竹の花

夢月七海

第一話 夫の友人 


 天井からぶら下る電灯が、じりじりと小さく音を立てている。


 畳の敷き詰められた部屋の中では、長く美しい黒髪を編み込み後ろで一つにまとめ、鮮やかな青の矢絣模様の着物の女性が、机に向かって本の頁を捲っていた。


 室内は物が少なく、真ん中にある机の他には、箪笥と小さな本棚、布で隠された鏡台が一つずつ置かれていた。


 外は夜の静けさに満ちていて、庭の竹が微風に揺れている。月の光が差し込む廊下側に人影が跪き、閉められた障子の向こうから若い女性の少しくぐもった声が聞こえた。


「奥様、失礼します」

「どうぞ」


 妻の声に、黒いおかっぱ頭を下げていた女中は、滞りなく障子を開けた。うっすらと暗闇に浮かび上がる庭の竹林を背後に、その女中は音もなく顔を上げた。


 女中の顔には、真っ白な白い布が当てられていた。布は耳の部分から紐が伸び、後頭部で結ばれている。

 まるで棺桶の中の死者のような顔をしている女中は、無地の真っ黒な着物が喪服のようであった。


 しかし、妻はその姿に驚くことなく、正座したまま体を左へ半回転させ、女中と直線状に向かい合う形で、相手の言葉を待つ。


「お客様がお見えしました」

「あら、こんな夜更けにどちら様かしら?」

「旦那様のご友人で、あざみ様とおっしゃる方です」

「莇さんね。今行くわ」


 最初は不審そうにしていた妻も、客の正体が分かると、笑顔を作った。


 再び女中が頭を下げ、障子を閉めた後、妻は立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。

 それを開くと、一枚の白い封筒が挟まっている。彼女はそれを裾に入れて、客室に向かった。


「失礼します」


 客室の襖を開けると、中で待っていたのは見知った顔で、妻は小さく息を吐く。


 座布団の上に胡坐をかいていたのは、灰色の背広を着た男性だった。

 笑窪の良く目立つ笑顔で、片手を上げて彼女に挨拶をする。


 夫の同年代だというその古くからの友人は、今日も朱色のネクタイを締めて、灰色の帽子を自身の手元に置いて、妻を待っていた。


「おふきさん、久しぶり」

「お久しぶりです。あざみさんも、お変わりないようで」


 妻は丁寧に頭を下げながら、夫の友人の向かいに跪く。作った笑顔には、どうしても暗い影を落としていた。


 襖を閉めた衝撃で、電灯の灯もがまだ微かに揺れている中、彼が重たそうに口を開いた。


「早速だが、どうだい、千代間ちよまの様子は」

「はい……夫は、今も眠り続けています。未だ、目を覚ます予兆は見せません」


 妻も低い声色で答える。

 二人の声は、どこまでも沈んでいきそうな暗さを持っていた。


「……そうか、まだ起きないか……。あと、最近、他に何か異変はないかい? 可笑しな人物が外を出歩いていたとか、どんな些細な事でもいいんだ」

「その点は、大丈夫ですよ。莇さんのお陰です」

「そうか、それは良かった」


 褒められて夫の友人は、まんざらでもない顔を見せるが、すぐにそれを打ち消して腕を組んだ。


「しかし、奴らがまだ諦めていないという話は、こちらの耳にも入っている。これからも警戒が必要だろう」

「はい。肝に銘じておきます」


 妻も神妙な顔で頷いた。目線は、膝の上に並んだ、色の白い手に注がれている。その手の拳を、ぎゅっと握り締めた。


 その時、襖の後ろから「失礼します」という声が聞こえてきた。


 妻が「どうぞ」と横を向いて声をかけると、すっと襖が開き、茶を用意した女中が座っていた。


「お茶をお持ちしました」

「椿さん、ありがとう。どうぞこちらに」


 目を丸くしている夫の友人をよそに、身を屈めたままに客室に入った女中は、二つの湯飲み茶碗と急須の載った盆も中に入れると、正座して襖を閉める。

 そして静々と移動し、彼らの間にある机の上に、空の湯飲み茶碗を二つそれぞれの前に置いた。


 女中が緑茶を注いでいる間も、夫の友人は彼女の布に覆われた顔に釘付けになっていた。じっと見つめてみるが、鼻の形と微かに唇部分が浮き上がって見えるだけで、どのような顔をしているのか全く分からなかった。


「では、ごゆっくり」


 半分腰を浮かした女中は、布越しの声でそう言うと、会釈をして部屋を出ていった。


 半ば夢心地で、彼女の一挙一動を凝視していた夫の友人は、襖がぴたりと閉められた後に、やっと視線を妻の方に戻した。


「今の子、新しい女中かい?」

「ええ。つい先日に雇いました」


 妻は穏やかにそう言うと、女中の注いでくれた茶をすすった。


「前の子はどうしたんだ?」

「彼女は辞めてしまいました。よく働いてくれたのですが、ある日突然辞めるとだけ言って、荷物をまとめて出て行ってしまいました。恐らく、夫の部屋に入ってしまったのでしょう」

「ああ……それは仕方ないね。彼女も、中々可愛かったんだが」


 夫の友人は諦めと惜しさを半々に滲ませながら呟いた。

 そうして彼もお茶を飲む。緑茶の香りが、心地よく鼻から抜けていった。


「しかし、彼女はいつもああのか?」

「ああと言いますと?」


 夫の友人の質問の意図が分からずに、妻は素直に小首を傾げた。


 彼は多少気まずそうに、自分の顔の周りで円を描くように示した。

 それだけで妻は相手の言いたいことを察し、何気ないことのように頷いた。


「いつもつけていますよ。私も取っている所を見たことありません」

「初めて会った時も?」

「ええ。ですが、普段のお仕事に支障は出ていませんから、問題ありませんよ」

「……そうか、雇い人のおふきさんが言うのなら、それでいいのかもしれないが」


 妻の柔和な笑顔に気圧されて、夫の友人も渋々自身を納得させた。今までの様子などからも、妻が女中の顔について全く気にしていないことは十分に伝わっていた。


 妻はお茶を一口すすり、話題を変える。


「ところで、莇さんの奥様は、いかかがお過ごしでしょうか?」

「お陰様で、妻も元気にしているよ。ただ、ここに来るのはどうも嫌みたいでね。君達とも会いたがっているのだが」

「しょうがありませんよ。この家はそういう場所ですから、無理していらっしゃらなくても大丈夫です」

「いつかまた、四人で外に出る機会を設けたいな」

「……はい、奥様にもよろしくお伝えください」


 深々と頭を下げる妻に、湯飲みを持っていた夫の友人は、笑窪を見せて苦笑した。


「そんな仰々しくしなくてもいいよ。ただ、また会おうという約束をしただけじゃないか」

「そうですね」


 妻は目線を机の縁に向けたまま、ただ微笑んでいた。


 夫の友人は湯飲みを一気に傾けて、茶の残りを飲み込んだ。


「じゃあおふきさん、僕はそろそろお暇するよ」


 彼はそう言って、帽子を被って立ち上がろうとする。

 それを聞いて、妻は少し驚いていた。


「もう少しゆっくりしてもいいですよ」

「いや、ありがたいが、あまり遅くなると妻が心配するのでね」


 夫の友人の頬には、笑窪が現れる。口出しの多い妻に対して鬱陶しさを感じる半面、それを楽しんでいるような余裕を感じられた。


 彼の姿に、妻は思わず目を逸らしてしまう。そのまま、「一つお願いがあるのですが」と、袖の中に持っていた白い封筒を彼に差し出した。


「この手紙を、ポストに出してほしいのです」

「それは構わないが、これは誰に宛てた手紙かい?」

「私の弟です。今は実家を離れて、書生をしています」


 不躾に手紙の表や裏を眺める夫の友人に、妻は簡単に説明した。

 彼はそれを聞くと、「分かった」と頷いて、手紙を懐に入れる。


 彼が襖を開けると同時に、妻は廊下に向かって、「椿さん、莇さんを見送ってちょうだい」と女中を呼び掛けた。


 夫の友人が客室から出ると女中がすっと現れて、彼がそちらの方を見ると会釈をした。


「あ、よろしく頼むよ」


 彼は何気ない様子で言うが、笑窪付きの引き攣った笑みを浮かべている。彼女に対して、夫の友人は妙な胸騒ぎを覚え、腕に粟が立つのを感じていた。

 顔を布で覆っている以外は、ごく普通の女性に見えるのに、今も違和感が拭えない。


 女中は先立って玄関に降り、引き戸をがらがらと開けた。

 背後に立っている妻に対して、夫の友人は靴を履きながら話し掛けた。


「また、近いうちにここに来るよ」

「はい。その時は、良い知らせが出来るように……」


 すくっと威勢良く立ち上がった夫の友人は、上半身だけ振り返ると、天真爛漫な笑窪を見せた。


「おふきさんもあまり無茶しないでくれよ。体を壊したら、元も子もないからね」

「お気遣い、ありがとうございます」

「では」


 お辞儀を見せる妻に、夫の友人は軽く手を振って玄関を出た。


 外では女中が待っていて、彼の数歩前を歩いていく。庭には小さな砂利が敷き詰められ、丸い飛び石が不規則に並んでいた。その先には、立派な門柱がどっしりと構えている。


 彼は夜風に吹かれながら、家から門までの短い道を歩いた。そしてふと、空を見上げた。星はぽつぽつとしか見えなかったが、月が出ていた。


「今夜は、三日月か」

「はい」


 女中は夫の友人の独り言にも、律儀に返事をしてくれた。

 彼は突然の事に気恥しさを抱きながら、後は自然と下を見て、黙って歩を進める。


 門扉を大きく開けて、女中は彼が来るのを待っていた。

 そして、夫の友人は門扉の境目に足を置くと、屈んで彼女に視線を合わせて言った。


「ありがとう。ここまでで大丈夫だよ」

「よろしいのですか?」

「ああ、僕だって男の端くれだ。か弱い女性を、夜道で一人きりで帰らせるなんてこと、させないよ」


 尾を引かない爽やかな笑顔で、今までよりもはっきりと笑窪を作って、夫の友人が答える。相手に不気味さを感じながらも、女性に対しては気障っぽくなってしまうのが、彼の流儀なのだろう。


 しかし、女中の返事はそっけないもので、「かしこまりました」と頭を下げるだけだった。無論、照れているのか頭に来ているのか、顔の布の所為で表情は全く読めない。


 夫の友人はその事に拍子抜けしつつ、やはり笑窪を残したまま、「おやすみ」と一言添えて、一歩門の外に出る。


「お気を付けて」


 そう言った女中の目の前で、夫の友人の姿は人間ではなく、一匹の狐の姿に変わった。


 変化は瞬きの間だった。しかし、今の彼は黄色い毛並みに黒い耳と脚、そして太くて柔らかそうな尻尾を持つ、狐である。こちらを振り返らずに、四本の足を使ってすたこらと去っていく。


 女中はそれを無言のまま見送り、夫の友人が近くの茂みの中に入っていくと、門扉を閉め始めた。

 ばたんという音が、竹の葉が揺れる音に交じって響いた。

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