第十五話 蛍 其ノ弐
あれは中学三年の夏だったか。
初めて会った小学生の頃より、俺たちはグンと背も伸びて体つきが段々としっかりしてきた。
中学に上がり、最初はブカブカ過ぎて全然似合わなかった学ランも、すっかりいい感じのサイズになった。その学ランを脱ぎ、目にも眩しい白い半袖の開襟シャツに袖を通した、そんな中学生最後の夏。
「あだ名で呼び合う?」
なにそれ?とハルの顔に書いてある。隣を歩いていたハルが足を止めて、こちらを見つめた。
修業式を終えた今、明日から始まる夏休みに浮き足立つクラスメイトたちは早々に帰宅していった。そんな中、人気のなくなった廊下を俺とハルは連れ立って歩いている。猛暑の中、人の群れの中を掻き分けて帰らなくてはならないほど急ぐ用事がない俺たちは、昇降口や通学路の人の往来がまばらになるまで時間を潰すべく、空になった自分たちの教室にのんびりと向かっていた。
窓の外でアブラゼミがジワジワと叫んでいる。額にじわりと汗が滲む廊下で、ハルは俺に向かってそう聞き返した。
俺は、うん、と頷いた。足を止めたハルの
「俺たちも今年で中学卒業じゃん?高校に上がったら別の学校に行くかもしれないし、今までみたいに毎日会えるかわかんねぇじゃん。ちょっと早いけど、いわゆる高校デビューってやつでさっ」
更に数歩進んで止まると、後方で止まったままのハルを振り返った。墨色の瞳が胡乱げに見つめてくる。
「……で、あだ名?」
やはり納得できないといった顔で、ハルは俺の言葉を繰り返した。提案した俺自身、全く納得していないのだから当然だろう。俺自身、自分で言っておいて全く意味不明だと思っている。
では何故、そんな提案をしたのか。
それは、目の前で難しそうに眉間にシワを寄せているハルの見た目が大きな要因だ。
当たり前の話だが、中学に上がりハルも俺と同じように背が伸びて、体が成長していった。だが、元々華奢で色白のハルは成長しても線が細く、同級生の男子と並ぶとまるで女の子のように華奢だった。加えて吸い込まれるような墨色の瞳と、サラサラの髪。整った顔立ちに、大人しい性格とくれば、彼らの格好の餌食だった。一部の面倒くさい絡み方をしてくる
周りの男子は皆、名字を呼び捨てていて、当時下の名前で呼び合っていたのは俺とハルだけだった。それが彼らの感性に引っ掛かったのか、事あるごとにその事を妙に
だが女子の方は男子と違って必要以上にしつこかった。見た目が男っぽくないハルと、少し体がゴツくなってきた俺が教室で他愛無いおしゃべりをしているだけで、何故かヒソヒソさざめくように好奇の目を向けてきた。
大変不愉快なことだが、俺とハルの見た目や仲の良さは、中途半端にませた女子にとっては最高の素材だったのだろう。「絶対デキてるよね」と、まるでわざとこちらに聞かせるかのような声量で口走ったり、トイレに同時に立つだけで興奮したように頬を染める輩まで出る始末だった。
よく大人たちは、「子どもは無邪気で、残酷だから」と言うが、被当事者から言わせてもらうなら、ああいう輩は「無邪気」とか「残酷」とかそういう範疇を超えていると思う。
極め付けは、俺とハルを題材にしたその手の薄い本まで出回る始末で、俺はどうしようもない気持ち悪さと、身の危険さえ覚えた。
そこで俺は考えた。どうすれば、この状況を変えられるのか。多分、中学の間に彼らの認識を変えさせるのは無理だろうから、せめて高校生になってからはこのようないわれの無い好奇の目に晒されずに済むようにはどうしたらいいのかと。
何故そこまで気にしたのか。
それはこれらのことが原因で、ハルが妙なことに巻き込まれそうな気がしたから。今はなんとも思っていない様子のハルとの関係が、望まないうちに壊れてしまうかもしれないことが、俺にとって最大の恐怖だったから。今思えば馬鹿馬鹿しい話だが、その当時の俺は必死だった。
そして、無い頭を捻りに捻って出した答えが、『互いの呼び名を他の連中と同じように変える』ことだった。
他人の目を気にして呼び方を変えるなんて考えてもみなかったが、群れからはみ出た者は、良くも悪くも興味の対象になる。悪目立ちすれば叩かれることもあるだろう。変えたくないハルとの関係や、変えることの出来ない容姿以外なら、もうこれしか無いとさえ思った。
「湖太郎のことを、……“長月”って呼ぶの?他のみんなと同じように?」
よく知った声で、名前でなく名字で呼ばれて胸の奥がチクリと痛んだ。正直違和感しかない。どうやら俺は、ハルの声で呼ばれる自分の名前を、俺が思っている以上に随分気に入っていたのかもしれない。他の奴らと同じように埋没する俺の
だが、それに気付かないフリをして、俺は強く頷いた。
「うん、そう。すぐってわけじゃないけどさ、中学卒業までにはそう呼んで欲しいって思ってんだ」
釈然としない顔のハルに、俺は無理矢理笑顔を作ってたたみかけた。
「だから俺もこれからは出来るだけハルのこと、う……“雅楽代”って呼ぶよ」
声に出してハルを名字で呼んでみたが、途中で引っ掛かりどうしてもぎこちなくなってしまった。これまた違和感しか感じない。呼ばれたハルも気持ち悪そうに眉を寄せた。
「…………ふーん?」
たっぷり三秒ほど溜めを作った返事は、およそ納得とはいかなかったようだ。ハルの綺麗な顔の中心辺りに、あまり似合わないしわが寄っている。ハルは眉間と鼻の頭にしわを寄せたまま、すたすたと歩き出した。そして、立ち止まったままの俺を抜かしずんずんと廊下を進む。置いてけぼりにされた俺は、一拍遅れでハルを追いかけた。
「ハル!おい、ハ……っ雅楽代!置いてくなよ」
あの顔はきっと、いや、確実に怒っている。ハルは上手く感情を隠せないタチだ。少なくとも俺の前では、感情がだだ漏れになる。
細い肩で風を切るように進む足が、
名を呼びながら目の前を行くハルを追いかけていたら、いつの間にか自分たちの教室のすぐ近くまで来ていた。
「ハルっ!」
全く反応しないハルに、微かに苛立って俺は強めにいつも通り
扉の前でピタリと止まったハルにつられるように、ほんの少し間を空けて止まる。ペタペタと上履きが床とぶつかる音が止むと、ハルはくるりとこちらを向いた。体ごと回ったせいで癖のない髪がフワッと広がって、墨色の瞳が一瞬色を濃くしたように見えた。
窓から差し込む夏の日差しが不意に強くなって、ハルと俺の足元を白と黒とにきつく染め上げる。反射する白が眩しくて、俺は思わず目を細めた。
すると、いつもと同じ声が突然切り出した。
「ねえ、湖太郎。今年の夏休み、一緒に山に行かないか?」
そう言った顔が妙に静かで、ハルが怒っているのか悲しんでいるのか、俺は初めて分からなくなった。
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