第十九話 道標

 アオニビと名乗ったアンニュイな美人さんは、近くの駅まで一緒に歩くと、教えてくれた駅とは逆方向に進みあっという間に陽炎の向こう側に姿を消した。なんだか、狐につままれたみたいな話だが、確かにコンビニで買ったざる蕎麦は私の手元から無くなっていて、履いていたスカートは公園でへたり込んだ拍子に砂だらけでジャリジャリしていた。

 ……それにしてもアオニビだなんて、へんな名前ね。SNSのハンドルネームか何かかしら?でもまあ、ちょっと不思議だけど、親切でアオニビさんがせっかく教えてくれたんだもの。ひとまず、その駅に行ってみよう。

 そう思い至り、私は一人電車に乗り込んで三つ先の駅まで行ってみることにした。


 ●


 教えてもらった駅は初めて降りる駅だった。

 名前も聞いたことがあるし、もちろん通り過ぎたこともある。でも降りるのは初めてだったので、何となくドキドキした。

 改札を出て辺りを見回す。

「……何か、普通の駅ね」

 当たり前といえば当たり前なのだが、映画とかドラマとかであるような、不思議だったり素敵な雰囲気の光景が駅前に広がっているかもとちょっとだけ期待してしまったが、至って普通な駅だった。少々がっかりしたが仕方がない。

 まあ、都内にしては緑が多いかも?とは思うけど、だから何って感じだしなぁ。

 強いて言うなら、都心のはずなのにちょっと古っぽい……もとい、レトロな感じのする駅だった。下町って言えばいいのかな?

 土地勘が無いのでキョロキョロ辺りを見回してみるが、いきなり行き詰まった。

「う〜ん……どっちに行けば良いんだろう?」

 アオニビさんはここで降りて“道標”に尋ねろとだけ教えてくれたが、見たところ該当する人物らしい影は見当たらない。そもそも周りに人がいない。太陽が真上に架かる時刻だから、まあそれも必然なのだろう。つまり暑過ぎるのだ。空いている手でひさしを作り、目の前の道を睨む。

「……お祖父ちゃんは、ランホウドウ?っていう本屋さんについて確か……“ツタで覆われた〜”的なこと言ってたよね?ってことは、何となくに進めば、例のお店もあるかも……?」

 目の前の道は緩い坂になっていて、向かって右が下りで、左が上りだ。坂の下は小さな商店が建ち並び賑やかな雰囲気がする。だが残念ながら、緑色とは対称的な様子だ。対して、坂の上は眩しい日差しの向こうには濃い緑が見えた。

「……よし!」

 私は意を決して坂道を上ることにした。いざ、あの濃い緑を目指して!


 ●


 十数分後。

 私は、賑やかな雰囲気の下り坂ではなく緑豊かな上り坂を選んだことを、心の底から後悔していた。日差しが容赦なく照りつけるアスファルトはまるで熱された鉄板のようで、かかとの低いパンプスの底からジリジリとした熱が伝わり足の裏が火傷しそうだし、人気ひとけのない孤独な道のりは蝉ばかりが元気で精神的にかなり消耗する。

 それに、見た目通りの緩い上り坂だと、私は侮っていたのだ。坂道は思っている以上に長く、そして見た目より急だった。その証拠に一歩進むごとに、額から汗が滝のように流れる。喘ぐように進むが、アオニビさんが言っていた“道標”などどこにも見当たらない。行けども行けども日当たりのよい道は変わらず、目視できていた濃い緑はまだ遥か彼方にあるようだ。足は動かしていたが景色はほとんど変わらず、ただ蝉の声だけが無駄に大きくなっていくみたいだった。

 連れがいるわけではないので、仕方がないが無言で坂を上っていく。

「……」

 ミーン!ミンミンミンミンィ…

「…………」

 ミ゛ーン!!ミンミンミンミンィ…

「………………」

 ミ゛ィィン!!

「でえぇい!やかましい!!」

 耐え切れず、私は蝉に向かって怒鳴った。しかし吠えたところで相手は虫。鳴き声が小さくなることはなく、景気の良い大合唱が続いている。暑さ以上の煩わしさに、眉間にシワが深く深く刻まれる。

「だから嫌いよ、夏なんて……」

 うるさかったり、無駄に大きかったり、凶暴だったり、気持ち悪かったり、とにかく大っ嫌いな虫が一番積極的に活動する季節。それが夏だ。夏は虫が元気だ。だから、夏が嫌いだ。

 不覚にも大嫌いな虫に思いを馳せてしまい、思わず顔が汚くなる。ぐっ、と顔をしかめながら俯くと前方数メートル先にこげ茶色で大きな塊がひとつ、を上にして転がっているのが見えた。

 あの色、あの大きさ、あのフォルム。……間違いない。アレはだ。

「……ふぅー……大丈夫よ、麻美。落ち着いて。あのひっくり返り方は、多分もうお亡くなりになってるわ」

 寿命を迎え、自分の力で樹に留まれなくなったのだろう。何せ腹を見せて転がっているんだ。大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせながら、私はじりじりと足を進める。

 あと一歩。ここで慎重にを跨げば良いだけだ。そっと右足を上げて、ソレの向こう側に踏み出そうとした瞬間。腹を見せ、六本の足を外側へ大きく広げて転がっていた蝉が、突如息を吹き返して激しく暴れた。まるで電池を入れ替えたばかりのおもちゃのように元気よくバタバタと小刻みに暴れながら、一際大きく鳴いた。

 ジジジジジジジジジ!!!

「っみぎゃあああああああ?!!!!」

 察するに、この蝉爆弾はまだお亡くなりになっていなかったのだろう。でなければ飛び退すさった私に向かって、大音量で鳴きながら向かってなど来ないはずだ。

 ジジジジジジジジジ!!!!!

「いやあああああああ!!!!」

 絶叫しながら後方に逃げた私は、もんどり打って不格好にすっ転び、そして歩道柵に後頭部をぶつけた。坂道と、低いとはいえ踵のある靴を履いていたからバランスを崩しやすかったのだろう。ゴイン、と良い音が頭に響くと同時に、なかなかの衝撃が後頭部を襲った。

「あだっ!!!」

 しこたまぶつけた頭を両手で抱えて猫のように丸くなる。幸いにも、先程の絶叫をもって蝉爆弾は今度こそ昇天したようで静かになったが、後頭部を金属の柵にぶつけたあまりに痛さに涙が出た。

 もう嫌だ。暑いし、虫はうるさいし、蝉爆弾は怖いし、アオニビさんが言っていた“道標”だって、どうせ見つからないんだ。ましてや、金茶色のボサボサ頭にド派手なアロハを着た、胡散臭い眼鏡男なんて……。

「大丈夫かい?お嬢さん」

 自暴自棄になりながら、もう帰ろうと決心しようとしたとき、見知らぬ人物の声が降ってきた。気遣わしげな声に誘われるように顔を上げた私は、限界まで目を見開いた。

「あ、ああ、あなたは!」

 顔を上げたその先にいたのは、探し求めていた例の“道標”。

 心配そうに手を差し伸べてくれたのは、金茶色のボサボサ頭を首の後ろで一本結びにして、ド派手なアロハを着た、胡散臭い眼鏡をかけた中年の男だった。


 間違いない。その特徴的な風貌に、アオニビさんが言っていた“道標”だと私は直感した。

 萩鳥はぎとと名乗ったその男性は、私が想像していたようなアウトレイジでヤバい感じではなく、気の良いおじさんに見えた。小さな丸眼鏡と、ド派手な黄色に緑の南国の鳥が描かれたアロハシャツ、ボサボサの髪を一本に縛る姿は、アオニビさんが言っていた通り少し胡散臭かったけど……。

 萩鳥さんは、後頭部に見事なたんこぶを作った私に手を貸してくれて、話もちゃんと聴いてくれた。見た目はさておき、良い人だ。

「……それでですね、アオニビさんっていう黒髪のアンニュイな美人さんに、あなたを頼れと言われまして」

「……ふぅん。“アオニビ”、ね」

 無精髭をジョリジョリと撫でながら、萩鳥さんは妙に含みのある返しをした。しばらく無言で私のことを検分するように見つめていたが、私の頭の少し上に視線を留めると微かに目をすがめた。

「なぁ、お嬢さん。君のいう“アオニビ”の言う通り、僕は鸞鳳堂を知っているし案内も出来る」

 少しの間思案するように首を傾けた萩鳥さんは、静かに口を開いた。

「!是非、お願いしますっ!」

 やはりアオニビさんが言っていたことは本当だった。“道標”こと萩鳥さんが、夢の中でお祖父ちゃんに言われた店への道を知っていたことが分かり、しかも道案内までしてくれるらしい。

 アオニビさんは、もしかしたら幸運をもたらしてくれる女神かもしれない。

 勢いよく頭を下げた私に、萩鳥さんは「構わないが、ただ、ちょっと条件がある」と告げた。

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