第二十二話 生き霊の正体

 翌日。

 私はまたも寝不足のまま、早々に出社した。

 昨日と同じようなのっそりした動きで、自分のデスクの椅子を引く。

「おはよう斉藤。……おまえ、本当にあの後寝たか?」

 座ろうと体勢を低くした私に声を掛けてくれたのは、昨日私を強制的に早退させた林先輩だ。今日も先輩は、お気に入りの深緑のネクタイを締めている。

「……おはようございます、先輩……」

 検分するような林先輩の視線から逃れるように、そっと立ち上がる。

「はい、ちゃんと寝たので大丈夫です。ご心配とご迷惑をお掛けしました」

 曖昧な笑顔を浮かべて、体を折る。

 嘘だ。

 昨日、あの不思議なお店から帰った後も怪現象は起こったし、今までで一番キツい金縛りも経験した。いつものように体が動かないだけではなく、今回は呼吸さえ怪しかった。正直なところ、一瞬、死を覚悟した。おかげで一睡も出来なくて、足元がふらふらして地面が揺れるように感じる。

 私は下げた頭を微かに持ち上げて、「本当か?」と目の前で訝しがる林先輩を静かに観察した。


 男性にしてはやや背が低いが、ガタイのいい、大きな体だ。

 決して太いわけではない。筋肉質で、重心がどっしりしていて、いかにも学生時代はラグビーとか柔道とかやっていたんだろうなと思わせるような、硬くて岩のような印象の容姿。太めの眉はキリッとしていて意思が強そうで、がっしりした顔の輪郭にとてもよく似合っている。

 標準的な身長よりちょっと小さい私から見て、頭ひとつ分ほどしか高くない身長。それこそ、昨日お世話になった萩鳥さんより少し小さいくらいで……。

「斉藤?」

 名前を呼ばれて、私はハッとして思考の沼から急浮上した。

「ははい!」

「お前、本当の本当に大丈夫か?」

 掛けてくれた声音は本当に心配そうで、とてもいい先輩って感じで、昨日、あのお店で言われたことが私はまだ信じられなかった。



 ●


『……信じる、信じないは君の自由、とだけ前置きさせてもらうよ』

 そう言って萩鳥さんは声をひそめ、ついでに私よりも高い身長を屈めるように、ほんの少し膝を曲げた。

『お嬢さん、君に憑いていた生き霊。あれは多分、君の元彼さんじゃない』

『ケンジじゃないってことですか?で、でも、私、自慢じゃないですけど、彼氏なんて後にも先にもケンジ以外いたことないですよ?!』

 萩鳥さんに水をぶっ掛けられる少し前のあの時に、悪女だ何だと、ネチネチ嫌味を言われたような気がしたのでてっきり私と唯一男女の関係にあったケンジだと思っていた。だが、萩鳥さんは違うと言う。私は何も見えない入り口扉をチラリと見て、そして再び萩鳥さんを見つめる。私を見る目はとても真剣だった。

『お嬢さん、もう一度よく思い出してくれ。君の周辺に、僕より少し身長が低くて、体つきがゴツくて、意志の強そうな、スーツを着た男は本当にいないかい?』

 茶色の瞳に真剣に問われ、私は目を瞑り、記憶の抽斗ひきだしを片っ端から引っ掻き回した。

 スーツと言われてまず頭に浮かんだのは父だ。だが父のはずはない。続けて、親戚、友人、地元の幼馴染みや、元彼ケンジの友人たち、果ては友達の彼氏まで思い出しては、身長や容姿をじっくりと検証していく。だが、残念ながら身長や容姿、もしくはその両方が全く合致しなかった。

 ブンブンと頭を振って、思い出し忘れていないか再度記憶を探る。今度はプライベート側だけでなく大学時代や仕事関係の人たちをさらっていく。大学で同じゼミだったあまり仲良くない男子に始まり、会社の同期、先輩方、上司……と、一気にポポポンと思い返している時にハッとした。

『……もしかしたら』

『誰か検討がついたのかい?』

『あの!萩鳥さんの身長は幾つですか?』

 私の微かな呟きを掬い上げた萩鳥さんを、勢いよく振り仰いだ。私の動きに微かに目を見張ったが、萩鳥さんはとても普通に答えてくれた。

『去年の健康診断で、確か178センチだったかな』

 私との身長差は30センチほど。そんな萩鳥さんより少し小さいとなると、大体私とは25センチ前後くらいの身長差だ。問題の人物が男性とするなら、平均より小さいと言われる部類に入るだろう。そして、がっしりとした体つきと、ハッキリとした意志を感じる顔つき。そこまで思考し、私の記憶は一人の人物を弾き出した。その人は、少なくとも私の知る限りではいつもスーツを身に纏い、よく深緑のネクタイをしている。

 ……間違いない、萩鳥さんが言っているのは多分……。

『……もしかすると、いえ、多分……』


 ●



「林先輩」


 私は奥歯をぐっと噛んで、先輩の名を呼んだ。

「ん?どうした」

 名を呼ばれた先輩はゴツい体に似合わず、コテンと首を傾げた。胸の前で深緑のネクタイが微かに揺れる。その妙にあどけない仕草がアンバランスでちょっと可愛く見えて、いつもならば自然と顔が緩むところだ。

 萩鳥さんが言うには、生き霊の正体は林先輩らしい。だが、私はまだ信じきれなかった。

 萩鳥さんは、あのお店で譲り受けた物を渡せば今回の怪現象の元が先輩だと分かるだろうとも言っていた。だが、そんなはずはないと私は思うし、あの場でもそう口にした。それを証明するためにも、あの店で譲り受けた品物を先輩に渡すべきだと強く思った。

 強い決意を胸に、鞄の中に手を入れると乾いた感触の物を手に取ると同時に先輩に話しかけた。

「昨日はご心配かけてすみませんでした。これ、ほんの気持ちですけれどお詫びというか、お礼です」

 そう言って私は小さくて細長い紙を差し出した。

「……なんだい、こりゃ?」

「知る人ぞ知る、あるモノに対する最強の御守りらしいです。すごく効力があるものらしいですよ」

 私があの店で譲り受けて、そして先輩に差し出した物は栞だった。古本屋さんだからこそのチョイスだろうけれど、読書の習慣のない私にとっては無用な長物だ。お店でも渡されたときに、自分には必要性がないことを訴えたが押し切られてしまったのだ。しかも眉唾物の触れ込み付きで。全然信じていない私は、その怪しげな売り文句を一部割愛して先輩に説明した。

「いつも先輩にはお世話になってますし、昨日は早退させて頂いたので、とても助かったんです」

 どうぞ、と私が差し出した栞を、先輩は何故か食い入るように見つめていた。



 ●


『多分、林先輩、です。仕事の先輩の……。で、でも!あの生き霊が、先輩だなんて!』

 何かの間違いですよ、と私は言葉を続けようとして失敗した。萩鳥さんの茶色の目に射抜かれて、小さく息を呑む。

『さっき春くんが言っていた特徴を聞いて、君の記憶はその先輩を弾き出したんだ。勿論、その先輩ではない、全くの赤の他人の場合もあるだろうが、あの執着の仕方は顔見知りである可能性が高い』

『そんな……ちょっと声が大きかったり、お節介なこともあるけど、良い人なんですよ!それに、先輩とは……男女の関係になんてなったことないですし』

『君はそうかもしれないが、相手がそう思っているとは限らないんじゃないかな?』

 とても冷静に返されて、私は困惑した。今度こそ意味が本当に分からない。

 萩鳥さんはじょりじょり鳴る無精髭をいじりながら、まるで教師のように説明を始めた。

『例えば、想いを寄せている相手から頻繁に話しかけられたり、手と手が触れ合ったり、何かの折に贈り物をされたりすれば、どうだい?知り合い以上の関係には見えないだろうか』

『……それは、相手も好意があるからそういう態度なんじゃないですか?』

 今の例え話だと、完全に両想いの二人の姿を外野から見ているような気分だ。虫の居所が悪ければ、惚気ならば他所よそでやれと青筋をたててしまいそうなくらい甘ったるい空気を想像して顔が歪む。

 そんな私の顔を見て、萩鳥さんは笑いを堪えると再び話し始めた。

『そうだね。じゃあ、もっと細かい例え話だ。自分が想いを寄せている新人であり後輩の人が、自分のところに仕事で分からないことがあるからとよく質問に来て、書類を渡す際に手が軽くぶつかったり、社内イベントや社交辞令で景品や物品を渡したり渡されたりするのは、相手の人にとっても恋愛行動かい?』

『それはただの仕事上の付き合いですね』

 それを恋愛だと誰が思うのだろうか。社交辞令以外の何ものでもない。

 私の答えは、萩鳥さんにとって、求めていた回答だったようだ。右の人差し指を立ててそのまま話を続ける。

『そう、その違いだ。その違いが自分と似たような基準で線引きが出来る相手ならば、さして問題はないんだ。でもよく考えてごらん。“よく話しかけてくる”のも“よく質問にくる”のも、どちらも“話しかけてくる”行為には変わりがないんだよ』

 出来の悪い三文芝居でも聞いてるような気分に微かな苛立ちを覚えつつ、酷く困惑した。私と先輩の日常的なやり取りを、まるで見て来たように言い当てられて閉口する。

『立ち位置が変われば、ものの見方が変わるし、人が変わればその見解は更に難解になる。その境界線が“話す”、“話さない”の1イチ0ゼロしかない人間にとって、気になる相手が自発的に“質問にくる”のは、自分に気があると錯覚させるには十分なんだよ』

 頷くことさえ出来ず、私は萩鳥さんの言葉を聞き続けた。

『後者が君の考えならば、前者がその先輩の考え方かもしれないとは仮定出来ないかい?』

 そして私はそう言う萩鳥さんを、信じられないものを見るような気持ちで見つめた。


 ●


「……先輩?」

 私は、私が差し出した栞をじっと見つめたまま動かない先輩を怪訝に思い、声をかけた。

「……なぁ斉藤。この御守りは、一体、なんの効果があるんだ?」

 まるで、キラキラと輝く宝物を見つけた子どものような、微かな興奮を含んだ声が問いかける。

「何でも、一回だけ自分の身代わりになってくれるそうですよ」

 おどけたような口調で私は先輩に説明した。説明しながら、昨日店で同じような説明を受けた時のことをぼんやりと思い出した。

 説明されたときはあまりの謳い文句に、一瞬呆然としてしまった。そんなゲームのお助けアイテムみたいな物があるわけないだろう、と。だが、その如何わしい謳い文句に、先輩は興味深そうな声を出した。

「そうか、そりゃすごいな!それになんて……「美味しそうなんだろう」」

 最後の言葉が、何故かダブって聞こえた。奇妙に思えて先輩を見れば、様子が明らかにおかしかった。目は焦点が合っていないようでどこか虚ろなのに、妙にギラギラと光り、緩く弧を描く口の端からは微かに涎が溢れていた。そしてまるで熱に浮かされたように頬が赤く上気している。

 その異様な言動に私が目を剥く間にも、先輩は何かに取り憑かれたように捲し立てる。その話し方は、完全にいつもの先輩とは異なっていた。

「「嗚呼、なんて良い薫りなのかしら!さぞかし濃厚で、刺激的な御味なのでしょう。きっと脳が蕩けてしまうほどの美味だわ!」」

 何かに感動し悶絶しているのだろうか、体がふるふると小刻みに震えている。段々と、先輩の野太い声が、甲高いものへと変わっていく。その高くなっていく声に、私は聞き覚えがあった。

「…………アオニビ、さん?」

 咄嗟に私はあの時の、アンニュイな美女の名を呼んでいた。


「「あら、いやだ。もうバレちゃったの?」」


 姿形はゴツい林先輩のままだが、太い指を口元にそっと添える動きや絶妙な首の角度、そしてとろんとした目は、あの時女の私をもドキリとさせたアオニビさんそのものだった。






 

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