19-4.相手がトイレに立ったときの居酒屋の気まずさは異常


「生ふたつ」


「よろこんでえー!」


 女性スタッフが元気な声で叫ぶと、そそくさと厨房へ行ってしまった。


「…………」


「いやあ、今日もなんとか終わりましたね。あ、この一週間、本当にありがとうございました。主任のおかげでいろいろ済ませられてよかったです」


「……そうね」


 主任はむすーっとした顔で睨んでいた。


「……あの、まだ怒ってます?」


「なにを?」


「あー。ほら、主任に黙ってアレックスと潜ってたこと」


「べえええつにいい」


 べえええつにいい、らしい。


 おれが返答に迷っていると、彼女は小さなため息をついた。


「……冗談よ。あんたがどうしようが、あんたの勝手でしょ?」


「まあ、そうですけど」


 あれ。案外、あっさりしたものだな。

 もうちょっとこう、機嫌を損ねると思ったんだけど。


 そこへビールがやってきた。

 乾杯して、ぐびりと一杯。


「……それよりも、あんた。ちょっと変よ」


「そうですか?」


「そうよ。岸本くんも言ってたわ。なんか、辞める準備してる感じがするって」


「あー……。まあ、当たらずとも遠からずって感じですかね」


 主任がむっとした。


「辞めるつもりだったら、先に上司のわたしに言いなさいよ! なに勝手に進めてるの!?」


「え? あ、いや、まだそのときではないというか……」


「はあ!? そのときっていつよ!」


「いや、ちょっと落ち着いて……」


「落ち着くってなに! 今日のこれだって、どうせあんた……」


 途端、ぶわっと涙があふれた。

 そのまま顔をうつむけてしまう。


 あまりの展開に、おれの思考もフリーズする。


「え。ちょ、なに、なんで……?」


「なんでもないわよ……」


 ぐずぐずと涙を拭きながら続ける。


「あんたっていつもそうよね。自分ばっかりで決めて、わたしに相談とかしないの? そりゃ、わたしだって悔しいけど、あんたが選んだんだったら応援してあげるわよ」


「……あの、主任? なんの話をしてるんですか?」


 彼女が赤い眼で睨んできた。


「アレックスさんと海外、行っちゃうんでしょ?」


「……はい?」


 予想外の返答に、おれは呆けてしまう。


「え。違うの?」


「ち、違いますよ! なに言ってるんですか!」


「だ、だって、寧々さんが、たぶんそうだって……」


「…………」


 あ、あいつ。

 適当なこと吹き込みやがって……。


「あー、もう。違いますよ。まあ確かに、もしかしたら辞めることになるかもしれませんけど、そういう理由じゃありません」


「え。じゃ、じゃあ、なによ……」


「明日から、土日でダンジョンに潜ります」


「な、なにそれ! どこによ!」


「この前のところです。ちょっと、アレックスとふたりで面倒なクエストを受けることになりました」


「な、なら、わたしも……」


「いえ、主任は来てほしくないです」


「……え」


 彼女が固まった。


「ど、どうして?」


「ものすごく危険なクエストだからです。場合によっては帰ってこれないかもしれませんので、そのときは仕事のことお願いします」


「か、帰ってこれないって……?」


「……そのままの意味です」


 ――バンッ!


 その意味を察した彼女がテーブルを叩いた。


「だ、ダメよ! そんなの、ぜったいダメ!」


「すみません。確かに前もって相談しなかったおれが悪いです」


 おれはジョッキのビールに映った自分の顔を見つめる。


「……どうしても、やらなきゃいけないんです」


「どうして? アレックスさんのため?」


「まあ、それもありますけど……」


 おれは唇をぎゅっと噛んだ。


「いちばんは、おれのためです」


「…………」


 主任はじっと手元を見つめていた。

 やがて大きなため息をついて、うなずく。


「どうせ、言っても聞かないものね。あんた、いつもぼんやりしてるくせに、変なところ曲げようとしないんだから」


「……すみません」


 とにかく、これで本題は済んだ。


 そして次の話は……。

 ……うーん、ちょっと酔いが足りないけど、しょうがないか。


「で、なんですけど……」


「なに?」


「えーっと、その、なんていうのか……」


「……なに? これ以上、悪い話でもあるの?」


「あー……。悪いかどうかは、どうでしょうかね」


「はあ?」


 喉に粘っこい唾が絡む。

 それをビールで流し込むと、思い切って告げた。


「もし帰ってこれたら、主任に聞いてほしいことがあります」


「……え?」


「いいですか?」


「う、うん」


「あぁ、よかった。話はこれだけです。すみません、こんなところまで連れ出して。おれ、明日からの準備があるので、お先に失礼します」


「あ、ちょ……」


 おれは五千円札を置くと、席を立った。

 そそくさと居酒屋を出て、振り返らないように駅へ向かう。


 ……夜も、もうだいぶ暑くなってきたような気がするな。

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