第二話 見知らぬ少年


 寝る前の時間、妻はいつもまとめている髪をほどき、女中に櫛で梳いてもらっていた。

 女中は左の掌に髪の束を載せ、右手に持った櫛を上から下ろしていく。その間、一度も櫛は髪に引っかからなかった。


 部屋の真ん中は、昼間置かれている机が隅に追いやられ、代わりに布団一式が敷かれていた。部屋の出入り口の反対側には、窓が嵌め込まれている。


 ふと、妻は横目でその窓を見た。雲は全く出ていないが、夜空には月が浮かんでいない。


「そういえば、今夜は新月でしたね」

「そうでしたね」


 女中は返答した後、後頭部から右側へと移動して、そこの髪を梳かし始めた。


 視界に入ったのが、窓ではなく白い女中の布に変わったところで、妻は目線を向かいの押し入れの戸に変えた。

 彼女は今、若緑色の浴衣を寝間着代わりに着ている。


「……昔、秋桐あきぎりさんが教えてくれたの。闇が一番深くなる新月の夜は、妖の力が一番強くなるから、気を付けた方がいいと」

「そうでしたか、旦那様がそのような事を」


 女中は、まだ会ったことのないこの家の主人の言葉に、感慨深く頷いている。そして、それを引き継ぐように、隠された口を開いた。


「と同時に、新月は霊力が上がる夜でもありますからね。普段は視えないものとも関われるようになるそうですよ」

「あら、そうなの? それは知らなかったわ」


 妻がそう言い終わった直後に、女中は彼女の髪を手放した。さらりと、彼女の髪の毛は元の位置へと戻っていく。


 妻は女中を見ながら微笑んだ。


「ありがとう、椿さん」

「いえ、お礼などよろしいですよ」

「そんなことないわよ……。ところで椿さん、あなたって手が少し冷たいのね」


 突然真顔になった妻の質問に、女中は少し戸惑ったように、自身の手を擦り合わせる。


「そうですか? あまり気にしたことありませんでしたね」

「とっても冷たいって訳ではないのだけれどね。聞き流してもいいのよ」


 妻は立ち上がり、布団の方へと向かう。それを見た女中も同じく立ち上がり、部屋の外へと向かった。


「雨戸を閉めておきますね」

「はい。椿さん、おやすみなさい」

「おやすみなさい、奥様」


 女中は布で覆ったままの顔を下げて、部屋から廊下へと出た。障子を閉めた彼女が、「あら」と声を上げるのを、電灯の紐に手を伸ばしていた妻は気付いた。


「椿さん、どうしたの?」


 障子を開けて、妻は不安げな顔を出す。

 竹林が広がる庭に目を向けていた女中は、困惑したように彼女の方を見上げた。


「いえ、今、竹林の方に、人がいたような気がして……」


 女中の言葉を受けた妻の眉間に、皺が寄った。掴んだままにしていた障子の枠を、さらにぎゅっと強く握る。掌に木の角が当たっても、気にならないほど妻は緊張を漲らしていた。


 その直後、一本の竹の後ろから、背の低い人影がひょっこりと顔を見せた。


「あらあら」


 明らかに子供の侵入者を見て、妻は目をぱちくりさせる。先程までの緊張感は、溶けてなくなってしまったようだった。


 六歳ほどの少年は、観念したように竹林から出てきた。もう夜が深くなっていた筈なのに、彼は学校で着るような白地に黒の豆絞りの着物に、下駄を履いて学帽を被っていた。


 自身の指を恥ずかしそうにいじっている少年に対して、妻は安心させるように笑顔を作って優しく語り掛ける。


「どうしたの? おうちはここの近く?」

「うん……」


 少年は下を向いていたが、意を決したように二人の方を見た。


「あのね、ぼく、タケノコを取りに来たんだ。ここには、竹がたくさんあるから……。勝手に入ってきて、ごめんなさい」


 勢いよく頭を下げる少年に、妻は仕方ないというように溜息を吐いた。


「しょうがないわ。今度からは、ちゃんと入っていいか訊いてね。それに、筍は朝早い時間に生えてくるものだから、夜に探しても見つからないわ」

「えっ? そうだったの?」


 驚いて顔を上げる少年に、妻は大きく頷いた。


 そのような二人のやり取りを眺めていた女中は、心配そうに妻に尋ねた。


「どうしましょうか?」

「そうね、きっとご両親も探しているのかもしれないから、椿さん、この子の家まで送ってもら」

「あ! 今、ぼくんち、みんなお出かけしていて、誰もいないんだった!」


 突然大声を出して、少年は妻の言葉を遮った。


「じゃあ、誰もいないの?」

「う、うん」


 少し気まずそうに頷く少年を不思議そうに眺めながらも、妻は一つ提案した。


「家に帰りたくないのなら、ここに泊まっていっていく?」

「うん! 泊まりたい!」


 急に、今までもじもじしていた少年は元気を取り戻し、嬉しそうに叫んだ。

 ほっとした妻は、早速少年を手招きする。


「ほら、こちらにいっらっしゃい。外は寒いでしょ?」

「はーい、お邪魔しまーす」


 子供らしい明るい声で、ぴょこぴょこ跳ねながら少年は妻と女中の方へと行く。そして下駄は脱ぎ捨てて、縁側から廊下へと入っていった。


 目の前に立った少年は、同年代の子よりも背が低く、少し痩せているようにも見える。しかし、にこにこと笑顔を絶やさなかった。


「おなか空いていない? 椿さん、確か夕食が残っていなかった?」

「はい。用意いたします」

「あ、ぼくおなか空いていないから、ご飯はいいよ」


 少年が妻を見上げて話す。特に虚勢をはっているわけでもなさそうであった。


「あらそうなの? じゃあ、私のお部屋に行きましょうか。椿さん、予備の布団を敷いてくれる?」

「かしこまりました」

「ぼくもお手伝いするー」


 静々と妻の部屋に入っていく女中の後を、少年はとたとたとついていく。


 妻は障子が閉められた後に、縁側の方を振り返る。屈んで少年の脱げ散らかした下駄を揃えてみる。驚くほど冷たい少年の下駄を持ち上げた時に、ふと疑問が口から零れた。


「門が開く音はしなかったけれど、あの子はどうやって庭に入ってきたのかしら」


 しかし、それに答えられる者はなく、風に揺れる笹の音が大きくなるだけだった。


 ……一方、妻の部屋の女中と学帽を外して五分刈りの坊主頭を見せる少年は、二人掛かりで一組の布団を敷いていた。それが終わると、大きく膨らんだ布団を見て、うずうずとしていた少年は耐え切れずにその布団の上に飛び込んだ。


「わあい、ふかふかだあ」


 布団の柔らかさを全身で堪能している少年を、女中は黙ったまま膝の上に手を揃えて見ていた。

 しばらくしてはっと少年は我に返り、布団から降りてしおらしく女中に頭を下げる。


「ごめんなさい。はしゃぎすぎてしまいました」

「別に謝らなくてもいいですよ。子供は元気が一番ですから」

「えっ? いいの?」


 優しい声で窘めてくれた女中を、少年は小さな瞬きを何度もしながら見上げている。


「でも、お父さんははしたないって叱るよ?」

「ここでは好きなようにしても構いません。奥様も、きっと同じことをおっしゃると思います」


 女中の言葉に、少年は泣きそうになる。


 そこへ、妻が部屋に戻ってきた。彼女の手には、赤い半纏が握られていた。


「私の夫の物だけど、少し大きいかしら?」

「ううん、いいよ! おばさん、ありがとう!」

「どうもいたしまして。ええと、君は……」

「僕はツルっていうんだ!」


 妻から受け取った大きめの赤い半纏を着て、少年は無邪気な笑顔で答える。

 妻もそれを見て、目を細めた。


「さ、ツル君、もう遅いから寝ましょう」

「うん。でもその前に、ご本を読みたいな……」


 相手の顔を伺うように、恐る恐るそう尋ねた少年を、勿論妻は叱ることなどせず、「少し待ってね」と言って彼の前から離れた。


 妻が本棚で子供でも読めそうな本を探している間、少年は不思議そうな顔で女中をじっと見詰めていた。そして、初めに彼女の姿を目にした時から気になっていた疑問をぶつけてみた。


「ねえねえ、お姉さんは、それのままで前が見えるの?」

「ええ。この布は目がとても粗いので、先のものが透けて見えるのです。これを付けたまま、買い物も料理もできますよ」

「へー、すごいや」


 子供の無遠慮な質問に対しても、女中は丁寧に説明する。一度納得した少年だったが、まだ女中の顔を見詰めながら首を捻っていた。


「……お姉さん、ぼくとどっかで会ったことあったっけ?」

「いいえ。初対面ですよ」

「そうだよね……」


 頷きながらも、少年はまだ納得していない様子だ。

 少年はまだ言葉で表すことが出来なかったが、彼が女中に感じていたのは既視感ではなく懐かしさであった。


 二人のやり取りの間に、妻は本を一冊選んで、布団へと戻ってきた。


「ツル君、ごめんね。絵本じゃないけれど、いいかしら?」

「ううん。嬉しいよ」


 少年は胸を高鳴らせながら、布団に潜り込んだ。

 妻も隣の布団に入り、上半身は起こしたまま、本を開いて朗読する準備をしていた。


 女中は音を立てないように、部屋の外に出る。そして、廊下側へと体を出して、障子を締め切る前に二人を眺めながら、布越しに口を開いた。


「私は先に失礼します」

「ありがとう、椿さん。おやすみなさい」

「おやすみなさーい」

「はい。おやすみなさい」


 これで今日二回目である就寝の挨拶を交わして、女中は障子をぴたりと閉めた。


 妻は、開いていた本の文字を指で辿りながら音読し始めた。

 少年は、目を輝かせながら、彼女の言葉を待っていた。


「『白』……ある春のひる過ぎです。白と云う犬は土の匂いを嗅ぎ嗅ぎ、静かな往来を歩いていました。狭い往来の両側にはずっと芽をふいた生垣が続き、そのまた生垣の間にはちらほら桜なども咲いています。白は生垣に沿いながら、ふとある横町へ曲りました。……」


 朗読が続いている間、廊下では雨戸が閉められる音がガタガタと響き、辺りは一気に暗くなった。庭の音が遮断され、妻の声だけが淡々と流れている。


 少年はじっと布団にくるまったまま、妻の声に耳を澄ましていた。温かくて優しい声を聞いている内に、少年は段々とうとうとしてくる。少年は目を閉じる。


「『へっ、姉さんだって泣いている癖に!』……ツル君? 寝ているの?」

「うーん」


 妻の質問に、少年は半分眠っている頭で、もぞもぞと体を動かす。そして、目を閉じたまま一言だけ呟いた。


「……おばさんが、本当のお母さんだったらいいなあ……」

「えっ? それはどういう……」


 妻は彼の言葉の真意を尋ねようとしたが、すでに少年は寝息をたてていた。


 仕方ないので、妻はそのまま立ち上がり、電灯の紐を引っ張って消した。真っ暗な自室は、毎晩寝る前に見ている筈なのに、何故か肌寒さと突然置いてけぼりにされたような恐ろしさを感じて、妻は慌てて布団の中に入った。


 それでもまだ、部屋の隅に廊下の端に、闇がさらに濃くなっているような気配が続いている。新月の夜がまだ始まったばかりだということを意識しながら、妻は目を閉じた。






   ◆






 その晩、妻は昔の夢を見た。夢の中の白黒の縦じまの麻を着た彼女は、酷く疲れた顔で、布団の上に座っていた。


 辺りは、汗の匂いと僅かな血の匂いで充満していた。

 しかし、妻は昼間の光が入ってくる窓を開けようとも、乱れた髪を直そうともせず、泣き腫らした赤い目でぼんやりと座っているだけだった。


 無意識に、彼女は自身の腹を撫でていた。数日前まで、元気に腹の内側を蹴っていた命は、今はいない。

 腹を触ることは虚無感を増やすだけだと分かっていたのに、彼女はまだ手を動かしていた。


 そこへ、障子が開き、淡い藤色の紬を着た夫が部屋に入った。

 妻は非常に気怠そうに、彼の顔を見上げた。


「…………秋桐さん……」


 妻が夫の名を呼ぶまで、酷く時間がかかった。

 しかし暗い顔をした夫も、彼女に呼ばれてやっと彼女の真横に座った。


 夫は暗闇の中で歩を進めるように、言葉を探しながらゆっくりと話し始めた。


「……昔読んだ小説に、こんな話が載っていたんだ」

「……はい」

「その小説の中では河童の国が出てくるのだが、河童たちは生まれてくるかどうかを、親ではなく子供が決めるそうだ。つまり、自分は河童に生まれたくないと思ったら、自ら……その、死を、選ぶと……」

「……」


 妻は苦しそうに苦しそうに言葉を紡ぐ夫の姿を、静かに眺めていた。


「……僕らの子供も、もしかしたら、同じなのかもしれない。他の命を滅して財を成す家業を、嫌って、この家を選ばなかっただけなのかもしれない。だから、きっと、他の子が、ここの事を気に入って、いつか来てくれるよ」

「……そうですね」


 彼女は、ただ頷いた。納得した訳ではなかったが、夫の励ましを今は受け入れたかった。だが話の内容よりも、彼が背中を擦ってくれていることが、ほんのり嬉しかった。


 夫が部屋を出てしばらくした後、妻は手水に行こうと廊下に出た。その途中に通りかかった夫の部屋が、僅かに開いているのを見た。

 反射的にそれを閉めようと手を伸ばすと、意図せず室内の夫の姿が見えた。


 彼はこちら側に背を向けて、胡坐をかいていた。その背中が、僅かに震えている。耳を澄ますと、洟を啜る声もした。


 妻は音をたてないように障子を閉めた後、膝の力が抜けてその場に座り込んでしまった。

 夫の言葉が、自分へと優しさであれ強がりであれ、そのあまりの馬鹿馬鹿しさにそのまま声を殺して泣いていた。


 すぐ背後の庭は、悲しいほど朗らかな陽気に包まれていた。






   ◆






 翌朝、目覚めた女中は早速、朝一番の仕事として、雨戸を一枚開けた。

 すると、朝日の昇り切っていない白い光に満ちた空の下、庭の竹林の中に昨晩の少年が、初めて会った時と同じ格好で立っているのが、布に覆われた視界でも分かった。


「筍は見つかりましたか?」


 女中が柔和な声で話しかけると、少年は下がり眉で両手の人差し指を叩き合いながら答えた。


「タケノコは、別に欲しくないんだ。ただ、おうちに帰りたくなくて……」

「そうだったんでしたか?」


 女中は、大袈裟に驚いて見せる。


 少年は小さく頷いて、ここに来た本当の理由を話し始めた。


「急にお父さんとお母さんが、よく怒るようになって、ぼくが失敗したら、叩いたり、ご飯をお預けしたり……、今までは優しかったんだけど。学校に入ったからって言ってたけど、ぼくは知ってる。ぼくを、『ようし』に出そうとしているんだってこと。『ようし』の意味はよく分からないけど、ぼくを遠い所に連れて行こうとしているんでしょ? そんなの、絶対に嫌だよ」


 話が進む内に、少年の顔は段々と赤くなって、今にも泣きだしてしまいそうになった。

 その様子を見た女中は、彼に「それなら」と提案した。


「ここにずっと居てもいいですよ」

「……ほんとに?」


 目を丸くする少年に、女中は頷いて優しく語り掛ける。


「好きなだけ居てもいてくれても構いません」

「でも、おばさんがなんて言うのか……」

「ご安心ください。奥様も、貴方の事を気に入っていましたし、喜んでくれます」

「……お姉ちゃん、ありがとう!」


 少年は弾けるような笑顔を見せると、女中に背を向けて竹林の中へと駆けて行った。振り返る一瞬に、少年の瞳から涙が零れるのを、女中は見詰めていた。


 竹林を分け入っていく少年の笑い声が、少しずつ青さを増していく空に吸い込まれていった。






   ◆






 目を覚ました妻は、すぐに横に並べていた布団を見た。しかし、その中には少年に貸していた半纏が広がっている状態で置かれているだけで、少年の姿が見えない。


「ツル君?」


 少年の名を呼んでみるが、返事は無かった。一度、縁側に出て、彼の脱いだ下駄を探してみるが、それすら見つけられなかった。


 朝の身支度を整え、朱色の麻の葉模様の着物に身を包んだ妻は、居間に入った。

 中では女中が、今日も布を顔に付けたまま、朝餉をちゃぶ台に並べている。


「奥様、おはようございます」

「おはよう、椿さん」


 妻は少し笑って、ちゃぶ台の前に座った。すかさず、女中が目の前に湯気の立つ白飯の茶碗を置いたが、妻はまだ料理に手を付けずに、溜め息を吐いた。


「ツル君はもう帰っちゃったのかしら」

「ええ。朝早くにお帰りになりました」


 女中は淡々とそう言った後に、「どうぞ召し上がり下さい」と料理の方を手で示した。


 妻は「いただきます」と箸を持った両手を合わせた後、最初に鯵の開きの身をほぐし始める。


 その時、庭の方から風に乗って子供の笑い声が聞こえてきて、女中は思わずそちらへ顔を向けた。


「椿さん?」

「いいえ。何でもありません」


 不安げな妻に対して、女中はそう断言したが、まだ顔は庭の方へ向けたままだった。

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