第五話 夫
がたがたという音が外から聞こえて、夫は目を覚ました。
焦点の合わないぼやけた視界で、天井からぶら下っている電灯を見上げている。埃の舞う室内は、白い光で満ちていた。
「……朝か……」
夫は掠れ切った声を出す。目を擦りながら、いつもより重たく感じる体を起こした。
「……なんだか、ずっと何かと戦っていたような気がする」
起きたばかりだというのに体はだるく、思考ももやもやとしている。考えをまとめるために、夫は思ったことをそのまま口に出していた。
「僕はここで寝ていたのだったっけ? 玄関に辿り着いたのは覚えているが……。そうだ、昨日は
眠りにつく前の記憶は曖昧で、夫は未だに痛む後頭部を押さえている。偶然にもその手は、額の上に生えたばかりの角には当たらなかった。
彼が立ち上がり、部屋の障子を目指す。ずっと廊下側からは、雨戸が開けられる音がしている。夫は知らずに何もない心臓辺りの胸を触りながら、がらりと障子を開けた。
「あ、」
「旦那様」
廊下には、真っ黒な着物に真っ黒いおかっぱ頭の女中が雨戸を開ける途中で、こちらに白い布で覆った顔を向けた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
一歩部屋から出た夫は、床の冷たさに身震いをしながら、女中に挨拶をする。初めて見る女中に、首を傾げたまま、彼女が雨戸を仕舞うのをただ眺めていた。
「では、失礼します」
「うん」
女中はそのまま、廊下の突き当りにある自身の部屋の中へと入っていった。その反対側の戸から、台所の方に出て朝食を作るのだろう。
「……いつの間に、新しい人を雇ったのだろう。おふきは何も言っていなかったな。菊沢は一体どうしたのだろう。それにしても、」
顔を女中の部屋の出入り口に向けたまま、夫はひとりごちた。
「なんだか、妙な子だったなあ」
夫は彼女の姿を思い返す。白い布も気になったが、それよりも彼女がそばにいただけで、やけに胸騒ぎがする、空恐ろしくなるのが妙だった。
その時、家の奥の方から、子供がはしゃぐ声と走り回る音が聞こえてきた。夫はそちらを見て、眉を顰める。
「子供もいるのか? 一体どこの子だ?」
何故だか、自分の寝ている間に家が大きく変わってしまったかのように感じられる。
夫はふと、庭の竹林の方を見てみた。
「……これは」
そして目を見開いたまま、何も言えなくなってしまった。
垂れた竹の細い枝の間に、見慣れないものがあった。紫色の筒状のものから、白い糸が伸び、その先には黄緑色の房がある。それが、全ての竹から生えていた。
「竹の花だ」
噂でしか聞いたことのないものだったが、それが竹が咲かせた花だと、夫はすぐに分かった。まさかこの目で見る日が来るとは思っておらず、感慨深く眺めている。
しかし、すぐにあることが引っ掛かった。
「寝る前に、竹の花についておふきと話したような気がするが、なんだったけな……」
必死に思い出そうとするが、頭の中は靄がかかったかのようにはっきりとしない。
そしてまだ、今日は妻の姿を見ていないことが急に気になって、夫は置いてけぼりを喰らった子供のような顔で、辺りを見渡しながら声を上げた。
「おふき、おふき」
何度呼び掛けても、妻からの返事は無く、竹の花が風に揺れているだけだった。
竹の花 夢月七海 @yumetuki-773
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