第二十三話 悪女

 春さんが玉兎庵巣穴に潜ってから出てくるまで、それほど時間は有しなかった。

『お待たせしました』

 巣穴から出てきた春さんは左手に何か白い物を携えていた。ひょろりと長い体を少し曲げ、口の傍に右手を添えると、内緒話でもするような声量で尋ねた。

『……えーと、ちょっとお聞きしたいんですけど、二藍ふたあいが『嫌な気配がする、塩を撒いてやる!』って部屋の中で息巻いてるから、多分そうなんだろうけど……』

 自分が出てきた穴を気にするように様子を窺いつつ声を落とした春さんの言葉に、萩鳥さんはニヤリと笑う。

『さすが二藍。大正解だ。このお嬢さん、僕と会う前にアイツに接触したらしい』

 すると、なるほどな、と春さんは苦笑を浮かべながら私に向き直った。

『じゃあお嬢さん、君は玉兎庵の中は絶対に覗かない方がいい。何が飛んでくるか分からないから。奥で説明するから、ついておいで』

 年上の萩鳥さんはともかく、春さん年下からもずっとお嬢さん呼ばわりされることにほんのりむず痒さを感じつつ、春さんの手招きに頷く。正直、言われた意味は分からないがここに至るまでの経緯から考えて、従った方がいい気がしたからだ。私は促されるまま、店の更に奥へと進んだ。勧められた椅子に座ると、春さんは手に持っていた物を机の上に置いた。

『はい、これが依頼の品。護身用ってことと、何かあった時のために二枚渡しておくよ』

 私は机の上に置かれた白い物を手に取った。程よく硬い紙で出来たそれは、微かに墨の匂いがした。細長い紙に文字のような模様のようなものが書かれている。見た目や大きさからして、きっと栞なのだろう。ただ、これが護身用になるという意味が全く分からなかった。

『……これが護身用ってどういう意味ですか?』

 その疑問に答えてくれたのは、斜向かいに腰を下ろした萩鳥さんだった。

『言葉の意味そのままさ。この後、君に降り掛かるだろう災難から護ってくれる物だ』

 聞き捨てならない予言に私は身を乗り出した。

『災難って』

『君はアイツに逢ったんだろう?』

 そう言ったのは、正面に座った春さんだ。長い睫毛まつげを物憂げに震わせて、墨色の瞳を伏せた。それに被さるように言葉を発したのは萩鳥さんで、その内容は信じ難いものだった。

『多分、その先輩が生き霊となった大きな理由は、お嬢さんが遭遇した黒髪の女だ。アレは嫉妬や恋慕といった、人間の抱く強い感情をことほか好む。今回アレは、その先輩ひとの心の柔らかい部分をつつき、結果として生き霊を発生させたんだろう』

 嫉妬や恋慕?あの先輩が?誰に……?

『アイツにとって、その先輩のそばは居心地が良いんだよ、多分ね』

 春さんがどこか遠い場所を見つめるように話す。

『アイツは悪趣味だが、食の好みにうるさくて、良いと思った食材人間には手間を惜しまないから。その先輩もだろうけど、お嬢さん。君もアイツの守備範囲内なんだと思う』

 春さんの言う、私も守備範囲内という意味が分からず耳を傾けるしか出来ない。……ん?ちょっと待って。え、もしかして、もしかすると、アオニビさんが私に恋愛感情的なモノを抱いているってこと……?いやいやいやないし!あの人、女の人だし!……多分。

『さっき僕に説明してくれたとき、君は言ったね。アイツが君の頭に停まった虫を取ってくれた時、数本髪の毛が引っ張られたと』

『それ十中八九、味見ですね』

 春さんの綺麗な顔が苦虫を噛んだように歪む。

『あ、味見って。そんな食材みたいな言い方して』

『食材なんだよ。アイツにとっては』

 私は再び口を噤んだ。……恋愛感情ではなく、食材?!いよいよ意味が分からないわ!

 そんな私の心の中を見透かしたように、春さんは墨色の瞳で私をじっと見据えた。

『意味が分からないだろう。でも多分君は、アイツに美味しい食材として認識されてるんだ』

『そんな……』

 馬鹿な、と言いたかった。でも言えなかった。否定したいのに出来ないような、頭の片隅で何かがぞわぞわと這い回るような気味の悪さを覚えて、息を飲む。

『君はきっと、明日もアイツに遭うことになるだろう。その時はを出して交渉するといい。……これがアイツから君を護ってくれるはずだから』

『……じゃあこれは、その、災難から護ってくれる護符みたいな物ですか?』

 私は再び机の上にある栞をつまんだ。ただの栞にそんな効力があるのだろうか。春さんは、そんな私の疑問に微かな笑みを含ませた。

『正解だが、少し違う。全ての事象に効力があるわけじゃあない。ただ、アイツには絶大な効力を発揮するということだけは保証するよ』

 栞を摘んだまま、私はもう一つの疑問を投げかけた。

『アイツ、アイツって、あの』

 アオニビさんは、彼女は一体何なのだろう?何故この人たちは、彼女のことを名前で呼ばないのだろう?何となく気になって、私もアオニビさんの名前を呼ばないでいたが、名を秘して進められた会話に言い表せない不安を感じた。

 すると人の良さそうな萩鳥さんから表情が消えた。そして彼は、この部屋に入る前に私に投げかけたのと同じ言葉を、再び口にした。

『……信じるか信じないかは、君次第だ。お嬢さん』

 茶色の瞳が丸眼鏡の向こうで細められる。程よく日に焼けた人差し指を唇の前に立てて、言葉を紡ぐ。

青鈍アイツは、しつこいぞ』

 それはまるで脅かすような口振りで、私は思わず身震いした。



 ●

 


「萩鳥さんや、春さんたちから聞きました。……全部、貴女のせいだったんですね、アオニビさん」

 目の前にあの時の女性が現れなければ、私も冗談だと受け流していただろう。だが現に彼女は私の前に再び現れた。林先輩の皮を被って。

「さて、何のお話かしら?」

 段々と、先輩の輪郭がぼやけて、黒髪の美女が露わになる。あまりの気味の悪さに、足が竦まないように声に力を込めた。

「とぼけないでください。先輩を唆して、私にけしかけたのはアオニビさんですよね?」

 微かに震えた声を嘲笑うかのように、アオニビさんは綺麗な顔をゆっくり傾け、ほんのりと笑みをく。

「けしかけた、だなんて。わたくしは、この人が厳重にかけていた心の枷をほんの少ーしつまみ食いさせて貰っただけ。貴女もつまみ食いくらい、した事あるでしょう?」

 細い指を己の薄い唇にほんの刹那咥える様は、背筋が震えるほど妖艶で、私は言葉を飲み込んだ。

「本能に生きる人間は、実に美しく、愛おしく、狂おしいくらいに美味びみなの。そして今回わたくしが頂戴したのは、この方にとって触れられたくない、吐露してはならないと理性が抑え込めていた嫉妬という名の本能。……でも、抑え込みきれなくて、いつも美味しそうな薫りがしていたわぁ」

 歌うようなアオニビさんの声が頭の中で、ぼわん、と反響した。……足下がクラクラするみたいだわ。

 正直、アオニビさんの言っている意味は半分も分からない。だがこれだけはハッキリしていた。揺れる視界で彼女の黒髪をきつく睨み付けて、私は言った。

「……あなたは悪女だわ」

 吐き捨てるように言った私に、彼女はさも心外だという顔を向ける。その少し物憂げで儚い表情に、不覚にもほんの一瞬たじろいてしまった。

「人聞きの悪いことを言わないでくださるかしら?わたくしはただ、『自分の心に嘘はつかない方が良いんじゃなくて?』とこの方にお話ししただけよ。わたくしはちょっと背中を押しただけ」

 あとはこの方自身が動いたことよ、と鈴を転がすような声でコロコロと笑う。先程の表情から一転、とても楽しい悪戯が成功したような彼女の声音に顔が歪む。

「白々しい……!」

 まるで人を揶揄うような、ふわりふわりとした話し方にイライラした。自然と眉が寄っていく。この人にもう、関わりたいと思えない。

 私は手に持ったままだったあの店で貰った栞を、彼女に突き付けるように眼前に掲げた。

「先輩から出て行って、二度と来ないで」

 キッと睨み、私はアオニビに別れを告げた。自分をきつく睨みつける視線を受けても、アオニビは目を逸らさなかった。むしろ私の顔を興味深げに見つめると、漆黒の瞳がほんの一瞬怪しく光る。そして嬉しげに、でも気怠げに首を傾けると、アオニビは仄暗くわらった。

「……良いわぁ、その美味しそうなものに免じて、今回は貴女の前から消えてあげる。でもまた同じことを貴女が繰り返すのなら、わたくしは何度でも貴女に逢いにくるわぁ。……貴女の近くはものが尽きないみたいだから」

 私は、言われた意味が分からなくて眉間に更に深い皺を寄せた。

 あら、自覚はないのね?と、アオニビは首を傾けた。

 ……先程よりも、足下がグラグラと大きく揺れる。必死で踏ん張る私とは対照的に、アオニビの動きはとても優雅だ。

「本当の“悪女”は貴女かもしれないわよ」

 ……この女は、何を言い出すのだろうか。……私が?悪女ですって?

「貴女は全く眼中に無い男たちに対して、不用意に期待させる行為を繰り返してるのよ。それでいて無自覚だなんて、かなりのやり手ねぇ?」

 不用意な期待?私が?誰に?

「この殿方を狂わせたのは貴女自身。思わせぶりな態度は、まるで己の色香で男を惑わすジプシー女カルメンのようねぇ」

 そう言ってアオニビは、うっそりと嗤う。勝手なことばかりを並べるアオニビに、何か言い返したいが喉が凍ってしまったみたいに動かない。

「この殿方は、貴女に群がる男たちの氷山の一角。次はどんな殿方を無意識のうちに虜にするのかしら……それとも、もう既に何人か貴女の無意識の好意に踊らされているのかしら?例えばそうね……貴女と同期の背の高いあの人とか」

 ドクン、と心臓が跳ねた。

 怒りでぐらぐらと煮える頭と、冷水を浴びせられたように冷えていく心臓とが煩いほどドクドクと鳴っている。私は彼女に一体何を知られているのだろうか。

 黙ったままの私を気にも留めずアオニビはトン、と爪先だけで寄ってくると、まるで愛しの姫君にでもするように腰をおとして、私の突き出したままの手に口づけた。

「またお逢いできることを楽しみしているわ、素敵な“悪女”さん?」

 突如、室内にも関わらず、吹きつける突風に襲われて私は咄嗟に腕を交差させて顔を守った。

 目を開ければ私も林先輩もオフィスの床に転がっていて、辺りは散乱していたが先輩も私も怪我らしい怪我はなく、先輩は何も憶えていなかった。

 私の手に握られていた栞は、何かに喰い千切られたように真ん中から先が無くなっていた。



 ●



 それから数日後、私は一身上の都合と言って退職願を提出し、それまで住んでいた家からも引っ越した。去り際、同期の男性社員と先輩には、きっちり“知り合い”として別れを告げて。

 私の考えをしっかり伝えた為か、はたまたあの栞のおかげか、金縛りにあうことは無くなった。

 正直に言えばあの体験は身の毛もよだつほどだったが御守りはまだもう一枚あるのだと思えば、少しは心が軽くなった。

「変なお店だったけど、あれのおかげで助かったんだし、今度お礼に行かなきゃね」

 ……荷解きをした段ボールの中から、あの栞をしまっておいた箱を取り出して中を見た私は今度こそ言葉を失った。

 中にしまってあったはずの栞は見るも無惨に食いちぎられていた。代わりに箱の中には数本の黒い長い髪の毛と、小さく【御馳走様】と書かれていた紙片が微かに残されていた。


 その日のうちに私はあの店に助けを求めに行った。だが何度行っても、道標の萩鳥さんにも、お店にも、春さんにも辿り着くことは出来なかった……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る