主任、ちょっと譲れない戦いをしてきます

19-1.準備を始めます


 ダンジョンには、おれたちと同じ知的生命体が存在する。

 その世界の秘密に触れたとき、いままでの常識がすべて覆った。


 あの場所は、狩りを行うだけのものではない。

 もっと大きな意志がうごめき、世界の裏側で躍動している。


 ――おれたちの計り知れないほどの深淵が、じっとこちらを覗いている。


 みんなは、このことを知っているのか。

 そして、ハンター協会はそのことを把握しているのか。



 その謎に触れてしまったいま、おれはこれまで通りの生活を守れるのか――。



「……牧野」


 主任がまっすぐおれを見据えた。


「わたしの言いたいことはわかるわよね?」


「はい」


 彼女は歩み寄ると、おれの頬に手を添えた。

 その熱いまなざしは、どこか艶っぽく潤んでいるようだ。


「……主任」


「いいわね。これは大事なことなの。わかるでしょ?」


「もちろんです」


「なら、わたしの気持ち、わかってくれるわよね?」


「……はい」


 おれはしっかりとうなずいた。


「おれのこと、主任の好きにしてください」


 頬に添えられた手が、おれの耳たぶに触れた。

 細い指先が、くすぐるようにうごめく。


「主任、おれは……」



 ――ぐりっ。



「取引先の電話番号が変わったなら、ちゃんとデータを変更しときなさいよアホンダラぁ――――!」


「すみませんでしたあ――――!」


 あいだだだだ!


 おれの耳がつねり上げられて、とんでもない痛みに悶絶する。


「あんた、ふざけてんの! おかげで一般の方に電話かけちゃったじゃないの! 誰よ、山田さんって!」


「すみません、てっきり誰かやってると思って……」


「その誰かが、最後に電話したあんたでしょうが――――!」


 主任が吠えた。


「もう、大恥かいたじゃないの!」


「いや、でも名乗ったときわかるんじゃ……」


「だ、だって相手のおじいちゃん、耳が遠くて何度も聞き直すんだもの! そのうちご主人と奥さまが出てきて、話も聞かずに不倫だのキャバクラだの喧嘩始めるし! わたしもう、どうすればいいのよ!」


「あー。確かに主任の下の名前、ちょっと源氏名っぽいですよね」


「あんた、本気でしばかれたいみたいねえ!」


 ぎりぎりぎり。

 襟が締め上げられる。


 ギブ、ギブ……!


 やがて気が済んだらしく、おれは解放された。


「とにかく、ちゃんと向こうさんの電話番号、確認しときなさいよ!」


「……はい」


 あの『マテリアル・フォレスト』の件から数日後。

 おれはびっくりするくらい普通の生活を送っている。


 てっきりこう。

 ダンジョンに隔離されたり。

 秘密組織から刺客が放たれたり。

 そんなスパイアクションばりなことが起こると思ってたけど、ぜんぜんそんなことはない。


 まあ、ひとつだけ変化があったとすれば……。


「あの、主任……」


「なに?」


「えーっと。この案件なんですけど、ちょっと失敗して面倒なことになりそうで。それで、ご助力を……」


 ぷいっ。


「知らないわ。あんたのミスでしょ。ひとりでやりなさい」


「え、あの、でもこれ……」


「岸本くんでも誰でも手伝ってもらいなさいよ。あ、そうねえ。いま来日している元カノさんとかヒマなんじゃないかしら? ずいぶん仲がよろしいようだし、そっちに手伝ってもらえばいいんじゃない?」


「いや、部外者にはちょっと……」


 ぎろり。


「……ほか、あたります」


 もう、やだ。

 おれがなにをしたって言うんだ。

 肩を落としながら、自分の机に戻った。


 時計を見る。

 できれば今日もアレックスの様子を見に行きたかったが、とても間に合いそうになかった。


「……ハア」



 …………

 ……

 …



 なんとか定時で仕事を終わらせ、『KAWASHIMA』を訪れた。

 美雪ちゃんはカウンターでなにか書類を書いている。


「あ、マキ兄。今日はひとり? そういえば、お父さんがイシクイの肉が欲しいって言ってたんだけど、今度、黒木さんと来たときに……」


「『未踏破エリア』に潜りたい」


 カラン、と彼女がボールペンを落とした。


「え。ま、マキ兄。本気で言ってる?」


「本気だ。できれば、そこそこ強いやつらがいる場所がいい」


「……いいけど。ひとりで?」


「あぁ。あの片手剣を試したい」


「うん。すぐ出してくるね」


「あ。あと、もうひとついい?」


「なに?」


 おれはカウンターの裏にある、大きなロッカーを見た。


「アレを出してほしい」


「……え?」


 案の定、彼女は目を丸くしている。


「ど、どうしたの?」


「ごめん。理由は聞かないでほしい」


「……わかった」


 そう言って、彼女は裏に引っ込んでいった。

 そこから鍵の束を持ってくると、その一本をロッカーの鍵穴に差し込む。


 そこから取り出したのは、年季の入った防具一式。

 その胸当てには、大きな修復の痕が残っていた。


「メンテナンスはしてあるから、このまま使っても大丈夫だよ」


「ありがとう」


「…………」


 最後に美雪ちゃんは、少し目を伏せてつぶやいた。


「無理しないでね」


「……まあ、頑張るよ」


 おれはその防具を持って、更衣室へと向かった。

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