第二十話 アロハ眼鏡の問いかけ

「ただ、ちょっと条件がある」

 萩鳥さんは無精髭をいじりながらそう言った。

 ……む、さすがにタダで案内はしてくれないのか。良い人だけど、条件つきなんてちょっと意地悪かも?

「……条件、ですか?」

 条件ってことは、やっぱりお金かなぁ?給料日前で今、手持ちあまりないんだよなぁ。

 そんな事をつらつらと考えながら財布の中身に意識を飛ばしていたのだが、萩鳥さんが提示したのは私の考えの斜め上をいく妙なものだった。

「今、君が着ているその服。濡れても構わないかい?」

 ……服?

 呆けたように、私は自分の着ている服を見下ろした。どこにでもあるようなオフィスカジュアルだ。当たり障りのない白のトップスに、薄い紺色のミディアム丈のスカートと、履き倒しているローヒールの黒のパンプスだ。

「……ええ、全然大丈夫ですけど、なんで濡れてもいいかなんて……って、うひゃあ?!」

 服装を確認して顔を上げたら、萩鳥さんがすごく近くまで距離を縮めていて物凄く驚いた。更に驚きだったのは、そのまま歩道柵と萩鳥さんの間に挟まれてしまったことだ。壁ドンならぬ、柵ドンだ。

「なななななにするんデスカ?!」

 おじさんとはいえ、異性に壁ドンはおろか柵ドンなどされたことのない私は妙な片言になりながら尋ねると、萩鳥さんは細いガラスの筒を渡してきた。

「はい、まずはこれ飲んでね。そのまま口つけちゃっていいから」

「……なんですかこれ?」

 差し出された筒の中には、透明な液体が並々と注がれている。揺らすと、ちゃぷ、と小さな音がした。見たところ中身は水みたいだが、この試験管みたいな物をいきなり渡される意味がわからない。先程は急接近されてあわあわしてしまったが、怪しげな液体を差し出された為か、妙な落ち着き方をしてしまった。眉間にしわを寄せながら、胡乱げな声で問いかける。

「いいから、一気にグイッとお飲み」

「はぁ……」

 萩鳥さんが返してくれたのは、欲しい回答ではなかった。

 なんか、おとぎ話でこんなのなかったっけ?……壁ドンや柵ドンの話ではなく、意味も分からず液体を『飲め』と言われる、そんなお話。……あれ?液体じゃなくて、お菓子だっけ?

 疑わしげに筒を睨みつけていると、萩鳥さんはシャツの胸ポケットからペットボトルの蓋ほどの大きさの杯を取り出してほんの少しだけ筒から液体を注ぎ、私の目の前で飲み干して見せた。

「ほらね、大丈夫。毒なんて入ってないから。それに、この暑さで喉も渇いてるだろう?」

 有無を言わさぬ笑顔で更に勧めてくる萩鳥さんに気圧けおされて、私は曖昧に笑った。

「……じゃあ、い、いただきます」

 説明の意味を成していない言葉だったが、大人しく従わないとこの恥ずかしい格好から脱出できない予感がひしひしとしたので、私は液体を口にすることにした。……喉なんて、全く渇いていないから必要ないのだろうけれど。

 萩鳥さんに柵ドンされながら、言われるまま、一気に筒の中身をあおった。だが液体が喉を通ろうとした瞬間、喉が灼けるような感触がした。

「ぐ?!」

 あまりの衝撃に、私は筒を取り落とした。カラン、と足元で音がした気がしたが、それどころではない。灼けるような痛みは胸にまで広がり、身体が異物を感知して胃から酸っぱいものが迫り上がってくる。堪らず体をくの字に曲げながら、首と胸元を掻き毟るように押さえた。

「……やっぱりな」

 ポツリと呟かれた声を私は耳ざとく捉えた。

「……っ、ぁ……!」

 何が、と問おうとして気が付いた。喉の奥が、まるで張り付いてしまったみたいに声が出ない。

「早くそのお嬢さんから出て行け。今ならここまでで勘弁してやる。……嫌なら、もう一本お見舞いしてやるが」

 ひどく無機質な声がドスの効いた台詞を吐く。私はどうしようもない痛みに灼かれながら、萩鳥さんを見上げる。先程までの気の良いおじさんの笑みは消えて、シンと冷えた眼差しがジッとこちらを見下ろしていた。なんでこんな目にあわなければいけないのか。激痛で歪む視界で萩鳥さんを見つめたが、萩鳥さんは私を見ているようで見ていない。萩鳥さんの目線が、何故か私を通り越しているような妙な感じがした。それはまるで、私の他に誰かがいるかのような視線だった。

 私が一人パニックに陥っているなか、萩鳥さんは再び氷点下の声で話しかけてきた。

「……往生際の悪いヤツだ。よっぽどこのお嬢さんに未練でもあるのか?」

 未練、と言われて、私は咄嗟に元彼のケンジを思い出した。一ヶ月も付き合わなかった五つ年上の元彼氏。別れてすでに半年以上が過ぎているのに何故、と思ったが私の口から出た言葉は全く違う音を発した。

『不公平ダカラダ!』

 自分の意思とは関係なく、口が開き、自分の声ではない声が吼える。

『コイツハ俺ト別レテスグ男ヲ作ッタガ、俺ハコノ女二裏切ラレテ今モ一人ダ!何モ良イ事ガナイ!全部コノ女ノセイダ!!』

 ここまで聞いて、私ははっきりと確信した。今、私の口で喋っているのは、ケンジだ。何故私の口でケンジが喋っているのか、原理など皆目見当もつかないが、直感がそう訴えている。

 ケンジは、私が口を抑えようとしても喋るのを止めない。それどころか、私の意思とは関係なく私の両手が、何故か私の首を絞め始めた。

『ソシテ今モ、俺ノ目ヲ盗ンデ見知ラヌ男二肌ヲ寄セテイル!俺ガ心配シテヤッタノニ!コノ女ハ悪魔ダ!!』

 自分の意思とは関係なしによく回る舌と、勝手に首を絞める両手に最初はオロオロしていたが、私の口から出る私への罵詈雑言に段々と腹が立ってきた。私だって好きで別れたわけじゃない。むしろ、取りつく島もなかったのはケンジの方だ。顔も見ず、スマホ越しで唐突に切り出された別れ話を今更ケンジ側から蒸し返されて、苛立ちが募る。

『コノ女狐っ!悪女ッ!』

 ……いい加減にっ!

「いい加減にしろよ小僧」

 心の中で怒鳴り返そうとした言葉と全く同じ台詞が、私の上から降ってきた。その低い声に震えたのは、私とケンジ、どっちだったのだろう。

 ビクリと身を震わせて顔を上げれば、小さな丸眼鏡の奥で、茶色の瞳が怖いほどの冷気を孕んでこちらを睨んでいる。

手前てめぇが本気で好いた女なら、最後まで信じるのが男だろうが。小せぇことで、ピーピー鳴くんじゃねぇよ」

 萩鳥さんが、流れるような動きで腰につけたポーチからあの細いガラス瓶を取り出して、片手で音もなく蓋を飛ばす。

「そんなに駄々をねたけりゃ、お家に帰って母親ママにでも泣きつくんだな」

 そう言って、躊躇うことなく私の頭にあの液体をぶっ掛けた。

 その途端、全く自由のきかなかった体がいきなり解放されて、ドサリと目の前のアロハシャツに倒れ込む。呼吸さえままならなかった喉が、貪るように空気を吸い込むと私の体は重力に任せてズルズルと落ちていく。

 そして、喉を通ったあの時はあれほど痛くて熱かったあの液体は、今度はまるで井戸水のように冷たくて気持ち良かった。


《続》

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