主任、ひとつ上のレッスンです

8-1.その志は立派なんだけど


 いらいらいらいら。


「…………」


「…………」


 オフィスは異様な緊張感に包まれている。

 おれは隣の同僚と目を合わせた。


 そして視線は、主任のデスクへ。


 彼女はものすごく険しい顔でメールを打っている。

 その鬼気迫る様子に、またひとり外回りと称して逃げて行った。


 静岡から戻って二週間。

 うちのチームにけっこう大きめの企画が立ち上がった。


 主導するのは黒木主任だ。

 そのせいで、オフィスの雰囲気はピリピリとしている。


 でも、おれは知っている。

 彼女がぴりぴりしているのは、企画の進行が悪いからじゃない。


「ちょっと、タバコ」


 同僚が席を立った。


「あ、おれも……」


 と、思わず追いかけそうになったところ。


「――牧野!」


 主任の怒声に止められる。

 びくっとして、慌てて彼女のもとに向かった。


「な、なんでしょう?」


「午後の会議の資料、できてんでしょうね」


「は、はあ。一応……」


 ぎろり。


「一応?」


「はい! できてます!」


 彼女は頷くと、ぶすっとした顔で視線を落とした。

 ちらと、そのパソコンの画面が目に入る。


 そこには、宛先のないメール画面が開かれていた。


『スライム狩りたいスライム狩りたいスライム狩りたいスライム狩りたいスライム狩りたいスライム狩りたいスライム狩りたいスライム狩りたいスライム狩りたい』


「…………」


 おれはため息をつくと、自分の机に戻った。


 黒木主任のいらいらの原因。


 ――この二週間、モンスターハントがやれていないのだ。


 もちろん時間はある。

 忙しいとは言っても土日は休みなわけだし、やろうと思えばやれる。


 しかし、それを拒んでいるのは外ならぬ主任だ。


『この企画が終わるまで、わたしはモンスターハントを封印するわ!』


 おそらくは、この企画に本気で取り組むという意思表示なのだろう。


 その宣言から二週間が経った。

 企画の進行は遅いし、主任の機嫌はウルトラマックス悪い。


 ……どうにかできないものか、とは思うが、こればかりはなあ。



 …………

 ……

 …



 その日曜日。

 おれはアパートで、ぼんやりとテレビを見ていた。


 うーん。

 ヒマだなあ。


 主任と違っておれは仕事を抱えていないし、ゲームも一区切りついてしまった。

 部屋の片づけは昨日やった。髪も切った。 


 この微妙な退屈を、どうしてくれようか。


 こういうとき、普通は恋人のご機嫌をとったりするのだろうな。

 まあ独り身のほうが気楽だし、相手ばかりはいなければしょうがない。


 あぁ、そうだ。

 久しぶりに実家にでも顔を出そうかな。

 お盆は結局、顔を見せてなかったし。


 ウンゴロとも遊んでやりたいしなあ。

 あ、実家で飼ってる犬ね。

 コモンドール。

 モップ犬って言ったほうがわかりやすいか。


 さあて、こういうのは思ったときに即行動ってね。

 立ち上がろうとしたところで、携帯にメッセージが入った。


『マキ兄。今日はヒマ?』


 美雪ちゃんからだ。

 どうしたんだろうか。


『ヒマだけど』


『あ、よかった。急で悪いんだけど、新人さんの付き添いお願いできないかな。お父さん、風邪こじらせちゃって……』


 あー。


 ……そうだな。

 どうせヒマだし、それもいいかもしれない。

 少しは報酬も出るしな。


『了解』


 おれはそう返信すると、着替えを始めた。



 …………

 ……

 …



 その一週間後。

 今朝の朝礼は、課長の一言から始まった。


「えー。かねてより進行していた黒木くんの企画が、無事に先方から採用された。これからも忙しくなるが、みんなも頑張ってくれ」


 みんなの視線が、自然と黒木主任に向く。

 彼女はにこにこしながら、みんなの前に歩み出た。


「みなさま、ご協力ありがとうございました。引き続き、よろしくお願いします」


 チーム全体が、ほっと息をなでおろした。

 これでやっと、あの緊迫した空気も和らぐだろう。


 と、主任がなにかバケットを取り出した。


「ほんの気持ちですが、どうぞ召し上がってください」


 中には小さなカップケーキが並べられていた。


「え。これ主任がつくったんすか?」


「そうよ。意外?」


「まあ、少し」


 おれもひとつ受け取った。

 こんなんでみんなほだされちゃうんだから、美人ってのは便利だよなあ。


 ……お、けっこういけるな。


 場の空気が和んだところで、今日も楽しいお仕事の時間だ。

 おれが書類を整理していると、ふと主任が立ち上がった。


「ちょっと外、行ってきます」


 おや。

 会議の予定が入っていないと思ったら、主任は今日は外で打ち合わせか。


 いつ戻ってくるだろうか。

 早めに上がれたら、今日は今週のダンジョンの計画でも話したいところだけど。


 どうせ主任のことだ、やりたくてうずうずしてるんだろうな。


 でも、なにを狩ろうか。


 せっかくだし、ちょっとした大物でもいいな。

 いや、ここしばらくしていなかったんだし、やはり軽めのやつのほうが……。


 そんなことを考えていると、携帯が震えた。


 あれ。主任からだ。


『会社の前。いますぐ。はやく。ハリー、ハリー』


 は?


 おれはさりげなく立ち上がると、窓から下を見た。

 すると主任が、こちらに手を振っている。


「……外回り行きます!」


 おれは鞄と上着を持つと、慌ててオフィスを出た。


 会社を出ると、すでに主任は駅へと歩いていた。

 それを追いかける。


「ちょ、主任! なんすか!」


「あら。早かったわね」


「そりゃあんなことされたら……。ていうか、どこ行くんすか? 打ち合わせなんて聞いてませんよ」


 主任は、まるで「愚問ね」というような笑みを浮かべた。

 その瞬間、背筋がぞくっとする。


 まさか……。


「『KAWASHIMA』に決まってるじゃない!」


「…………」


 このひと、もうダメだ……。

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