第二十一話 月の兎の巣穴

「お〜い、お嬢さん、大丈夫か?」

 穏やかな声音と、ぺちぺちと頬っぺたを叩かれる感触に、私の意識はゆっくり浮上した。どうやら気を失っていたらしい。先ほど倒れ込んだ位置とあまり変わらない場所で、私は萩鳥さんに抱き留められていた。のそりと顔を上げると、頭がクラクラした。

「……うぅ、さっきのは、いったい……」

「あぁ、さっきのあれはな……」

 そう言って萩鳥さんは、場所を移しながら今度はちゃんと説明してくれた。

 なんでも、私には霊的なモノが憑いていたらしい。ここ数日の間、眠る度に襲われていた金縛りも多分ソレの仕業らしい。しかもその霊的なモノは死者の霊ではなく、生き霊なのだそうだ。普段であれば、そんなオカルトチックな話と鼻で笑って一蹴してしまえただろけれど、このところ慢性的に怪現象に見舞われていた私には否定できる材料がない。むしろ妙に納得してしまい、私は黙って萩鳥さんの話に真剣に耳を傾けた。

「どうにも君に未練タラタラな男みたいで、あまりに幼稚な言い草についイラッとしてしまったよ」

 相手に心当たりはあるかと尋ねられて、私は元彼のケンジの事を話した。

「多分、別れてしまった元彼じゃないかと思います。背が高くて、でも細くて、ひょろ長い感じの人です」

 五歳年上のケンジは、細くて身長もあったが、姿勢が悪くていつも猫背だった。そのせいか、言動にあまり自信がなさそうに見えた。実際自信はあまり無かったのかもしれない。私が初めて出来た彼女だと言っていたし、別れを切り出したのだって顔を合わせた場面じゃなかった。優しいと言えば聞こえは良いが、あまり主張がなかったようにも思える。

 だが、特徴を伝えたら萩鳥さんは微妙な顔をして首を傾げた。

「どうしたんです?」

「……ああ?いや、今聞いたのと随分印象が違うから、ちょっと驚いたというか」

「印象が違う……ですか?」

 どういう事だろう、と聞き返すと、萩鳥さんは言葉を探すように唸った。

「気弱な感じは全くしないんだよ……結構ガッチリした容姿で、どちらかと言うと、こう、独占欲の強そうな……」

 独占欲、という単語に今度は私が違和感を覚えた。しかもガッチリした容姿だなんて、私の知るケンジとは全く繋がらない。

「……全く元彼とは繋がらないんですけど、見間違いとかじゃないですか?」

「う〜ん……この状態だと、僕には認識できないからなぁ……あ、着いたよ、ここだ」

 二人で首を傾げながら、ほてほて歩いているうちにいつの間にか目的の店に着いていたようだ。お祖父ちゃんの言っていた通り、店の表側はツタだらけで煤けたガラス扉の上には『鸞鳳堂』と看板が出ていた。どこをどうやってここまで来たのか全然分からない。多分、次にまた来ようと思っても、一人じゃ絶対無理だ。

「ほわー……、ツタだらけですね」

 全体的に緑色をした鸞鳳堂を見上げていると、不意に涼しげな音色が響いた。目線を落とすと萩鳥さんが入り口扉を開けたところだった。慌ててその後を追う。店の中は古い本でいっぱいだった。エアコンが効いているのだろう、ひんやりとした空気にホッと息をはいた。

「春くん、お客さんだよ」

 本の森を掻き分けながら進む萩鳥さんが、店の奥に向かって声を掛けた。萩鳥さんの真後ろにいた私は、ド派手なアロハシャツの横から前方を覗くように顔を出した。暫くして、奥の方からごそごそと音がしたのと、白い手が本の山からにゅっと生えたのはほぼ同時だった。

「?!」

「ああ、今日もにいたのか」

 突如出現して白い手に驚く私のそばで、萩鳥さんはのんびりと口を開いた。白い手はこちらに向かって、おいでおいでをしている。

「……巣穴、って何ですか?」

 ビクビクしながら萩鳥さんを仰ぎ見ると、萩鳥さんは丸眼鏡の向こう側でにんまりと笑った。

「見てみれば分かるよ。ほら、こっちこっち」

「うぇ?!ちょっと、まっ!」

 萩鳥さんは私の手を掴むと、グイグイと店の奥、白い手に向かって引っ張って行った。通り抜けは困難に見えた本の山をどんどんと通り過ぎて、あっという間に奥まで引きずって来られてしまった。先ほどの白い手は引っ込んだようで、代わりにそこには人一人が立って通れるほどの小さな穴が開いていた。店の中で一際高く本が盛り上がって見えていた場所は、どうやら小さな部屋の外壁だったようだ。入り口の傍に建つ柱には何やら文字が書かれた板が、釘で打ち付けられている。

「あ、なんか文字が書いてある……ええと、た、たまうさぎあん?」

 板の文字を読み上げていると、穴の中から吹き出すような声がした。

「それは、玉兎庵ぎょくとあん、と読みます」

 穴の中から、笑いを堪えた声がそう教えてくれた。警戒しながら穴を見つめていると程なくして、先ほどの白い手が再び現れた。だが、今回は手だけでなく、手の持ち主も一緒に現れた。

「いらっしゃいませ。ようこそ、鸞鳳堂古書店へ」

 小さな穴から出てきたのは、黒い髪と瞳を持つ、とても綺麗で、そしてとても背の高い、色の白い男性だった。にっこりと優しい笑みを浮かべるその男性を私が茫然と見つめていると、隣にいた萩鳥さんが何故か小刻みに体を震わせていた。

「……春くん、この子、玉兎庵の方のお客さんだよ」

 どうやら、萩鳥さんは笑いを堪えて震えていたようだ。少し震える声で、その綺麗な男性に話しかけた。春と呼ばれた男性は、萩鳥さんの言葉を受けて、ちょっとだけ態度を崩した。

「ああ、鸞鳳堂そっちじゃなくて玉兎庵こっちのお客さんか。改めて、いらっしゃい」

 幾分か態度は崩れたが、魅力的な笑顔は変わらない。

 ……うん、顔がいい。なんなのこの人、めちゃくちゃイケメン。少しヨレの見える白いシャツの中で体が泳いでいる。背は高いけど、顔つきがちょっと幼くて綺麗で可愛い。きっと私と同い年か、もしかしたらもう少し若いんだろうな。

 先ほど白い手にびっくりした事も忘れて、その整った顔をじっくり見つめていると、不意に視界にひらひらと揺れる手のひらが映った。

「……お嬢さん、お嬢さん?大丈夫かい?もしかして具合悪くなったかな」

 心配したような萩鳥さんの声に、イケメンの春さんがほんの少し眉を上げた。

「ん?このお客さんは、生きてる人か」

「生きてるよ、ちゃんと」

 苦笑気味に返した萩鳥さんの後方に視線を向けながら、春さんは微かに声を低くした。

「どっちもハッキリ見えてるから俺はてっきり、店の入り口……二人の後ろにくっついて来てる男と同じかと思った」

 その言葉にバッと振り返るが、後ろには古本が積み上がるばかりで誰もいない。

「やっぱり春くんには見えてるんだ。どんな男?特徴は?」

「んー?身長は栄吉さんよりちょっと小さいくらいで、意志の強そうな顔と、少しゴツめの体型。あ、あとスーツ着て、深緑色のネクタイ締めてますね。……物凄く栄吉えいきちさんを睨みつけてるんですけど、何かしたんですか?」

 春さんの視線が私たちの後方に注がれているのを私は気味が悪いと思ったが、隣に立つ萩鳥さんはなんて事ないような顔で応答している。

「このお嬢さんに、しつこく憑き纏っていたからちょっとお清めの水をかけたんだ」

「なるほど。で、無理矢理引き剥がしたから、あの人は酷く怒っていると」

 そ。と萩鳥さんは軽く頷いた。

「お嬢さんが言うには、元彼さんらしいけど……」

 ふぅん、と気の無い返事を返しながら、春さんはその白い手でうなじをゆっくり掻き上げた。その仕草が何とも色っぽくて、後ろが気になりつつもうっかりドキドキしてしまった。

「じゃあ、護身用に二つか三つ書けばいいかな」

 ちょっと待ってて、と言うと春さんはそのまま小部屋に引っ込んでしまった。意味がまったく分からず、隣を見ると萩鳥さんと目が合った。

「あ、あの、護身用って……?」

「お嬢さんのお祖父さんが言っていただろう?」

「お祖父ちゃんが……?」

 確か、祖父が言っていたのは「鸞鳳堂へ行き、その中にある庵で、何でもいいから書いてもらえ」というものだった。全く答えになっていない。

「ええと、春さん?が『書けばいいか』って言ってましたが、一体何を書いてるんですか?」

 眉間にシワを寄せて、改めて問いかけた。自分に関わる話のはずなのに置いてけぼりにされているような感覚がもどかしくて、キッと睨むように丸眼鏡を覗き込む。教えてくれるまで、何回でも聞いてやる。

 萩鳥さんは茶色の瞳をしばたたかせて、私を見つめ返した。

「……もしかして詳細は教えてもらえなかったのかな?」

 ふむ、と考えるように息を吐き、そしてちらりと煤けたステンドグラスの嵌る入り口の扉を見遣る。

「……信じる、信じないは君の自由、とだけ前置きさせてもらうよ」

 何も居ないはずの入り口扉を気にしながら、萩鳥さんがそう口を開いた。


《続》

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