第十六話 蛍 其ノ参

 八月。

 修業式の日にハルに誘われて、俺は千葉県の中心辺りにある山の中に来ていた。何でもここは、ハルのお祖母さんである三冬みふゆさんの母親の実家らしい。今は誰も住んでいないが、土地と建物がまだ残されているので最低でも半月に一度は戸を開け、風を通しに来るのだそうだ。いつもは三冬さんか時雨さんのどちらかが一人で行うのだそうだが、夏休みや冬休みはハルも一緒に来ているらしく、今回は俺もそこに便乗する形でお邪魔させてもらっている。

なんっにもないでしょう?」

 短い髪にほんの少し白いものが混ざる綺麗な女性が、俺にそう言って声をかけた。ハルの祖母の三冬だ。カラッと笑う三冬さんは、頭にをして、縁側に仁王立ちになっている。右手にハタキ、腰に雑巾をぶら下げて、空いている手の甲で額の汗を拭き取る様はまるで少年のようだ。

「いえ、緑がすごいキレイです。お邪魔させてもらいありがとうございます」

 しゃがみ込んで草をむしっていた俺は、そう言って立ち上がった。

「いいえー。むしろごめんね、手伝って貰っちゃって。ものすんごい助かるわっ!」

 あと少しだけ頑張って頂戴っ!と、喝を入れると、三冬さんは元気にハタキをかけて、次々と雑巾掛けしてゆく。俺は負けじと草をむしった。


「二人とも、お疲れ様。一度休憩しよう」

 ずいぶん辺りの見通しが良くなった頃、家の中から穏やかな男性の声がした。声の通り優しい笑顔を浮かべた男性——ハルのお祖父さんである時雨しぐれさんが、おにぎりの乗った盆を持って手招きしていた。

 井戸水で手を洗い、きれいに拭きあげられた丸いちゃぶ台を四人で囲む。

「湖太郎くんが来てくれて助かったよ。この分だとあと二、三時間で手入れが終わりそうだ」

 向かいに座った時雨さんにお礼を言われ、俺は口に含んだおにぎりを急いで飲み込んだ。

「お役に立てて良かったです。俺の方こそ、美味しいお昼をごちそうになっちゃって」

 ちゃぶ台の上に広げられた弁当は全て、時雨さんの手作りだ。程よい握り具合のおにぎりに、自家製の漬物、鯵の南蛮漬け、半熟の煮卵に、鳥の手羽元と野菜のほろほろの煮物。持ってきたカセットコンロで即席で作った汁物も優しい味で、思わずお代わりしたくなる。

 気にしないで良いんだよ、と時雨さんが柔らかく笑う。その笑顔に思わず笑い返していたら、右側から頭をわしわしと撫でくりまわされた。

「若い子が年寄りに遠慮なんてすんじゃないよ!湖太郎くんはウチの春の大事な友達なんだ、私たちで勝手に可愛がらせておくれよ」

「ばあちゃん、湖太郎が驚いてる」

 そう言いながら、ハルは時雨さんによく似た笑顔を浮かべた。つられて俺はもう一度笑った。

 その笑顔を見て、改めて俺は今の俺たちの状況を高校で再現するわけにはいかないと強く思った。

 祖父母が既に他界していた俺は、この人たちと共に囲む空間が大好きだった。ハルはもちろん、この人たちも悲しませたくなかった。


 時雨さんが作ってくれた昼を食べ終わった俺たちは、再び各々の作業に戻った。

 俺は再び草むしりを、ハルは窓拭きと欄間の拭きあげ、時雨さんは水まわりと井戸の点検、そしてなんと三冬さんは屋根裏にいた蛇を追い出して、その後屋根に登って雨漏りの修理をしていた。綺麗な人なのに、ギャップが激しい。大変驚いたが、誰も止めることが出来ないまま、三冬さんは猿のように屋根に登りあっという間に修復して戻ってきてしまった。

 時雨さんの言っていた通り、三時間後には大掃除という名の手入れが終わり、蚊取り線香を焚いた縁側でみんなで涼んでいた。

「いつもなら終わった途端、とっとと帰っちゃうとこだけど。ここまできれいにしたのは久しぶりだし、せっかく湖太郎くんも来てくれてるんだから日暮れまでいましょ」

 そう言うと三冬さんは畳の上に大の字になってうとうとし始めた。それを見た時雨さんが穏やかな笑顔を浮かべながら、三冬さんに小さめのタオルケットを掛ける。俺は、淹れてもらった麦茶を片手にハルと一緒に縁側に腰を下ろした。


 束の間、心地の良い静寂が流れた。

 暮れなずむ頃、ぼんやりと外を眺めていたハルがすっくと立ち上がり俺に向かって声を掛けた。

「湖太郎、行こう」

 ぼんやりしていた俺は、ハルの突然の申し出に目を瞬かせた。

「どこへ?」

 呆然と聞き返した俺の手をとってハルは繰り返した。

「良いから。ちょっとそこまで散歩しよう」

 ハルの唐突な誘いを不思議に思いつつ、俺はハルと一緒に庭の蝉の声を浴びながらスニーカーを履き、家の外へと繰り出した。

 どんどん暮れてゆく山間は、夜になると街灯もないのでとにかく暗く、足元など全く見えない。家の前の緩い坂道を下ると、目の前には広大な田んぼが広がる。先程までは山の向こうに見えていた夕陽も、目線が下がってついに見えなくなった。人の気配のしない田んぼから蛙の声が聞こえる。

「湖太郎。目、つぶって」

 先を行くハルが手を差し出した。薄暗くなる畦道で、ハルの白い手は薄暗く発光しているみたいだった。

「この後は真っ暗で何も見えないだろう?目をつぶらなきゃいけない理由なんてあるのか?」

 駆け足で暗くなる周囲に、目をつぶる理由が見出せず、俺はハルの白い手を見つめて首を傾げた。

 やがて、残された命を燃やすように鳴く蝉の声より、畦道に住う蛙の声が大きくなった。

「ちゃんと理由があるから。だからちゃんと俺の手を掴んでてよ」

 しつこく差し出される白い手に、日に焼けた手を重ねる。体温の低い指が俺の手をがっちりと掴んだ。

「わかったわかった」

 手を引かれるまま、言われた通り目をつぶって畦道を進む。

「どこまで行くんだよ」

 ハルに誘われるままに足を動かしながら問いかけたが、あと少し、としか答えてくれなかった。

 しばらく進むと、ハルが握っている手を少し強く握り返した。

「あと少しだから……あ、足元気をつけて。そこちょっとぬかるんでる……って見えないか」

「うん、なんも見えないな」

 確か今日は新月だ。街灯もない田舎道で、閉じた瞼に光を投げ掛けるものは何もない。

「そうだね、ごめんごめん」

 少し楽しそうなハルの声に、自然と俺の口元も少し綻んだ。

 刹那、瞼の裏に緑色の光が閃いた。

 驚いて足を止めたのと同時に、ハルが目を開けろと言ってきた。恐る恐る開いた目に飛び込んできたのは、辺り一面に広がる黄緑色の光の群舞だった。


「蛍……」


 目の前に驚くほどの数の光の粒が舞っていた。緑とも黄色ともつかないその光は、呼吸するみたいに明滅する。まるで映画や童話の世界みたいだった。今まで見たことがない量の蛍に、俺は息を呑んだ。

 しばらく夢見心地でその光景を見つめていた俺を、ハルの少し低くなった声が呼んだ。

「ねえ、湖太郎」

 俺は夢見心地のまま、隣に立っているハルを振り返った。隣にいたハルの顔が、何百もの蛍に照らされていつもより大人びて見える。

 俺は無言で続きを促した。

 ハルは俺から目を逸らさずに口を開く。

「なんで、いきなり呼び方を変えようなんて言い出したんだ?」

 ズバリと核心に斬り込まれて、俺は答えに窮した。どこまで言っていいのか、逆にどこまで言わなければハルを傷つけずに済むか、瞬時に判断できなくて黙り込むしかなかったからだ。

 ハルは真っ直ぐに俺の瞳を見据えたまま言葉を重ねる。

「俺は、いま湖太郎の考えてることが分からないから、もう一度、理由を説明してくれないか」

 続けて問い掛けられて、俺は一度ぐっ、と唇を噛み、それから焦ったように口を開いた。無意識のうちに腹に力が入る。

「それは、だから……来年……俺たちは高校に……」

 だが、言いさして、俺は口籠った。

 これはただの口実だ。本当は、高校デビューとかどうでも良い。ハルを納得させる為に、そして俺自身を丸め込む為だけに無理矢理作った苦しい言い訳だったから。今の俺たちが置かれた状況をハルが知らないのなら知らないままで良い、そう思ったから出た言い訳だ。

 でも、どうしても続きの言葉が出なかった。

 それどころか、何故か視界が歪んでいく。喉の奥が意思に反して締まっていく。

 ……何故だろうか。心臓の奥が、痛くて痛くてたまらない。

「抱え込むな、俺にも半分持たせろ」

 墨色の瞳に蛍の光が反射して、緑色の光を纏う。その色に背中を押された気がした。

 そこで俺は、自分の中の俺自身の話を纏めようと努めた。

 ……ハルが大事だから、アイツらの一時いっときの娯楽の為にハルが搾取されるのが、どうしても許せなかった。例えそれが直接的だろうが間接的だろうが関係ない。そして何より、俺自身が一時の場の空気に流されそうになるのを何としても止めたかった。

 アイツらが言うような関係になってしまえば、もしかしたら楽なのかもしれない。そうすれば否定する必要もなくなり、余計な奴らも遠巻きにして近寄らなくなるかもしれない。でも、どうしてもそれだけはしてはいけないと思った。……これをどう、言葉にすれば良いのだろう。

 思い巡らしている俺に、ハルはほろりとこぼした。

「……俺は、あいつらと同じ目でお前を見たくない」

 その言葉に俺はぼろぼろと、幼子のように泣き出した。ああ、、と。そして、ぼろぼろこぼれる涙と同じように、嗚咽に遮られながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。多分、ものすごく聞き取りにくかっただろう俺の支離滅裂な説明を、ハルは静かに聞いてくれた。

 やがて全部の説明を終えたときには、俺の顔は涙と鼻水とでぐちゃぐちゃになっていた。

「ふーん……アイツらがよく言ってた“ホモ”とかってそう言う意味なんだ?つーか、それを言うなら“ゲイ”だし。別に誰が誰を好きだろうが、当事者以外の他人には関係ないじゃん。そもそも“ホモサピエンス”って意味ならアイツらも同じ“ホモ”じゃんね?」

 あっけらかんと言うハルは、奴らに言われていた言葉の意味を正確に理解してなお、傷ついた様子はなかった。

「……ハルは、強いな」

 着ていたTシャツの裾で顔をゴシゴシ擦りながら、俺は呆然と返した。本当に、ハルは強い。他人の勝手な物差しに左右されない芯の強さを、改めて気付かされた。

「湖太郎の言う、強いっていうのはよく分からないけれど、理由は分かったよ」

 ハルはそう言って首の後ろを掻いた。自分の中で考えを纏めているときのハルの癖だ。ほんの数拍の後に、ハルは軽く鼻を鳴らした。

「話を聞いても釈然としないけど、そんなに湖太郎が気にしてたんなら協力する」

 狭い畦道で、ハルはくるりと一回転する。まるで神楽でも舞うような動きに、蛍が呼応するかのように舞う。ふわりと揺れた墨色の髪に蛍が反射して、俺の目は釘付けになった。


「これからも宜しくな、


 ハルが、ニッと笑う。その顔は、一緒に悪戯イタズラを仕掛ける時の顔だった。



 ◆◇



 とても興味深そうに話を聞いていた二藍は、最終的に信じられないことを聞いたような顔で口を覆っていた。

「え、やだ、なにその良いおとこは」

 驚愕の篭った声に、長月は目を閉じてうんうん、としきりに肯いた。

「なー。惚れちまうよなー」

 一方、ただの『良い漢』で片付けられなかった二藍は、混乱したように捲し立てた。

「湖太郎の話を聞く限り、今よりよっぽど男前じゃない!どうしちゃったのよ春は!」

「いやいや、今の雅楽代だってなかなか良い漢だと思うよ、俺は」

 あまりの言われ様に、思わず長月は弁解した。が、二藍にとっては全く説得力がなかったようだ。胡乱げに眉根を寄せる。

「そうかしら?身内の贔屓目だけど、容姿はなかなかよ。でもね、年々可愛げがなくなってきてない?昔はあんなにぶっきらぼうじゃなかった気がするんだけど……」

「悪かったな、可愛げがなくて」

 突然後方から予期せぬ声がして、二藍と長月は弾かれたように振り返った。店との境目である居間の入り口に、不機嫌そうな雅楽代がのっそりと立っていた。

「あらやだ、いつからいたの?」

 二藍が、青みがかった紫の瞳を瞬かせて訊ねた。

「面白くもない昔話を長月こいつが長々語ってる途中からな」

 雅楽代はぶっきらぼうに返した。

 聞けば結構前から居間の入り口にいたらしい。

 また新しく依頼が入ったから一息つけようと奥に来たタイミングで、長月が昔話をしている場面に遭遇したようだ。多分、昔の自分が話題にされて気恥ずかしかったのだろう。さっさと入ってくればいいものを。呆れたように息を吐く二藍を、雅楽代はちらりと見遣る。

「で?二藍は面白くもない俺らの昔話を聴いて、どう思ったよ」

 二藍に心の中を見透かされたのを誤魔化すように、雅楽代は問い掛けた。一瞬、考えたような素振りを見せた二藍は、しかしあまり悩んだ様子もなくさらりと返した。

「そうねぇ。いつの時代も人の子はつまらないことで悩むのね、と思ったわ。友人の名前くらい、好きなように呼べば良いでしょうに」

 今思えばその通りなのだが、何となく恥ずかしいようなバツの悪いような気分になった雅楽代は、苦い顔で濁した。

「色々あんだよ、俺たちにも」

 眉根を寄せたままの二藍は、鬱陶しそうに目をすがめる。

「面倒ねぇ」

 一方、二藍に請われて懐かしい話を蕩々と語っていた長月は雅楽代と二藍のやりとりを聴くともなしに、ただぼんやりと眺めていた。

 懐かしくて、少し恥ずかしくて。今ならばあんな奴らの言葉など、雅楽代や二藍のように鼻で笑って一蹴してしまえば良かったのだと思える。

 そう思った途端、すとん、と何かが長月のなかで折り合いがついた。その心情に後押しされるように、長月は静かに口を開いた。

「……なあ、依頼はひと段落ついたのか?」

 自分への問い掛けと瞬時に判断した雅楽代は、長月の方へ向き直りながら首の後ろを掻いた。

「ああ。明後日までの依頼は、ほぼ片付いてる」

 なら、と長月は腰を浮かせた。

「今日、蛍見ないかねぇか?」

 雅楽代は首の後ろを掻く手を止めた。墨色の瞳がまじまじと長月を見つめる。

 名残りの夏。あれから十年以上の時が経った。今ならば、またあの蛍に会うことが出来る気がした。


「行こうぜ、


 ぐっと顎を引いた長月は、悪戯っ子のようにニッと笑って、日に焼けた手を雅楽代に伸ばした。

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