第十四話 蛍 其ノ壱

 夏の終わり。


 人通りの多い賑やかな大通りから三本ほど路地を奥に入り、更に角を四つほど曲がり、三叉路を右へ行き、人気ひとけのない坂道を登りきった先の雑木林の入り口に建つ、まるで息を潜めて隠れるような佇まいの店、『鸞鳳堂古書店らんほうどうこしょてん』。

 いつもと変わらぬ蔦まみれの外壁に、同じく蔦まみれの木製看板、そしていつもと変わらぬ煤けたスタンドガラスの嵌った扉。その扉を開けても店内に客の姿はなく、いつも通り閑古鳥が鳴いている。いつもと変わらぬ風景が店内に広がっている。

 ……ただ一点を除いて。

「いつもこの時期になると、決まって忙しくなるよな」

 店内に足を踏み入れた長月湖太郎ながつきこたろうは、眩しそうに辺りを見回した。お盆のころに比べ幾分か柔らかくなった日差しが差し込む窓の近くで、埃とは違った光るものが浮遊している。字蟲あざむしだ。

 その字蟲が特に多く舞っているのが、店の奥。古びた本がぎっしり詰まった本棚に埋もれるように出来た、洞穴のような小さな部屋。その入り口のすぐ傍に微かに見える柱には、『玉兎庵ぎょくとあん』と書かれた蒲鉾板が掛かっている。長月は舞い飛ぶ字蟲に誘われるように、その玉兎庵に向かって真っ直ぐ足を向けた。中をひょいと覗いてみれば、外よりももっと多くの字蟲が飛んでいて部屋全体がぼんやり発光しているようだった。その光の中心に黒髪の青年が一人、黙々と手を動かしている。鸞鳳堂古書店及び、玉兎庵の主人である雅楽代春うたしろはるだ。

 入り口に長月が立っているのに気付いた様子もなく、一心不乱に筆と格闘していた。幼馴染みの集中を乱しては悪いと、その様子をぼんやり見つめていた。ら、唐突に声がした。

「あら、いらっしゃい湖太郎」

 少女のような可憐な声に名を呼ばれ、長月は視線を左に動かした。

「やあ二藍ふたあい。お邪魔してるよ」

 長月は、埋め込み式の棚の前に積まれた本の上にちょこんと座る紙魚しみに声をかけた。

 白い肌に、藍色に紅色をのせた紫に似た色の長い髪。瞳は髪よりやや青みがかった紫色。夏だからか、いつもと違う涼しげな鼠色の浴衣を身に纏い、髪よりやや紅色よりの色の尾ひれを気持ち良さそうに揺らしている。

 二人が入り口で軽い挨拶を交わしても、雅楽代は気付く様子を見せず目の前の紙を睨み付けたままで、手を止めようとしない。雅楽代の奥に目をやれば、いつもは数枚しかない注文書が厚い束になっていた。どうやら今年も大量の注文が入ったらしい。店内や玉兎庵の中に飛ぶ字蟲の多さも納得である。

「毎年のことだけど、お盆が終わった後やたら忙しくなるよなー」

 玉兎庵の中を見渡しながら長月は言った。それに倣うように、二藍も部屋の中を見渡して目を細める。

「そうね。大方、あの二人があの世でバッチリ営業活動してくれてるせいだと思うのだけど」

 あの世というと、雅楽代の祖父母か両親のことだろう。ただ、二藍の言う営業活動というのがよく分からない。

「……なるほど?」

 長月は、半分だけ納得して頷いた。二藍は気にせず続けた。

「で、盂蘭盆でその営業した相手がこの世に帰省した際、親族の誰かの夢枕にでも立って作品制作を依頼するように仕向けてるんでしょう」

 彼女が言うには、盂蘭盆お盆であの世から帰省した故人が夜な夜な親族の枕元で御告げをするように仕向けて……もとい、営業活動をしているんだそうだ。「鸞鳳堂古書店内にある玉兎庵へと出向き、庵の主人に書をしたためてもらえ」と。夜な夜な故人に夢枕でそんな御告げをされたら、大概の人は血相を変えて御告げに従い店に駆け込んで来るのだろう。

「……なるほど」

 想像したら、顔も知らない依頼人たちが何とも不憫に思えて微妙な顔になった。真夏の夜にとんだ怪奇現象に見舞われてしまった人に、長月はちょっぴり同情した。

「ちょっとやり過ぎな気がしないでもないけれど、春が職に困らずにいるのは確実にあの二人のおかげよねー」

 ただ、お盆明けに依頼が集中し過ぎるのだけが難点だわ、と二藍がぼやく。確かにこの時期だけ殺到するのは考えものな気もする。だが……。

「まぁ、雅楽代が飢えないんなら、いんじゃねぇの?」

 怪奇現象に悩まされた依頼人たちが不憫だとは思いつつ、雅楽代の腹が満たされるのはとても大事だし、と長月は呑気に言葉を継いだ。

 そう言って二人は再び、作品づくりに勤しむ雅楽代と舞い飛ぶ字蟲たちをぼんやりと眺めた。


 それはそうと。と、二藍が突然沈黙を破った。

「今日はどうしたの?」

 真っ白な睫毛を瞬かせて、不思議そうに見つめてきたので、長月は自分の左手にぶら下げたままになっていた物を二藍にも見えるように持ち上げてみせた。

「ああ、差し入れだよ。例年通りなら今頃缶詰になってるんじゃないかと思ってな」

 ガサリと鳴るビニール袋には、コンビニで買ってきた冷やし蕎麦が入っている。

「まぁ買ってきたのね。蕎麦くらい、湖太郎が作ってあげれば良いんじゃないの?」

 コテン、と首を傾げる二藍に、長月は苦笑いを浮かべた。

「料理音痴が慣れないことすると、ろくな事ないからな」

 大学生の頃、長月がこの家の台所を借りて袋麺を茹でようとしただけで小火ぼや騒ぎを起こしたのは、まだ記憶に新しい。それを二藍も覚えていたのだろう、ころころと鈴を転がす声で笑った。

「ふふ、賢明な判断ね。貴方が作れるのは今でもカップラーメンくらいかしら?」

「いやいや、の冷食なら俺でもいけるって」

 そう言って二人は、あはは、うふふ、と楽しげな笑い声を飛ばし合う。でもそれは一瞬のことで、真顔で二藍が問いかけた。

「……うちに来ない日は、そればっかり食べてるんじゃないでしょうね?」

「……いやだな〜、そこまで酷い食生活してないってー」

 ほんの少し間が空いたのが何とも怪しい。ニッコリ爽やかな笑顔で誤魔化そうとしているのも、それで誤魔化されると思っているのも生意気だ。雅楽代と同様、幼い頃からよく知るこの青年の食生活を問い詰めたい気持ちになった二藍だが、生憎相手は雅楽代ほどチョロくない。一分程じっくり見つめたが、爽やかな笑顔が崩れることはなかった。腹立たしいが、ここは年長者として引き下がるべきなのだろう。

 仕方ないので、二藍は話題を変えることにした。「ところで」とわざとらしく口にして、頬に手を添えて溜め息をつく。

「差し入れは春のものだけ?私のはないの?」

 ちょっと残念そうな彼女の仕草が人間臭くて、長月は微かに笑った。

「拗ねない拗ねない。ちゃんと二藍の分もあるよ、ほら」

 そう言って右手を挙げると、細長いビニールがぶら下がっていた。すると今度は、あら、と嬉しげに顔を綻ばせた。

「もう、早く言ってよ。で?物は何かしら」

 いそいそと立ち上がると、右手の袋を覗き込むように浮かんだ。

「幻の『雨鶴うかく』の作だそうだ」

 二藍から、にこにこと嬉しそうな笑みが消えた。代わりに、スッとすがめられた青紫色の瞳に鋭い光が宿った気がした。

「ふぅん……?なかなかにそそる名前じゃないの」

 見せなさい、と二藍は玉兎庵から長月を連れ出した。


「物は何?」

 ガサリと音を立てる長月の右手を睨みながら、二藍が問う。

「茶掛けだな。花鳥画だ。大きさは半紙サイズ、描かれたモチーフは鶯。文は『圓機活法えんぎかっぽう』に記載のある紅梅の一節らしい」

 長月は、買い付けをした店の主人から受けた説明をそらんじながら、居間の卓に問題の軸を置いた。真田紐さなだひもを解き、軸を広げる。顔を近づけ、一瞥した二藍は鼻を鳴らした。

「はん!何が、幻の『雨鶴』の作よ。ちゃんちゃら可笑しくておへそでお茶が沸いちゃうじゃない」

 書面をあらためた二藍が思い切り馬鹿にするような声で言いながら、軸の端を手の甲で弾く。

「やっぱり今回もハズレか」

 辛辣なコメントに長月は、ふう、と溜め息をもらした。

 紙の焼け具合や、墨の色が何となくお粗末に見えたので期待はしていなかったが、やはり贋作だったらしい。二藍の見立てだから疑いようが無い。

 長月が軸を巻きなおそうと手を伸ばすと、二藍が止めた。

「いいえ。見た目通り明らかな贋作だけど、今回は本物大当たりよ」

 弾かれたように振り返ると、不敵な笑みを浮かべた紙魚の少女と目が合った。

「確かにこれはね。さあ、坊や。の対価となる願い事は何かしら?」

 久々の当たりに、長月の喉がゴクリと鳴った。



 ◇



 二藍との秘密の取引が終わり、長月は卓の上を片付け始めた。

「そういえば湖太郎。貴方、はるのことをまた雅楽代って呼ぶことにしたの?この前は『ハル』呼びしてたから、てっきり戻したのかと思っていたのだけど」

 いつもと同じ声音に戻った二藍が唐突に切り出した。思わず軸を巻き取る手が止まる。

 突然の問いかけに、長月は戸惑った。自分では意識していなかったが、どうやらこの紙魚が呼び名を戻したと勘違いするくらいの回数は『ハル』と呼び続けてしまっていたらしい。

「ああー……、まあ、あれは咄嗟に出て、クセでそのまま呼んでただけというか……」

 ごにょごにょと口籠る長月を、二藍が訝しげに見つめた。酷くシンプルな疑問から、そのままグイグイと詰め寄る。

「そもそも、なんで名ではなく姓で呼ぶようになったの?昔は二人とも、名で呼び合っていたでしょう?」

「う……」

 グイグイと来られて、長月は思わずたじろぐ。その反応が少し面白くて、二藍は長月をさらにじっと見つめた。先ほどはぐらかされたのも手伝って、今まで特に深掘りしていなかった二人の互いの呼び方が、今更気になってきたようだ。

 じっと見つめられることに耐えられなくなったのか、長い沈黙の後、長月はどんよりとした溜息をついた。

「……長くなるぞ?」

 心底嫌そうな長月とは対照的に、二藍はワクワクと身を乗り出した。

「構わないわよ。春の集中力が切れるまで、まだ当分かかりそうだし、どうせそれまでお互い暇なんだから」

 確かに長月が訪れてからここまで、店内に飛び交う字蟲の量は一向に減らない。二藍の言うように、雅楽代の集中が切れるまでまだまだ掛かるだろう。長月は、昼食を摂るまでまだ時間がありそうなのを確認すると、盛大に溜め息をついた。

「……そんな面白い話じゃねぇよ」

 まるで雅楽代のようにきつく眉根を寄せた長月は、重い口を開いた。

「ええ、聞かせて頂戴?」

 話を聞く態勢に入った二藍は、広げた軸が入っていた木箱に腰掛けて続きを促した。それを見て長月も、軸を巻き取る手を完全に止めて椅子に座ることにした。

「……昔な、二人で蛍を見に行ったんだ」

 そう言って、遠い日を思い出すように目を瞑り、静かに語り出した。







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