第十三話 字蟲

「遅いっ!!」

 やっとの思いでたどり着いた鸞鳳堂自宅の煤けた扉を開けると、鋭い声で怒鳴られた。

 声の主は中空で仁王立ちしていた二藍だ。

 それもそのはず、店の時計の針は数字の五を指そうとしていた。つまり十七時。ものの二時間弱で終わるはずだった買い出しだが、色々あって既に予定の倍の時間が過ぎていた。二藍が怒るわけだ。

 雅楽代は疲れたように息を吐いた。

「ただいま。……色々あったんだよ」

「ええ、そうでしょうね。色々なければ、暑いのが嫌いなはるがこんな長時間外に居るわけないもの」

 ……ぐうの音も出ないとはこの事か。

 鮮やかすぎる二藍の返しに、雅楽代は唇を尖らせて鼻の頭にシワを寄せた。そのまま無言で店内に入っていく。それに続くように、長月も酷く疲れた顔で店に入ってきた。

 説教はまだ終わっていないと、言いかけた二藍は雅楽代の右耳に見慣れない物を見つけて、長い睫毛を瞬かせた。

「春、それは?」

 二藍が自分の耳元を指差しながら問う。

 短い問いかけに足を止めた雅楽代は、つられたように自分の左耳に指をのばして、ああ、と呟いた。雅楽代がのばした指の先には、透明な石のピアスが着いている。

「ピアスだよ。ほらあの時、青にあおにむぐ」

「あーわかったわ!わかったから、アレの名前を呼ばないで頂戴っ」

 例の黒い紙魚の名を出そうとした瞬間、二藍がすかさず制止した。着物を翻し、雅楽代の口をその小さな手で強引かつ物理的に押さえ込む。雅楽代の顔の近くまで来た二藍はひとつ溜め息をつくと、改めて雅楽代の左耳を眺めた。

 左の耳たぶに嵌るピアスは、透明な石で出来ている。見たところ純度の高さから、石は水晶のようだ。決して目立つデザインではなく、普段から装飾品を身につけない雅楽代でも違和感なく着けられる直径三ミリ程の球体のシンプルなピアスだ。

「アレに噛まれた穴、まだ塞がって無かったのね。……うん、なかなか良さそうな物じゃない?」

 二藍がそっと雅楽代の耳に手を伸ばす。

 微かに揺れる雅楽代に呼応するように、耳の水晶が澄んだ光を放つ。それを眩しそうに二藍は見つめた。

「これ、勝善寺しょうぜんじ栄玄えいげんさんから貰ったんだ」

 顔の近くにいる二藍を払い飛ばしてしまわないように気を付けながら雅楽代が説明する。

「へぇ、栄玄がでくれたですって?珍しいこともあるのねー」

 ややトゲのある言い方だが、二藍が驚いたのには理由がある。

 大変穏やかな雰囲気や口調に騙されてしまいそうになるが、勝善寺住職の栄玄はお金に細かいことで有名なのだ。それはもう、キッチリし過ぎるくらいにキッチリしている。几帳面な性格がそのまま出ているような細かさだ。間違えてはいけないのが、栄玄はお金に汚いのではなく、ただひたすらにお金に細かい。彼の金銭感覚は清廉そのものだ。そんな栄玄の座右の銘は『親しき中にも礼儀あり』と『金の切れ目が縁の切れ目』だ。

 珍しい物を見つけて、二藍は改めてピアスを検分するように見つめた。

「ああ、それなー」

 感心したような二藍の声に対して、先に店の中程まで進んでいた長月が振り返り、間延びした声で切り出した……。



 ◇



 雅楽代と長月は例の赤い女に追っかけられて、ほんの三十分程前まで近所の勝善寺に逃げ込んでいた。

 そこで雅楽代と長月は——正確には雅楽代が——住職の栄玄に勧められて、写経をしていた。

 雅楽代が渡された教典は般若心経。般若心経は全二百六十六文字からなる大乗仏教の神髄となる教えを説いた経典だ。タイトルを含めると二百七十六文字となる。唱えたり写経することで、主に精神統一と集中力強化に効果があると言われる。

 部屋の端の柱の前に雅楽代と向かい合うような形で腰をおろした長月は、雅楽代が書かされている教典に違和感を感じて、いつの間にか自分の隣に腰をおろしていた栄玄に耳打ちした。

「ねえ栄玄さん、般若心経って除霊に効果ありましたっけ?」

「私は聞いたことありませんねぇ」

 あっさりと栄玄は否定した。あまりの潔さに長月が目を剥いた。

「はぁ?!じゃなんで般若心経書かせてんです?」

 意味が分からないと憤慨しかけた長月に、栄玄は人差し指を口の前に立てて琥珀色の瞳を細める。

「大きな声出されると、彼の集中の糸が切れてしまいますよ」

 お静かに、とやんわり言われて、立ち上がりかけた長月は再び腰をおろした。半眼で栄玄をめ付ける。だが栄玄は変わらず、黒縁眼鏡の向こうで涼しげに微笑んでいる。だが長月にはその笑顔が、まるで人を食ったような、人の悪い笑みに見えた。

「大丈夫ですよ。無駄に書いてもらってるわけじゃないんで」

「……本当ですね?」

 疑わしそうな様子を隠そうとしない長月に、栄玄は苦笑する。

「ええ。悪いようにはしませんよ」

 栄玄は長月の方を向いて頷く。言い回しが何とも悪役臭かったが渋々長月も頷いた。

「それより……ご覧なさいな。あの美しい姿を」

 栄玄がゆっくりと前を向く。栄玄の声に促されて長月も前を向いた。

 二人の眼前には一台の文机と、黒髪のやや青白い肌をした青年。

 真剣な面持ちで筆を握るその青年の腕が静かに、それでいて物凄い速さで動いている。柔らかく、そして強いその筆致はさながら山間を流れる清流のようだ。澱むことなく、さらさらと流麗な文字を紙の上に踊らせている。

 だが、二人の目にはそれ以上のものが映っていた。

 文机の周りが、淡く、白く発光している。その光は青年の手元から次々と生み出されているものだ。光は青年の手元から勢いよく飛び出すと、青年の周りをゆっくりと浮遊する。その様はまるで蛍のようで、ふわりふわりと辺りを舞い続けた。

「いつ見ても、絶景ですねぇ」

 まるで月や花をでるような、うっとりとした声だった。その感想には長月も大いに賛成したい。頻繁に見ている長月でさえ、美しいと思う光景だ。

「……本当、字とは思えないですよ」

 気付けば長月も感嘆の声を洩らしていた。

 その溜め息を誘う光は、よく見ればそれぞれ違う形をしている。複雑な形をしているものは判読出来ないが、『可』や『多』や『心』といったをしているものがいくつか見受けられた。

 文字から生まれ舞うそれは、字蟲あざむしと呼ばれる。

 書家・雅楽代春の書く文字は一定の条件下で、字蟲となる。字蟲とは二藍ふたあい青茅かりやす青鈍あおにびなどといった紙魚が好んで食すとても儚い存在だ。字蟲そのものに意思はなく、から生まれ、浮遊し、そして暫くすると消える。自然発生はせず、現代でお目にかかる事は皆無だ。字蟲が生まれるには、一から磨られた墨と毛筆を使用して文字を書く必要がある。もちろんそこに筆者の力量も大きく関わる。だがその力量というのは単純に字の上手い下手や、世の中で認められているといったことだけではない。に愛されているか、否かだ。

 事実、雅楽代春は人ならざるものたちに愛されて、字そのものに愛されている。それは、雅楽代の性格か筆跡の所為か、はたまたその体を流れる血の所為か……。いずれにせよ、良い意味でも悪い意味でも、雅楽代はそういったものたちに愛されてしまっている。

 それ故に、彼の手元では字蟲が舞い、寺の門外では赤い女の霊に付き纏われているのだが……。雅楽代自身に自覚がない所為か、特に気にしていないようだ。代わりに、近くで見ている長月たちの方が毎度ヒヤヒヤしている。

 雅楽代が字を書いている間中、書いた文字が光り、そして空中を舞う。漢字一文字ごとに魂が宿り、書かれた文字から光となって飛び出すと、まるで人懐こい蛍のように雅楽代の周りをふわりふわりと漂うのだ。その光景を二人がぼんやり見つめている間中、字蟲は雅楽代と部屋の中を舞い続けた。

「流石、雨鶴うかくの愛し子ですねぇ。まさに百年に一度のお人だ」

 うっとりとした栄玄の呟きは、部屋中に舞った字蟲の光に吸い込まれた……。


 字蟲の生み出す幻想的な光景に二人が目を奪われているうちに、雅楽代は筆を置いて立ち上がった。書き終えた写経を携えてこちらに近付いてくると、それをそのまま栄玄の眼前に差し出した。

「書き終わりました。これで良いですか?」

 雅楽代は周囲を舞う字蟲に目もくれず、惚けたような栄玄と長月を不思議そうに見つめる。栄玄は名残惜しそうに、細い目を更に細めて淡い光を見つめてから、雅楽代に目線を移した。

「はい、確かに。お疲れ様でした」

 差し出された写経を受け取ると、栄玄は満足そうに立ち上がった。

「では、そろそろ外の女性にお引き取り願いましょうかね」

 そう言っていくつかの道具を用意した栄玄は、門の手前まで進み、門外に向かって何事か呟くとあっという間に赤い女を祓ってしまった……。




 ◇




 長月の説明を一通り聞き終えた二藍は、笑顔のまま顔を痙攣らせるという器用なことをしてみせた。

「ほおお〜?つまり何。湖太郎貴方がついていながら、栄玄アレの前で春は字蟲を飛ばした挙句、そのまま写経を納めてきたと。しかも二枚もっ!!」

 詰め寄られた雅楽代は必死に説明したが、完全に二藍の勢いにのまれている。

「や、だから、ピアスこれと祓い賃ってことだと……」

 雅楽代の及び腰の説明に、二藍は鼻息荒く返した。

「払い過ぎなのよ!……全く、似なくていいところばかり似るんだから」

 盛大に溜め息をついた二藍は、目の前の雅楽代と、説明しながら更に店の奥へと進んだ長月の後頭部を思い切り睨み付けた。

 一方、長月は我関せずといった体でぶら下げていたビニール袋を揺らして言った。

「ほらほら、説明は終わったんだから。早くやろうぜ迎え火〜。ボヤボヤしてると栄吉さんが来ちまうぞ。宴会が遅れたら買ってきた和菓子、全部食われちまう」

 そのあっけらかんとした口調に、雅楽代はハッとした。確かにその可能性は十二分にある。折角苦労して買ってきた和菓子を、全て栄吉に食べられるわけには行かない。

「やべっ、行くぞ二藍!」

「!ちょっと!」

 説教途中の二藍を肩口にくっつけて、右手にぶら下げたビニール袋をガサガサいわせながら、雅楽代は慌てて長月の後に続いた。


 それから三人は大急ぎで準備を整え、門柱の傍でおがらを燃し、迎え火を行った。迎え火の火からとった灯りを点した手持ち提灯を振っていると、上機嫌の栄吉が、毛糸玉のように丸くなった娘の紫鈴を引きずるようにしたやって来た。

 今年も楽しい宴会になりそうだ。

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