第三話 妻の弟
辺りはとても静かだった。確かにここいらは住宅よりも林の多い区域だったが、両隣の生活音が縁側に立っていても聞こえてこないのは、殆ど異様な事のように思えた。
この家に嫁いだばかりの妻は、その事に戸惑いながら、庭の竹林を眺めていた。近隣の音を吸い取ってしまったかのように、竹だけが揺れてさらさらと音を流している。
まだ若かった妻は、酷く怯えた顔で、耳を澄ませていた。何かが差し迫ってくるような気がして、扇面模様の黄色い着物の袖をぎゅっと握る。
「おふき、何か見えるのかい?」
その時、背後から夫に話し掛けられて、妻はほっとした顔で振り返った。
先程までの不安を悟られないようにと、何でもないような調子で妻は説明する。
「ただ、竹林を眺めていたの。ここはとても静かだと思いながら」
「そうか。僕はここで生まれ育ったから、あまり気にしたことはなかったけれど、確かに普通の家よりも静かなのかもしれないね」
妻の隣に立った夫は、優しい口調でそう返した。妻は彼を見上げる。
灰色の格子模様の小紋を着た夫は、短い黒髪に線の細い体だったが、年齢よりも落ち着きのあるように見られていた。早くして両親を亡くした影響か、争いを嫌い物腰も柔らかい。その事も、妻は非常に好いていた。
「……おふきは、竹の花を見たことがあるかい?」
「いえ、見たことないわ」
妻は素直に首を振った。彼女は、竹は筍から成長する姿しか見たことがなく、竹に花が咲くことも初めて知った。
「僕も見たことないよ」
「あら、そうなの?」
「僕の父、祖父も見たことが無かったらしい」
夫の説明に、妻は目を丸くする。昔からこの家で、竹林に囲まれて暮らしている夫やその家族なら、彼女の見たことのない竹の花を目にしたことがあるものだと思っていた。
「昔読んだ本によると、竹に花が咲くまでに百年ほどかかるらしい。だが、父や祖父がまだ見たことが無いとしたら、僕らの代で花が咲くのかもしれないね」
真っ直ぐに竹を見詰めたままの夫の紡いだ言葉の中に、「僕ら」と言っている部分があって、妻はただそれだけで嬉しくなった。
「花が咲くのなら、実もつけるのかしら」
「ああ、つけるよ。ただ、その後竹は全て枯れてしまうんだ。だから、昔から、竹の花は凶事の前触れと言われているんだ」
「そう、知らなかったわ……」
妻は今まではしゃいでいたことが恥ずかしくなり、声が段々と小さくなってしまった。
「花を咲かせた後に枯れてしまうなんて、とても寂しいわね」
「そうだね。……ただ、僕は逆だと思っている」
「逆?」
夫の顔を見上げると、彼は子供のように澄んだ瞳で竹林を眺めていた。
「竹は、自分の寿命が分かったから、最後に花を咲かせて次の世代を繋げようとしているんじゃないかってね。凶事だと言っているのは人間たちの方で、竹にとっては新しい命を生み出すための希望のようなものだろう」
「ええ、その考え方がずっと素敵ね」
妻は胸いっぱいに、竹の青い匂いを吸い込む。先程まで恐ろしかった竹林の静けさが、彼女の中にしみこんでいくのを感じた。
自然と口角を上げて、妻は歌うように喋る。
「二人で、竹の花が見れる日が来るといいわね」
「うん。楽しみだ」
竹の鮮やかな緑を、風に揺れ続ける細い枝を、木漏れ日を地面に落とす葉を、夫婦は飽くることなく眺めていた。
◆
昨晩から降り始めた雨は、正午を過ぎても止む気配を見せない。突然雨脚が強くなることはなく、一定の拍子で降り続けていた。
湿った匂いで満ちた客室で、水色の青海波模様の着物の妻は、唐突にこの家を訪ねてきた詰襟に濃い緑の着物の弟と向かっていた。
弟は、最初の挨拶以来一度も喋っていなかった。女中が運んできてくれた茶にも手を付けず、それはすでに冷えてしまっている。永遠に続くと思われた沈黙を、やっと弟が破った。
「……手紙、読んだよ姉さん」
重苦しい空気は、その一言でさらに比重を増した。
相手の声に、多少怒りが含まれていることを感じ取り、妻は黙っている。
「もっと早く行って欲しかったよ。こんな事態になっているなんて。姉さんはいつも後出しばかりだ」
「申し訳ありません。学業の邪魔になるのではないかと思い、中々連絡を付けられずにいました」
妻は深々と頭を下げた。それを見て、やっと弟は蒼の細い縞の袴の上に作っていた拳を少しだけ緩めた。
「別に攻めている訳じゃないんだよ。……ただ、もっと早く知りたかっただけで。それよりも、手紙に書かれていたことは本当?」
「はい。事実です」
妻に射竦められて、弟は身動ぎする。しかし、鋭く彼女を睨み返し、後を続けた。
「義兄さんがそんな状態なら、もうこの家を出てもいいんじゃないかな」
「……」
弟は雷を落とした心持ちで、会心の一言を放ったが、妻の方からの反応はなかった。焦りを抱きつつ、弟は矢継ぎ早に言葉を並べる。
「父さんや母さんも、姉さんの事を責めやしないさ。退魔の家に嫁いだ時から、こうなることも覚悟していたと思うよ。それに、今の所は何の脅威は現れていないって書いてあったけれど、これからも大丈夫だという確証は全くない。姉さんだって、この家にいたというだけで、どんな目に遭うのかわかったもんじゃない。それに、義兄さんの友人が、この家全体に術をかけているから、敵意のある者は幻惑されると言っていたけれど、その人も数年前に妖狐になったばかりだろ? いつかそれが破れる可能性だってあるはずだし、」
「
今まで弟の話に耳を傾けていた妻は、やっと口を開いて反論した。それに対しても、弟は眉間に皺を寄せるだけである。
「それでも、今は対妖怪の結界が家に張られていない状態なんだろ? 義兄さんが眠っている状況で、妖怪が入ってきたら、姉さんはどうにもできないじゃないか。わざわざそんな危険を冒してまで、ここに残る意味はあるのかい?」
「
少しずつ声を荒げていく弟に対して、妻は静かに一言一言を放つ。しかしそれには、水面に波紋が広がっていくような強さを伴っていた。
「でも、妖怪の方は大丈夫でも、訪問客を装って、義兄さんをあんな目に合わせた奴らが現れるかもしれない。いや、もうすでに入り込まれているかも」
「入り込まれている?」
弟の明朗とした言葉に、妻は素直に首を傾げる。すると弟は、先程までの激情を潜めて、客室の外には聞こえないように声を小さくして言い放った。
「あの新しい女中は、一体何者だい?」
「椿さんの事ですか。彼女は先日雇った方で、新聞に募集をかけたところ来てくれました。仕事も丁寧ですし、前の女中さんたちのように、私との約束を守って、秋桐さんの部屋に入らないでいてくれます」
「あの人が、実は奴らの密偵かもしれない」
「……」
弟の小さくても矢のような鋭さのある一言に、妻は完全に口を噤んでしまった。
それに勝ち誇ったかのような顔をして、弟はさらに畳みかける。
「あんな風に顔を隠している時点で可笑しいじゃないか。きっと変装なのかもしれない。いや、姉さんに正体を悟られないようにしているのかも。どちらにせよ、こんな所に急に現れて、こちらの事情も詮索せずに働いているなんて、やっぱり義兄さんの事を知っているからそうできるのかもしれない。どう考えても可笑しいよ。あんな格好をしたのが普通の人間の筈が、」
「彼女の事、あまり知らない癖に、悪く言わないで下さい」
今度は弟が押し黙る番だった。久しぶりに聞いた姉の大声に、弟は次に言おうとしていた言葉を完全に呑みこんでしまった。
次に口を開いた妻は、先程までと同じ静かで力強い声だった。
「椿さんが顔を隠している理由を私は知りませんが、人にはそれぞれ事情があるものです。椿さんも、こちらの事情を察してくれて、詮索しようとしていないだけですよ。これが、私たちの信頼関係を成り立たせているだけなのです。それに……」
一度言葉を切った妻は、微笑を浮かべて続けた。
「彼女と話せばすぐ分かります。椿さんは、普通の女性ですよ」
妻からの思いもかけない反論に、弟は何も言い返せず、困惑したように視線を泳がせていた。そして、深々と溜息を吐いた。
「……姉さんはこの家に嫁いでから変わったよ。まるで、他人のように感じる」
「そんなことはありませんよ」
「じゃあ、なんで僕に対して敬語なんだい?」
再び鋭利さを取り戻した弟の言葉に、妻の笑みは蝋燭の火のように吹き消えてし
まった。
「僕にとって、あの家の中で家族と呼べる存在は、姉さん一人だけだった。他のみんなは、お金や損得の事しか考えていなくて、本当の意味で僕の事を心配してくれたのも、愛してくれたのも、姉さんだけだった。姉さんは僕が困っていると、すぐに気付いて助けてくれた。だから、僕も出来る限りは姉さんの助けになりたいと思っていた。それなのに、姉さんはこののっぴきならない状況を、今までずっと黙っていた。教えてくれたのも、わざわざ手紙で、本当は僕に来てほしくなかったんだろ? 姉さんが僕を見て驚いてたのを、僕は気付いていたよ」
「
項垂れて肩を震わせる弟の名前を妻は読んだが、彼はこちらを見ようともしない。そこで妻は立ち上がり、弟の前に座り直した。そのまま、彼の固く結ばれた拳を持ち上げ、両の手で包み込んだ。
はっとして顔を上げた弟を、妻は優しく見つめ返す。そして、歩くような速さで言葉を紡ぎ始めた。
「私は、この家に嫁ぐ時に決めたの。この家の中では、どんなことが起こるのか分からない。だから、出来るだけ家族とは距離を置こう。この家での事情には、絶対に関わらせないでおこうって。櫟に手紙を出したのは、何も知らない貴方がこの家を訪れて、厄介なことに巻き込まれてしまわないか心配だったから。貴方が他人のように思えたからじゃないの。それだけは、信じてほしい」
弟はじっと妻の言葉に耳を傾けていたが、最後の一言に今まで堪えていた感情が堰を切ったように涙と共に溢れ出てきた。
「……結局、姉さんは僕よりも義兄さんの方が大切なんだね」
「そんなことは言わないで」
妻は弟の言葉をはっきりと否定し、ゆるゆると首を振った。同時に、弟の手を握る両手に力を込めた。
「貴方の事を愛しているのは、今も昔も変わらないわ。ただ、秋桐さんの事が、私の生活の一部になってしまっているだけの事なの。……それにね」
妻はゆっくりと弟から手を離した。縋るように彼女の瞳を見詰める弟に、優しく微笑みかける。
「貴方はあの家の事を酷く嫌っているけれど、本当はみんな貴方の事を大切に思っているのよ。今はまだ気付いていないみたいだけど、いつかきっと分かるようになるわ」
「姉さん、でも、僕は……」
それでも不安そうな弟を、妻は突然抱き締めた。
「櫟、貴方は素晴らしい人よ。もっと自信を持って」
最初は戸惑っていた弟も、姉の温かさに触れて、子供のように声を上げて泣き出した。その時雨脚は急に激しくなり、それはまるで弟の泣き声を掻き消すかのようだった。
◆
差した蛇の目に、ぽつぽつと雨の落ちる音がする。雨脚は激しくなったまま、止む気配を全く見せない。
少し前を歩く女中の背中を、弟はついていきながら凝視していた。真っ黒な着物と同じく黒い髪、その真ん中には白い紐の結び目が見える。弟は草履を履いた足袋にも庭の水たまりが浸み込んでも、決して足元を見ようとしなかった。
弟の眉間には皺が寄っている。久しぶりに訪れたこの家で、初めてこの女中に迎
え入れられた時に感じていた胸のざわめきが、再び潮のように満ちていくのを感じていた。
顔を隠していることを差し引いても、なぜ彼女に不安を抱くのか、弟は未だ理由が分からない。ざわめく胸を押さえて、息まで苦しくなっていくような気がしてきた。
蛇の目を差した女中が、門扉を開けたまま弟を待っていた。彼は会釈をして、門をくぐる。女中もその後に続こうとしたが、弟が制した。
「ここまでで結構です」
「かしこまりました」
先日夫の友人が来ていた時と同じ申し出だったが、彼と違って弟は冷たい声だった。対して女中は、夫の友人と全く同じ対応をする。
門から出た弟は、雨の中を二三歩進んだ所でもう一度足を止め、まだ開いたままの門扉の向こう、顔をこちらに向けてしゃんと立っている女中の方を振り返った。
「君は……一体何者なんだ? 何か目的があってここで働いているのか?」
僅かな逡巡を得た後に、最初に女中の姿を見た時から抱いていた疑問をぶつけてみた。
女中はそれに対して、暫く沈黙を通した。布に覆われた顔からは、驚きも焦りも読み取れない。雨の音が、この場で静かに響いていた。
「……申し訳ございません。今はその質問には答えることが出来ません。ですが、」
女中はくぐもった声で話し始めた。弟は蛇の目に当たる雨粒に負けそうなその声に、ただただ耳も傾けていた。
「それらは、その時が来れば自ずと分かります」
女中の淡々とした受け答えに、弟は何も言い返せず、少しだけ顔を顰めるだけだった。
雨は未だ勢いを衰えさせず、二人の姿を掻き消すかのように降り続けていた。
◆
ぱたんと、背後で障子がしっかり閉まったのを、手元で確認して妻はその部屋に入った。
室内はいつでも薄暗かったが、雨の降る今日はさらに暗い。輪郭のぼんやりしたその部屋で、妻の視線は足元で眠る人影に注がれていた。
誇りと湿り気の混じった空気を吸いながら妻は歩を進め、眠り続けている人物……夫の枕元に跪いた。
「あなた、今日は櫟が来ていたわよ」
妻は夫の顔を見ながら喋り始める。しかし、その視界は、彼の枕を捕らえていた。
「私がここでの出来事を書いて手紙を出したから、来てくれたの。手紙を出した時にね、櫟を遠ざけたいのはもちろんだったけれど、半分は彼に会いたいという気持ちもあったの。私は本当に卑怯ね」
妻は弱々しい自嘲を浮かべながら、語り続ける。
「櫟は、私をここから連れ出したかったみたい。でもね、私はここに残るって覚悟を決めていたから、駄々をこねる彼を抱きしめて、無理に納得させちゃった。こういう所も、卑怯すぎて嫌になる」
妻は再び笑おうとするが、頬が強張って上手くいかなかった。
そしてやっと、妻は夫の現在の顔をはっきりと見た。
生気のない、真っ白な夫の顔は、以前と殆どと変わらない。ただ、普通に眠っている人間と違うのは、髪の毛や眉が全く伸びていない事だった。
妻はそっと、彼の頬に触れる。じんわりと生き物としての体温を感じる。夫が生きているということが、彼女にとって希望になるのか絶望になるのかはまだ分からない。
顔の中で唯一、夫には変わりつつある点があった。それは、額の少し上、黒い髪の毛を掻き分けて生えている、二本の小さな角だった。
妻は布団をめくって、隠れていた夫の胸も見た。寝間着代わりの白地の浴衣がはだけている。彼の心臓部分には、握り拳大の透明な珠が埋め込まれていた。
妻はそれらを眺めて、角の伸び具合と珠の埋まり具合が昨日と変わっている事を確認する。妻は夫の額を優しく撫でながら、呟いた。
「ねえ、秋桐さん、あんな約束なんて、律儀に守らなくてもいいのよ?」
夫に触れる妻の手が、声が震え出していた。
妻の瞳から零れた涙は、着物に落ちて染みとなった。
雨はまだ、止む気配を見せない。
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