成功した。

 決して早口にはなっていないはずだ。


「……あの、主任?」


 主任の様子がおかしい。

 声をかけても、まったく返事がない。


「……あ、え? な、なに?」


「いや、この書類……」


「あ、あぁ。これね。わかった。見ておくわ」


「はあ。お願いします」


 時計を見ると、もうすぐ定時だった。

 岸本はすでにいないし、チームのメンバーも帰る準備を始めている。


「……今日はこのくらいにしておくか」


 自分の机に戻って、荷物を整える。

 それが終わると、時間ぴったりに席を立つ。


 えーっと。

 寧々との待ち合わせが、一時間後だから……。


 と、主任が書類をつくっているのに気づいた。


「あれ、帰らないんですか?」


「うん」


「仕事、残ってるなら手伝いますよ」


 すると彼女は、じっとおれを見つめた。

 それから小さくため息をつくと、パソコンの画面に目を落とす。


「ううん。すぐに済むから大丈夫よ」


「……そうですか」


 おれはその態度に、妙に後ろ髪を引かれる気分だった。

 とはいえ、寧々の気分を害するのは得策ではない。


 大丈夫って言ってるし、大丈夫だよな。



 …………

 ……

 …



 会社を出て、いつものように『KAWASHIMA』へ向かう。

 入口を開けると、すでに寧々は準備が整っているようだった。


「よう」


「おう」


 カウンターの美雪ちゃんに向いた。


「あれ。マキ兄。今日は黒木さん、いないの?」


「あぁ、えーっと。今日は寧々と潜るからさ」


「ふーん」


 言いながら、タブレットをぽちぽちやる。


「黒木さんに振られたんだって?」


「ぶはっ!?」


 じろりと睨むと、寧々がにやにやしている。


「……美雪ちゃん。あんまり突っ込まないでくれると嬉しいんだけど」


「えー。こんな楽しい話題、なかなかないよねえ。それにこの天罰は、むしろ甘んじて受け入れるべきだよ」


「な、なんでだよ!」


「いや、そりゃあんだけ女心弄んでて、自分だけうまくいこうなんて虫がよすぎるじゃん」


「はあ? おれがいつ、そんな鬼畜なこと……」


 と、寧々が手を叩いた。


「はーい、はいはい。さっさと行こうぜ。牧野、着替えて来いって」


「わ、わかった」


 おれは慌てて更衣室に向かった。

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