第十七話 夢枕

 私の名前は、斉藤麻美さいとうあさみという。地元の高校を卒業後、上京して進学。東京の四年制大学を卒業し一般企業に就職した、何のことはない平々凡々とした二十六歳の社会人四年目に突入した、どこにでもいる会社員だ。ちなみに絶賛彼氏募集中である。

 そんな私は今、猛烈な寝不足に陥っている。

 目の下には立派なクマをこさえ、二十代を折り返した肌には見事なニキビが出来ている。唇もガサガサで、おまけに化粧のノリも最悪だ。いつも旺盛な食欲もない。

 だが仕事を大量に抱え込んでいるわけでも、寝食を忘れ新作ゲームに打ち込んでいるわけでも、ましてや恋煩いでもない。

 では、何か。

 それはお盆休みで実家に帰省した一週間前まで遡る。


 ●


 今年こそは彼氏を連れて帰省するつもりだったが結局私の恋は成就せず、ささくれた心のまま実家の扉を開けた。


「ただいま〜」

「おかえりー。……って、あら。また独りなの?ケンジくんは?」

「……うっさいなー」

 予想していた通りの言葉をかけられて、私は半眼になる。

「え、ちょっと、麻美!もしかしてアンタたち別れちゃったの?!」

 図星をつく母の言葉を無視して、私は足早に仏間へ向かった。


 ケンジとは、七ヶ月も前に別れた元彼氏の名だ。付き合っていた期間は三ヶ月はおろか、一ヶ月しか続かなかったのだから果たして恋人と言えたのかさえ怪しい。

 別れの原因は暇を持て余した妹の麻里まりが、連絡も無く正月にいきなり私の家に押しかけたのが発端だろう。運悪く麻里が、当時まだ付き合いはじめたばかりのケンジと遭遇してしまい、興奮したまま母親に『お姉ちゃんについに男ができたよ!』と先走った報告してしまったことが最大の敗因だと思う。おかげで連日電話で母と父から別々に「一度家に連れて来い」と催促され続け、妹の麻里からは毎日「どこまでいった?!デートした?キスした??」とデリカシーの欠片もないラインを送りつけられた。

 ……わかるよ?この歳まで結婚はおろか相手が出来ないなんて、私の未来予想図にもなかったからね?でも、お願いだから、デート中に一時間おきにアラームのように電話やラインを送らないで欲しいっ!ムードもクソもあったもんじゃないわ!勇気を出して手を繋いだ瞬間に鳴り、キスしようと顔を近づけた瞬間に鳴り、抱きしめてもらって視界がキラキラってして恋人同士特有の甘〜い空気が流れた瞬間に鳴るスマホを何度ぶん投げようかと思ったことか!?その度に、ことに及ぶのを止めてスマホを覗き込んだ瞬間の私の気持ちを察して欲しい!

 家族にバレてしまった最初のうちは、彼も「よっぽど嬉しかったんだね、いい家族じゃん」って笑ってくれたけど、毎日、毎日、ホントうちの家族全員暇なの?ってくらいの頻度とタイミングで鳴り続ける家族からの連絡に、さすがにドン引かれた。


 そんな何となく微妙な空気が流れるなか、大好きだったお祖父ちゃんが一月の中頃に亡くなった。去年の夏頃から体調を崩していたのでずっと心配していたが、急死でなかった分取り乱すことはなかった。

顔も知らない人の葬式に、付き合って数週間の彼を連れて行くのは申し訳なかったから、私は彼を連れず葬儀のために一人で帰省した。

 式自体はいい式だった。お祖父ちゃんの大好きな花で棺の中をいっぱいにできたし、家族の誰一人として欠けることなく参加できた式は、雪が多い地元にしては珍しく天候にも恵まれたと思う。

 とても悲しかったが無事葬儀を終えて、私は彼の待つ東京に戻った。私の東京での癒しである彼に存分に甘えさせてもらおうと、帰ってきたことを告げるラインを送ったら、端的に別れを切り出された。

 突然の申し出に焦った私が会って話そうと切り返したら、「会ったらどうせまた君の家族からの連絡で、会話どころじゃ無くなる」と言われて、ぐうの音も出なかった。

 結局、そのままケンジとはサヨナラしてしまった。婚活サイトで偶然知り合った縁とはいえ、結構ダメージもあったが、職場恋愛でなかっただけまだマシだろう。……興味のなかった化粧やおしゃれも、ほんの少し頑張って手を出しはじめたとこだったのにな。はあ……。

 フラれたショックで報告してなかったが、別れの原因になったのが半分家族のせいでもあるので、少々意地になっていたとは思う。


 少し薄暗い仏間には花の絵が描かれた水色の提灯がくるくる光を撒き散らしながら点いていた。新盆であるお祖父ちゃんのための真新しい提灯と、仏壇に飾られたお祖父ちゃんの遺影が何とも寂しかった。

「……ただいま、お祖父ちゃん」

 そう言って線香をあげておりんを鳴らす。私は乾いた笑顔で、手をあわせた。


 そのあとは、家族からケンジについて質問責めにあい、げんなりするなか夕食を摂った。

 元々過干渉ぎみな家族だったが、付き合っても別れても大騒ぎする家族には流石に辟易した。父は「麻美の彼氏には相応しくない男だったんだ」と鼻息荒く語っていたが、ケンジが父たちからの連絡に対しずいぶん我慢してくれていたと思うと無性に腹が立って、私は話を早々に切り上げた。母や麻里もそれぞれ勝手な見解で意見を述べてきたが、生憎聞く気にもなれなかったのでとっととお風呂に入り寝ることにした。

 自室だった部屋に来客用の布団を敷き、掛け布団をかぶる。元はベッドを使っていたが、私が上京したときに妹の麻里が自分の部屋で使うと持っていったらしい。慣れない布団だが仕方ない。少し埃っぽい畳の匂いがするなか布団に包まると、あっという間に睡魔に襲われた。長距離の移動と過ぎた古傷を掘り返されたせいだろう、スマホを開く余裕もなくそのまま寝入ってしまった。


 そして、それは突然起こった。

 何かの気配を感じた私は、布団の上でぽっかりと目を開けた。見えたのは見慣れた天井だが、どうにもおかしい。何時か気になりスマホに手を伸ばそうとしたが、一切体が動かないのだ。まるで体が凍りついてしまったみたいに、ピクリとも動かない。全く理解出来ない状況に焦りを感じた私は、突然ハッとした。……これは世にいう金縛りだ!と。

 ハッとした瞬間から、焦りは恐怖に変わった。なぜなら霊的体験をしたことのない私には、対処法が全く分からない。

 どどどどうしよう?!どうするのが正解?!

 慌てているうちに今度は足元から何かが這ってくるような重さを感じた。何も見えないのに、重い。しかも何やら壁や天井からガタピシとラップ音的な音が響き渡った。

 人生初の怪奇現象オンパレードにプチパニックを起こした私は咄嗟に、大好きなお祖父ちゃんを呼んだ。

 こわいこわい!お祖父ちゃん助けて〜!

 残念ながら喉も体同様凍りついたように声など出なかったが、お祖父ちゃんを呼んだ直後、私の頭上がぼんやりと光った気がした。首が動かないから確認は出来ないが、私の直感が「お祖父ちゃんが来てくれた!」と言っていた。声の出ない口を震わせて再びお祖父ちゃんに助けを求めた。

 すると頭上でぼんやりとしていた光は徐々に強くなり、私の顔の辺りまで伸びてきた。段々と光が私の顔に向かって迫ってくる。やがて視界が光で一杯になったとき。

『久しぶりだねぇ、あーちゃん』

 光は、ひどく懐かしい声で私の名前を呼んだ。

 お祖父ちゃんの声だった。次の瞬間、体の上になっていた重みが軽くなった。だがあまりの驚きと懐かしさですぐには気付けなかった。

 驚いている私に、お祖父ちゃんはいつもの優しい声で語りかけた。

『あまり時間がないからよくお聴き。いいかい、東京に帰ったら、あるお店を訪ねなさい』

 お店?何の?私は出ない声で聞き返す。

『鸞鳳堂古書店という、蔦に覆われた古本屋だよ』

 ランホウドウ?聞いたことがない。

 そもそも、あまり読書をしない私には古書店など縁のない場所だ。場所の検討がつかない。

『そこに行って、店の中にある玉兎庵の御店主に掛け軸を一本書いてもらいなさい。値段が高いなら色紙でもいい。とにかく何か書いてもらって、それを大事に持っていなさい』

 店の中に庵があるの?というか、掛け軸?色紙?ますます意味が分からない。

 一体そんなもの、何の役に立つのだろうか。疑問符で頭がいっぱいの私を余所に、お祖父ちゃんはもう一度繰り返した。

『いいかい、鸞鳳堂古書店だよ。必ずお行き。そうすればきっと、あーちゃんを護ってくれるから』

 ちょっと待って、意味がわからないよお祖父ちゃん?!もうちょっと、ヒント的な何か欲しいよっ!

 漠然としたことだけを伝えると、お祖父ちゃんと思しき光は空気に溶けるように弱くなっていった。

「——…待ってお祖父ちゃんっ!」

 私の声が出たときには、顔面に覆い被さるようだった光も、ガタピシとけたたましかった怪奇現象もすっかり消えていた。



 それから毎日、私は眠るたびに悪魔にうなされるようになった。それこそ布団に入って目を閉じた瞬間に金縛りにあうことはもちろん、ソファーでうたた寝してても、湯船でうっかり寝た瞬間でもどんな状況でも寝てしまうと金縛りにあい、見えない何かにのしかかられる。おかげで、休みであったはずのお盆の間ろくに眠れなかった私は、げっそりした状態のままで職場のある東京へと戻った。



「おはようー…ってどうした斉藤!顔すごいぞ?」

「おはようございます……えぇ、まぁ、ちょっと……」

 自分のデスクに座りぼんやりしていた私にずいぶんな朝の挨拶してくれたのは、お世話になっている三歳年上の林先輩だ。先輩の、少し野太くて大きな声が、私の寝不足の頭によく響く。

 一週間ぶりの職場だというのに私の目の下には濃いクマがくっきりと刻まれ、まるで幽霊みたいな顔になっていた。せっかく東京に帰ってきたのに、相変わらず悪夢にうなされほとんど眠れていないのだから当然だろう。普段小さいことでは驚かない先輩が目をむいて驚くのだから、多分相当ヤバい顔になっているに違いない。まあ、私としては顔より、大好きだった食事が全く美味しくないことの方が問題だったけど。

 先輩が深緑のネクタイを揺らしながら、私の顔を覗き込む。……ヤバい顔になっているらしいので、あまりじっくり観察しないで欲しい。

「ちゃんと寝てないんじゃないか?頬もこけてるし、ちゃんと食ってるか?具合悪いんじゃないのか?」

「ははは……」

 そうか、私、頬がこけているのか。申し訳程度にしか化粧をしない性分だったから、鏡をじっくり覗こうともしていなかったことに今更気がついた。無意識に頬を触れば、カサカサとした感触がした。

「……斉藤、お前今日はもう帰れ。部長には上手く誤魔化しといてやるから、半休取って、飯食って、家帰って寝ろ」

「……え、いやいや、大丈夫ですよ」

 盆休みだったとはいえ、一週間も休んだのだ。ただでさえ人が居ないのだから、ここで私が抜けるわけにはいかない。そう思って言い募ろうとしたら、先輩は息を長く吐くと、カッと目を見開いて私に向かって一喝した。

「帰って!飯食って!寝ろ!先輩命令だっ!」

 先輩の声があまりに大きくて、私は飛び跳ねるように会社を後にした。


《続》

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