第十八話 ざる蕎麦

 先輩にどやされて会社を飛び出したはいいが、外に出たところで途方に暮れた。

 さて、どうしようか。ひとまず、先輩に言われた通り、何か食べよう。……あまり食欲ないけど。

 私は近くにあったコンビニに入り、棚に陳列された弁当の中で一番量の少ないざる蕎麦を買って帰ることにした。

 コンビニを出てしばらく歩き、私ははたと気が付いた。

「……しまった」

 思考力がかなり低下しているのだろう。自宅まではまだまだかかる道のりだというのに、うっかり会社の近くのコンビニに立ち寄ってしまった。それもその店でざる蕎麦を引っ提げて。

 八月を折り返したが、まだまだ夏だ。とにかく暑い。このままだとざる蕎麦は、自宅まで帰る間に傷んでしまいそうだ。ジリジリと高くなっていく太陽にへばりそうになりながら、近くの公園の木陰のベンチにざる蕎麦と避難した。



 ●


 木陰のベンチは日向に比べて幾分か涼しかったが、天国というには少々苦しい暑さだった。そんな状態で食欲が湧くはずもなく、膝上に鞄とざる蕎麦を乗せたまま揺れる景色をぼんやりと眺めた。

 蝉の声がけたたましく響く公園のベンチでしばらくへばっていると、陽炎の向こうに黒髪の女性が立っていてこちらを見ていた。黒い髪に黒いワンピース、まるで喪服みたいに見えるその服装が目についてぼんやり眺めていたら、何故かこちらに向かって歩いてくる。黒のレースの日傘をさして、短い黒の手袋に華奢な黒のヒール、半袖の黒のワンピースを纏ったその女性は、物憂げな印象の美人だった。

 その美人さんは真っ直ぐにこちらにやってくると、日傘を横へ少し傾けながら私に声をかけてきた。

「ごきげんよう。お隣、良いかしら?」

 アンニュイな美人さんがいきなり私に何の用だ。……アレか、宗教か。「貴女、疲れてない?」「悩みがあるのね、話を聞くわ」ってやつだろう?有難いことに、勧誘を撃退するくらいの脳味噌はまだ残っている。さあ来い!

 臨戦体制をとった私に反して、美人さんは思わぬ変化球を投げてよこした。

「美味しそうですね」

「は?」

 出鼻を挫かれた私は、間抜けに聞き返してしまった。よく見ると美人さんの目線の先には、さっき買ったばかりのざる蕎麦のパック弁当がある。

「……もしかして、これのこと言ってます?」

 ガサリと、ざる蕎麦弁当を持ち上げると、美人さんはにっこりと笑って、ええ、と頷いた。

「ごめんなさいね。ちょっとお腹空いてて、思わず口に出ちゃったわ」

 恥ずかしそうに笑う美人さんに毒気を抜かれた私は、膝の上にあるざる蕎麦弁当を持ち上げると、そのまま美人さんに差し出した。

「あのう……良かったら、召し上がります?」


 ●


 驚いたことに、美人さんは私が差し出したざる蕎麦を笑顔で受け取ると、私の隣に腰をおろし躊躇うことなく完食した。

 いい食べっぷりだった。よっぽどお腹空いてたんだろうなー。

「……生き返ったわ、ありがとうございます。貴女は優しい方ですね」

 儚げに笑うと深々と頭を下げてくれた。

「いえいえ、お弁当買ったは良いけれど食欲なかったので、ちょうど良かったです。って、え……」

 頭をあげた美人さんが、私の頭に手を伸ばしてきたのだ。

「……失礼、頭に虫が」

「……ぃぎやあああ!無理無理ホント無理い!!」

 美人さんが最後まで言い終わる前に私は立ち上がり、大声で叫んだ。虫が大の苦手だからだ。ブンブンと暴れたが、虫は頭にへばりついたままらしい。慌てたように美人さんが声をかけてくれた。

「とってあげますから、そのまま、動かないでくださいな」

「はいいいい!!」

 私が叫んでいる間に、美人さんが体を寄せた。つぶった目の上に影ができて、彼女の気配を感じた瞬間、ほんのりとお香の香りがした。

 髪の上を他人の指が滑る感覚がする。するとある場所で指が止まった。すると頭のてっぺんから少し右に逸れた辺りがビンッと痛んだ。

「……った!」

 想像したくないが、髪に絡み付いていたようだ。美人さんの手が頭上で動く気配と同時に髪が数本鋭く引っ張られた。瞑った目尻に涙が浮かぶ。

「……はい、取れましたよ。とった虫はご覧になります?」

「いいいらないですっ!早く遠くへ投げてくださいいい!」

 分かりました、とクスクスさざめく笑い声と一緒に彼女の気配が離れた。

「さ、もういないので大丈夫ですよ」

 目を開けた私はその場にへたり込んだ。

「ありがとうございました……」

「いえいえ、気になさらないでくださいな」

 腰が抜けてしまったようで力が入らず、ずるずるとベンチにもたれかかりながら地面にお尻をつけた涙目の私を見て、美人さんは楽しそうに首を傾けながら微笑んだ。私は悔しいような情けないような感情から、美人さんを下から見上げた。すると柔らかく笑っていた美人さんの目が細く開いた。

 何だろう、さっきまでと雰囲気が違う気がする……?

「貴女、結構美味しかったから、お礼に良いこと教えてあげるわ」

 ……一瞬、言われた意味が分からず、一拍遅れて聞き返した。

「……へ?」

 美味しかった、って何?蕎麦じゃなくて?

 美人さんは、その細くて白い指の先端を口に含ませ、そして口づけるように指を離してこちらを見てから笑みを深くした。チュッ、と小さく音を立てたその動きはどこかあざとく、でも色っぽくて、女の私でもドキリとした。

「貴女がお探しの鸞鳳堂古書店、ここから三つ先の駅で降りるとあるわよ」

 そう言われた途端、反射的にあのお盆の夜のことが蘇った。

 お祖父ちゃんが言っていたお店!

 何故この美人が、私がその店を探しているのか分からないが、そのことに思い至れるほどこの時の私の脳味噌は冷静ではなかったようだ。なにせ、暑さと眠気と空腹と、極め付けが大嫌いな虫だ。冷静な判断が出来るはずもない。跳ね起きるようにして美人さんに詰め寄った。

「お願いします!私をそのお店まで連れてってください!」

 私が唾を飛ばさん勢いだったにも関わらず、美人さんは困ったように首を先ほど反対側に傾けるだけだった。

「残念だけど、それはできないわ」

「何でですか?!」

 あっけなく断られた私は噛み付くように更に詰め寄った。美人さんはそれに怯むことなく、実に自然に返した。

「だって、今、お盆が過ぎて間もないでしょう?わたくしにはリスクが高過ぎるもの。……これっぽっちじゃ割に合わないわ」

 全く意味がわからなかったが、『これっぽっち』ということは、やはりざる蕎麦が足りなかったのだろうか。お腹が空いていると言っていたし、一番小さな弁当だったのだから仕方がないのかもしれない。

「ざる蕎麦弁当、もう一個買ってきます!」

 私は踵を返して近くのコンビニまでダッシュしようとした。だが美人さんはクスクスと笑うと、追加のざる蕎麦弁当をバッサリ切った。

「いいえ、もうお蕎麦は結構よ。代わりに道標を教えてあげるから、その人に教えてもらってくださいね」

「道標?」

 ええ、と楽しそうに微笑む美人さんの髪がさらりと揺れる。

「金茶色のボサボサ頭を首の後ろで適当に結えている胡散臭い眼鏡の男よ。多分、今日も趣味の悪いド派手なアロハシャツを着てると思うわ」

 何とも特徴的過ぎる人物像を言われて、頭の中でその人物を想像してみた。とても目立つ風貌の男を想像して、私は焦った。ちなみに頭に浮かんだ姿は、完全にアウトレイジな三下男チンピラその一だ。

 ……ちょっと待って。私、そのお店に行くためには、そんなド派手アロハに身を包んだボサボサ頭の胡散臭いヤバ眼鏡に自発的に声掛けなきゃいけないの?!ハードル高くない?!

 私が、林先輩にヤバイと言われた顔でアワアワと忙しなく動かして百面相しているのを気にも留めず、美人さんはこう続けた。

「もしも話を聞いてくれる気配が全く無ければ、わたくしの名前を出せば意地でも止まってくれるはずよ」

「あなたのお名前ですか?」

 意地でも止まってくれるなんて、まるで魔法の呪文のようだが名前だけで本当に止まってくれるのだろうか?

「そうよ。あの男だったなら絶対無視できない名前ですもの」

 絶対無視できない名前って……まあ、こんな美人さんだもん、恋人とか旦那さんとかかな?それにしては伺い聞いた男の特徴と、彼女の可憐でどこかアンニュイな外見的特徴はあまりにも不似合いだ。……もしかしたら元カレとか、ただの幼馴染みとかかも?

 邪推に邪推を重ねていると、美人さんは一呼吸置いて、自分の名前を教えてくれた。


 美人さんは『アオニビ』と名乗った。


《続》

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