第四話 妻と女中
それは、白い満月の浮かぶ夜の出来事だった。
共に居酒屋で酒を飲んだ夫とその友人は、二人きりで陽気に笑いながら歩いていた。
「いやー、まさか西洋かぶれで女好きの
「お前は、いつも酔ったらその話だな?」
下駄を鳴らしながら、夫は天を仰いでしみじみと語る。一方、友人は笑窪のある苦笑を浮かべながら彼に付き合っていた。
「そうは言っても、俺が婿入りしてからもう何年も経っているぞ?」
「それほど衝撃が大きかったってことだよ。一年以上行方不明になっていると思ったら、妖狐になって戻ってくるなんて、いくら僕が退魔師でも驚くさ。所で、どうやって狐になったんだっけ? 金色の油揚げを食べた?」
「前にも言ったけどな、全く違うぞ。金色の酒をお猪口一杯分だったな。米酒のような味がしたが、果実の匂いもして、一体何の酒なのか分からずじまい……」
友人の説明の途中で、強い向かい風が吹いてきた。
友人は飛ばされないようにと、いつも被っている灰色の帽子を抑え、夫は濃い紺色の羽織を着た袖をこまねいた。
「最近急に寒くなったなあ」
「そうだな」
少し酔いの冷めた夫と友人はそう言葉を交わしながら、夫の家を目指して歩いていく。左手側には雑木林が、右手側には高い塀が続く物静かな通りだった。
そこへ向かいから、一人の男が歩いてきた。真っ黒な外套を羽織って、鳥打帽を深く被っている。わざとらしく背中を曲げていたため、顔までは良く伺えなかった。
二人は突然現れた人影に、黙り込んだまま、彼と擦れ違おうとした。しかし、男は二人の目の前に来た所で、雑木林側を歩いていた夫に対してぶつかってきた。
「ぐっふ」
すると夫は苦しそうな声を上げて、前に倒れ込んだ。
「おい!
まさか通り魔に刺されたのかと、友人は倒れたままの夫の体を半回転させた。
しかし、彼は刃物で刺されたわけではなく、紺色の着物がはだけてその心臓部分に、透明の珠が引っ付いていた。
「な、なんだこれは……」
「ひひっ、やった、成功したぞ」
困惑する友人に対して、ぶつかってきた男は黒の皮手袋を嵌めた手を叩き、嬉しそうに薄気味悪い笑い声を上げる。
「……お前、分家の、者だな……、一体何が、目的……」
夫は苦しそうに息をしながら、薄目を開けて男の顔を見上げる。男は脂汗を掻きながら、にたにたと夫を見下ろしていた。
「ああそうだ。だがな、目的を言っても意味はないだろ。お前はもうすぐ鬼になるのだからな」
「そうか……やはり、これは……」
冷や汗を掻き息を切らしながらも、夫は得心が行った様子で、無理に立とうとする。友人が肩を貸して、やっと立ち上がることが出来た。
「……ともかく逃げるぞ」
硬くなった表情で友人が夫の耳元に囁くと、彼も無言で頷いた。
体に力が上手く入らない夫を引きずるように、友人は走り出した。すぐに追いつけそうな速度だったが、男は勝利を確信してすぐには追いかけずに、二人が元来た角を曲がるまでを立ったまま眺めていた。
それから、速足でやっと男は二人を追い掛け始める。角を曲がると、よたよたとしながら進む友人と夫の背中が見えた。男は迷わずそれを追う。
……男が自分のかけた幻術に惑わされたのを確認して、角を曲がったすぐ側で姿を消していた友人は、元の通りに戻ると透明の術だけを解いた。
「千代間、どこに行けばいい?」
「……一先ず、僕の家に向かってくれ。……おふきが、無事かどうかも、気になる……」
そう言った直後に、夫は激しく咳き込んだ。
「分かった、それまで耐えてくれ」
真剣な顔で友人は夫を引き摺りながら走り出す。通り慣れていた道だったが、この日ばかりは恐ろしく遠く感じた。
約十分の道則を、二十分近くかけて、二人は夫の自宅へ辿り着いた。辺りを見回す。あの男の影も姿も見えないことを確認して、友人は何度も門扉を強く叩いた。
「はい、どちら様で……」
すぐに、下がり眉が特徴の当時の女中が、怪訝そうに扉を開けた。
しかし、ぐったりとしたこの家の主人と息切れしたその友人の姿を見ると、驚いて短い悲鳴を上げた。
「ああ、旦那様、一体どうしたのですか!?」
当時の女中はあたふたと、韓紅の着物を翻しながら、庭から玄関に向かう二人の周りを行ったり来たりしている。
こんなことせずにこっちを手伝ってくれと内心では思いつつ、女性には厳しい事の言えない友人は、歯を喰いしばって段々と力の抜けていく夫を運び、転びそうになりながらも玄関の戸を開けた。
「奥様、大変です、奥様!」
直後に玄関に入った当時の女中が、家の中に向かって大声を上げる。
「菊沢さん、どうしましたか……」
それを聞いてやって来た妻は、玄関先に倒れ込んだ夫を見て、「ひっ」と息を呑んだ。
「……
我に返った妻が、夫の元へと駆け寄るが、彼は呻き声を上げるだけで上手く返答が出来ない。
そこ間、当時の女中はそわそわとしているだけで、夫の友人は開けっ放しの玄関の戸と門扉とを睨んでいた。
「僕は奴が入って来れないように、術をかけてくる」
「は、はい」
そう言って外へ飛び出し、夫の友人はぴしゃりと戸を閉めていった。
状況がまだ呑み込めないながらも、妻は当時の女中を見上げる。
「菊沢さん、貴方は秋桐さんの部屋に行って、布団を敷いてきてください」
「はいっ」
当時の女中は上擦った声で返事をして、そそくさと夫の部屋に向かう。
改めて、妻は夫を見た。顔面蒼白で目を閉じたまま、浅く息をしている。胸にくっついている珠は、触れてはいけないもののように感じ、どうやっても取れないように見えた。
「秋桐さん、秋桐さん!」
妻が夫の名を叫びながら腕を揺らすと、彼はうっすらと目を開けて、その瞳が彼女の姿を捕らえた。
「……おふき……」
「あなた、どうしたのよ」
「……今、僕の胸に、ついている珠には、……僕らの先祖が遠い昔に、封印した、鬼の魂が入っている……。……珠の中の鬼は、僕の体を乗っ取ろうと、しているんだ……」
「そんな……」
夫の説明を聞き、妻は絶句した。退魔の家に嫁いで、夫がこのように危険な目に遭って帰ってきたことはなかった。
彼の生命の危機に、目の前が黒く塗り潰されてしまったかのようで、どうすればいいのか分からない。
すると、夫が力を振り絞り、妻の手を握った。
妻がはっとして夫を見ると、彼は無理やり笑みを作って語り掛けてきた。
「……大丈夫。……これから、僕は全身全霊で、鬼の魂と戦う……。外見は、眠っているようで……体は、段々と鬼に寄ってくるのかもしれない……。でも、僕は、必ず……鬼に打ち勝つよ。……だから……竹の、花が咲く頃に、戻ってくる……」
そう言い切ると、夫の手から力が抜け、目も完全に閉じられてしまった。短い呼吸音も、眠りに入った時のような静かなものに変化した。
「秋桐さん?」
体中の震えが止まらない妻は、まだ戸惑ったままの口で夫に呼び掛けた。それに反応して、夫の瞼の中の瞳が動いた。
「……おふき……」
最後に、夫は蚊の鳴くような声だが、妻の名前を呼んでくれた。
それ以来、夫は眠り続けている…………………………………………………
◆
空は真昼でも白く厚い雲に覆われて、辺りは少し薄暗い。妻は自室の畳の上に剣山と水の入った器を置き、趣味の生け花を行っていた。
そこへ、障子の外に人影が座り込むのが見えた。すぐに女中の声が聞こえる。
「奥様、お茶が入りました」
「どうぞ」
障子がすっと開く。庭から笹が揺れる音と乾いた風が部屋に入ってきた。
「失礼します」
熱い茶の入った湯飲みを盆に載せた女中は、机の上にその湯飲みを置き、会釈をした。
「いつもありがとう、椿さん」
「いえ。……では、」
「ちょっと待って、椿さん、少しお話ししましょう」
そのまま部屋を去ろうとした女中を、妻は右手に花を持ったまま呼び止めた。
突然の事に、白い布越しの顔から戸惑いを滲ませる女中に、妻は予め押し入れから出して机の下に置いていた座布団を彼女に勧めた。
「それでは、お言葉に甘えて」
少しぎこちない動きで、女中は妻の正面に置かれた座布団に腰を下ろした。妻はその様子を、目を細めて見守っていた。
「椿さんとこうして向かい合ってお話しするのは、一番最初に会った時以来ね」
「そうですね。妙に改まってみると、少しお恥ずかしいですね」
女中は照れて、顔を下に向けたまま、もじもじと体を揺すっていた。
「そう畏まらなくてもいいのよ。……正直言うとね、ここに来る女中さんたちは、みんな訳ありが多くて。椿さんの事も、最初は驚いたけれど、あまり気にならなかったわ」
「退魔を生業としている家系ですから、遠慮されることの方が多いのでしょうか」
「もっと正直に言うと、不気味だからみんな近寄らないだけなのでしょうね。一番長く続いた菊沢さんも、秋桐さんが眠った時に、辞めてしまって。ただ、秋桐さんの代から仕事は段々と減ってきていて、今ではもう家に張っていた結界も消してしまったの」
「そうでしたか」
「その一番のきっかけは、友人の莇さんが婿入りして、妖狐に変化してしまったからだけれども」
「ああ、成程、そうでございましたか」
女中は友人の正体を聞いても、驚かずに納得した様子で頷いている。
それを見て、妻はくすりと笑った。
「やっぱり、莇さんの事、気付いていたのね」
「はい。門を出た所で、変化を解いていたので」
「莇さんは、夫を襲った人たちに気付かれないようにと、家を出る時は化けるのをやめるの。ただ、違和感がないように、貴方には幻術をかけていたみたいだけど、効かなかったようね」
「申し訳ありません。莇様には、内密にしていただいてください」
「謝る必要はないわよ」
妻はくすくすと笑う。何処か世事とずれがあるこの女中が、愛おしく感じていた。それから、ふと遠くを見るような顔つきになった。
「世の中の人が、科学を信じるようになってきた一方で、妖怪たちは段々と力を失っていくようになった。だから、今の妖怪たちの中に、人を襲って殺せるほどの力を持つものは少なくなっている。本当に助けを求めているのは、そういう力のない妖怪たちなのかもしれない。僕はここをそういう妖怪たちに対する駆け込み寺のような場所にしたいと、結界を解いた時に秋桐さんは言っていたの。実際には、結界の余波が残っているのか、妖怪たちは全く来ないんだけどね」
「素晴らしいお心がけだと思います」
「そんな時に、ツル君がここに迷い込んで、そのまま居ついてくれたのは、正直嬉しかったの」
「おや、お気づきでしたか」
女中が驚きの声を上げると、妻は微笑を浮かべて頷いた。
「最初に見た時は分からなかったわ。私には霊を見る力がないのだから。でも、椿さんが誰もいない場所に向かって話しているのを見た時に、もしかしたらって思ったの」
「そうでしたか」
静かに頷く女中を、妻は眺めていた。
しばらく二人は黙っていた。沈黙が流れる室内で、妻の持つ花の香りが強くなる。そして、庭の笹が揺れる音が微かに耳に届いた時、妻が口を開いた。
「椿さん」
「はい」
「貴女は、本当は人間ではないのでしょう?」
「……」
「私の事を、お迎えに来たのでしょう?」
「……はい」
観念したように、女中は妻の指摘を肯定した。そのまま、布で覆った顔が畳に突きそうなほど、深く頭を下げる。
「大変申し訳ありません」
「どうして謝るの? これが、あなたの仕事でしょうに」
妻が悲しそうに女中に問いかける。それを受けて、女中もやっと顔を上げた。しかしまだ下を向いている。
「一体いつ、気付かれたのですか」
「最初、ここの門の向こうに立っているのを一目見た時から、そうなのだと思ったわ」
しんしんと降る雪のような妻の言葉に、女中はさらに頭をもたげていた。
そのまま、妻は無意識に開いた左手を自身の腹部に宛てて、続けた。
「私は、かつて、死を何よりも身近に感じたことがあったの。貴女を初めて見た時も、怖いというよりも懐かしかった。おかしなことを言うとね、ずっと貴女の事を待っているような気すらしてきた」
妻が優しく語り掛けても、女中は重く項垂れたままだった。妻が「椿さん」と呼び掛けても、反応しない。代わりに、彼女の布の向こうから洟を啜る声が聞こえてきた。
「椿さん、椿さん。……泣いているの?」
「……私は、私は大変申し訳なく思っているのです」
突然、女中は顔を上げた。白い布の目元には、涙の染みが滲んでいる。呆気にとられる妻に向かって、女中はくぐもった声で言葉を紡ぐ。
「奥様は、旦那様の事を強く思っていらっしゃるのに、それを私が引き裂いてしまいます。旦那様が目を覚ますその瞬間を、奥様が強く望んでいることを、ここで働いていた私が誰よりもよく知っています。しかし、奥様の死期を私は変えられません。私は結局、奥様を定められた運命に導くことしか出来ないのです」
妻はそれを、大きく首を振って否定した。
「椿さん、自分を責めないで。これは、きっと最初から決められていたことなのでしょう? 仕方ないわ。むしろ、秋桐さんじゃなくて私の方に迎えに来てくれたことが、ありがたく思っているくらいなのよ」
妻はそう言って笑う。それは決して無理をしている笑顔ではなかった。
それに対しても苦しそうに胸を押さえている女中に、妻は「じゃあ」とひとつ提案をした。
「そんなに申し訳なく思っているのなら、一つお願いしてもいいかしら?」
「……何でございましょう」
「私がいなくなっても、この家で勤めていて欲しいの。秋桐さんの事もあるし、ツル君も心配してしまうだろうから」
女中は一度ぴたりと動きを止めたが、改めて「かしこまりました」と丁寧に頭を下げた。そして、自らを落ち着かせるように深呼吸をする。
「奥様は、死を迎えることが、私のことが怖くはないのですね」
「ええ。全く怖くないわ。後悔もないというわけではないのだけれど」
妻は強がっている訳でもなく、自然な様子でそう言い切った。
女中は眩しそうに妻を見上げる。永く永くこの仕事をしてきた彼女にとって、これほど穏やかに死を受け入れる人間と出会ったのは初めてだった。
ただ、その反面、女中の胸の内に、申し訳なさが再び迫り上がってきた。
「その後悔という点に関しては、本当になんと申し上げていいのか……」
「椿さん、そんなことはもう言わないで」
妻は悲しそうな顔をして女中に言う。
「私は、椿さんを雇って良かったと思っているのよ。椿さんのことを、女中じゃなくて、本当の――――」
妻の言葉は途中で途切れ、右手からは花が滑り落ちた。
「おふきさん、私も、貴方にお仕えできたことを、心の底から感謝していますよ」
風にのって笹が揺れる音の中で女中は、くぐもっていない声で語りかけた。
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