第十二話 ご住職の言う通り
雅楽代と長月の二人は、逃げ込んだ近所の寺・
……どれくらい睨み合っていたのだろうか。緊迫したこの空気に、場違いなほどのんびりとした声が響いた。
「こんにちはぁ。お暑い中、お二人揃って何されてるんです?」
弾かれたように声の方を見れば、人の良さそうな眼鏡の男性が不思議そうな顔でこちらを見つめていた。
「……
声を掛けてくれたのはこの寺でお勤めしている住職の栄玄さんだ。栄玄さんは五十路を超えたほどの比較的若いご住職で、つるりとした坊主頭に黒縁眼鏡、切れ長の目尻は少し垂れ気味で、それが優しい琥珀色の瞳によく似合う。ちょうど墓の整備をしていたのだろう。腕には古くなった塔婆が何本も抱えられている。
涼しげな麻の僧衣に身を包んだその姿を見て、二人は詰めていた息を一気に吐き出した。
「うん?」
だが、ホッとしたのも束の間、塔婆を抱えたままの栄玄が眉を寄せて覗き込むようにこちらを見てきたからだ。思わず固唾をのんで英玄を見つめ返す。
「うう〜ん?」
栄玄はそのまま唸りつつ、門の外で揺れている女の方を見つめ、そしてまたこちらを見つめる。何度かそれを繰り返したあと、うん、と納得したように頷くと持っていた塔婆を玄関に立て掛けて、二人に中に入るよう手招きした。雅楽代と長月は顔を見合わせるとそろりと立ち上がり、背後を気にしながら栄玄の呼ぶ方へ向かった。
◇
「門の外にいる
応接間に案内された二人は、栄玄にそう訊ねられた。雅楽代と長月は、まだ門の外でゆらゆら揺れているだろう女を思い出し、ぶるりと震えた。
「赤の他人です」
「辻橋の辺りからついて来たみたいなんですけど……」
二人は同時に答えた。明らかにヤバイ雰囲気を醸しているあの女性に、二人とも全く身に覚えがなかったからだ。
ふむ、と栄玄は頷き、思案するように口元に指を当てる。一拍ほど目を瞑り、そして開いた琥珀色の瞳が真っ直ぐに射抜いたのは雅楽代だった。じっと見つめられ思わず身構える雅楽代に、困った子どもを叱るような声音で栄玄は言い放った。
「一体何して、何に目ぇつけられたんです?」
「勝手について来ちゃったんです!」
咄嗟に応えた雅楽代は、全力で赤い女との面識を否定した。信じて!という気迫で言葉を継いだが、栄玄は静かに首を横に振った。
「外の
黒、と言われて、雅楽代はドキリとした。あの妖艶な黒い紙魚を思い出したからだ。一方、あの現場に居合わせなかった長月は、意味が分からなかったのか怪訝そうに眉を寄せて続きを待った。
「この辺りに、どす黒い
栄玄は雅楽代の顔の周りをぐるりと指差す。
角度を変えれば何かが見えるのか、まるで梟のようにしきりに首を左右に傾げながら栄玄は話を続ける。
「何て言えばいいんでしょう……君特有の良い匂いと、別の禍々しい匂いと……血の匂い……」
眉根を寄せて、またウンウン唸り始めた。目を細め、雅楽代の顔を凝視する。そして、はたと何かを閃いたように琥珀色の瞳を瞬いて、ポンと手を打った。
「その何かに、どこかしらか、噛まれませんでした?」
雅楽代は思わず左耳を押さえた。
「ははーん、噛まれたのは耳ですね」
反射的に動いた雅楽代を栄玄は見逃さなかった。したり顔で追求する。初耳の長月もすかさず問い詰める。
「噛まれたのか?」
「いえ、あの、その」
分かり易すぎる自分が嫌になる。しどろもどろに応えながら、それに噛まれたときの情景を思い出すと、自然に顔が赤くなる気がした。
「多分、ちょっと前に熱出してぶっ倒れてましたよね?」
ずばり言い当てられて二人は目を丸くした。
瞠目する雅楽代たちの反応を見て、ああ、やっぱり、と栄玄は頷いた。
「穢れ、ってやつですよ」
その答えに、長月は納得したように頷き、雅楽代は嫌そうに顔をしかめた。穢れとは、不浄なものにふれることや、不浄なものそのものを指す。恨みや嫉み、憎しみや死など様々だが、どれもあまり気持ちのいい感情ではない。時と場合によっては穢れによって体調を崩す者もいる。
「大方、その噛み傷から瘴気が体に入ってしまったんでしょう。それで具合悪くしたんですよ」
無意味に続いた微熱の正体が分かってしまった雅楽代は、出掛ける寸前の二藍と全く同じ思いであの黒い紙魚を思い返していた。本当に禄でもない人物だったようだ。彼女の予言通り再び邂逅しても、全く仲良く慣れそうにない。思わず苦虫を噛んだような顔になる。
「それにしても随分と厄介なのに噛まれたようですねぇ。その毒のせいで治りきってない傷から、微かな血の匂いと君の体臭が、瘴気と一緒に漏れてますよ」
原因が分かってスッキリしたのか、栄玄はしきりに、うん、うん、と頷いている。
「俺の体臭って……どんな……?」
おずおずと片手を挙げて聞いた雅楽代に、栄玄はスパッと返した。
「上質な墨の匂いですね」
大変簡潔かつ明瞭な答えだった。
……あまり嫌な体臭じゃなかったからいいけど、あまり体臭体臭って連呼されると複雑だ……。
良かったような気もするが、嬉しいと喜ぶのもなんだが違う気がする。
雅楽代は難しそうに眉根を寄せる。そんな複雑な顔をしている雅楽代に、栄玄は畳み掛けた。
「さて、一部のモノにとって美味しそうな良い匂いを君は今まさに無意識に撒き散らしてるんだ。飢えてるモノにとっては、まさに涎ものでしょう」
……もう、笑うしかないだろう。自分の意思とは関係なく、惹き寄せる匂いを振り撒いているだなんて。まるで、いつか観たホラー映画みたいだ。
栄玄は構わず続けた。
「しかも門の外で君を待っているのは、見たところ川の近くで亡くなって、誰にも供養されなかった
ちゃんと供養されてないというのは哀れだが、その怒りを他人にぶつけるのは身勝手だ。雅楽代は思わず眉を寄せた。ずぶずぶと湧いて出る苛立ちに、顔が険しくなっていく。
刹那、眼前で手を振られて、雅楽代は沈んでいた思考の沼から急浮上した。ヒラヒラ振られた手は向かいに座った栄玄のものだった。こちらを覗き込むようにしながら、ズレた黒縁眼鏡を直す。
「こらこら、また良くない気が漏れてますよ」
良くない気とはどのように出て、どういったものを指しているのだろうか。指摘はされたがいまいちピンと来ず、難しい顔になる。その表情を読み取ったように、栄玄はもっと具体的な例をあげた。
「そういった気は、門の外で彷徨いているような
ハッとしたように左耳を押さえると、栄玄はニヤリと笑う。そうだと肯定するように頷くと、栄玄は続けた。
「多分、まだ体の中にその瘴気の欠片が残ってるんでしょう。ちょっとした感情の波が何倍にも膨れ上がっているみたいですね。まるで宿主の怒りや苛立ちといった感情を喰い、それを糧に増幅しているようだ」
あの黒い紙魚が言っていた、人の子の持つ最も強い感情なのだろう。彼女はその味は格別だとも言っていた。栄玄の言う通りならば、彼女の体内にあった穢れが瘴気として噛み傷から入り、そのまま雅楽代の体内で留まって負の感情を喰らっているのだろうか。
「埒があかないですね。浄化でもなんでもしなきゃ、このまま外に出られない」
珍しく苛立ったような声音で長月がぼやいた。
長月が言いながら、何やら自身の腰の辺りを押さえたが、中身を取り出すことはしなかった。雅楽代は、長月は何を出そうとしているのか気になったが、それよりもその後の栄玄の口から出た内容に釘付けになった。
「いいえ。あの
思わぬ答えを聞き、雅楽代は真っ黒な目を瞬く。
「求める物をって、一体……?」
雅楽代と長月は身を乗り出した。
そんな便利な物があるなら是非ともその恩恵にあやかりたい。すると栄玄は意外そうに見つめ返してきた。
「おや、聞き取れてませんでしたか。あの
『クワセロ』とは、そのまま『喰わせろ』だろう。
あの雑音を思い出し、雅楽代は今更ながら背筋が凍った。あの時、物凄い剣幕で怒鳴った長月の言葉は本当だったようだ。もしあのまま寄って行ったら、赤い女に喰われていたのかもしれない。
青ざめた雅楽代と対照的に、栄玄は琥珀色の瞳を細めて楽しそうに声を上げた。
「喰わせてあげましょう?とびきり美味しい、それこそあの霊が成仏しちゃうくらい美味しいやつを、ね」
その、妙に生き生きした様に、雅楽代と長月は困惑したように顔を見合わせた。
◇
「さあさ、こちらに」
栄玄に連れられて二人が通されたのは、御本尊を祀った本堂の畳の部屋だ。
入り口を入ってすぐ左側に御本尊が、右側に雨戸があり、その戸を開くと先程二人が飛びついた石柱と先ほどの赤い女がいる門がよく見える。陽炎に目を凝らせば、あの赤がゆらゆら揺れているのが見える。
促されるままに進むと、部屋の端に背の低い
「写経をしてください」
栄玄は簡潔に言った。言いながら、生成色の紙を五枚ほど束で寄越した。
「写経……ですか?」
勢いで受け取った紙を見れば、確かに写経用紙だった。生成色の字に落ち着いた臙脂色の罫線が引かれている。
「ええ、写経です。予備も含めて二枚ほど」
一枚で駄目な場合もあるのか……。
予備という部分が少し不安だが、今は栄玄の言葉を信じようと雅楽代は思ったので大人しく用紙を
「道具はこちらをお使いください。
示された机上の文箱をコトリと開けると細筆と固形墨、そしてあまり見かけない形の硯が見えた。
「……へぇ、
「兄が持って来たんですよ。なんでも、どこかの蔵だか寺だかが取り壊されるときに一枚頂いて加工してもらったんだそうです」
瓦筒硯は、文字通り、屋根瓦を硯として使う
そもそもが瓦であり、硯として作られてはいない為、硯面の質はあまり良くない。元は下級
素焼きの陶器なので、よく研磨された石硯よりも粒子が粗く表面のざらつきが強い為、磨ったときやや粗い墨になる。だが、それがまた面白い色を出すこともある。もし粗さが気になるようならば、その墨を更に指で磨墨すれば良いだけだ。
微かにザラつく
「栄吉さん、ホントどこでも行ってるんだなぁ」
「それが兄の長所であり、短所でもありますね」
一方、栄玄は呆れたような苦笑いを浮かべた。
勝善寺の住職・栄玄と、萩鳥骨董店店主・萩鳥栄吉は血の繋がった兄弟だ。本来家長である栄吉が実家を継ぐはずだったのだが、昔から好奇心が強く、ふらりとよく居なくなっていた。そんな長兄に早々に見切りをつけた先代の住職は、弟である
雅楽代は机上に置かれた水差しに手を伸ばす。墨堂に水を少量垂らし、そこに用意されていた固形墨を擦り付けていく。しゅっ、しゅっ、と微かな音を響かせながら墨堂の水が徐々に黒く染まってゆく。水に黒が溶け出すとふわりと墨の香りが広がり、上質な煙草の煙のように細くゆっくり辺りに漂い始めた。
墨に練り込まれた香料が鼻をくすぐり始めると、全く聞こえなかった蝉時雨が部屋の中に響いた。石柱に抱きついた時に落ち着いたと思っていたが、思いの外パニックだったようだ。
こうして墨を磨っていると、
段々と、聞こえた蝉時雨が再び遠くなる。
周りの音が消え、気配も消える。
ついには、周囲にぼやけた明るさだけが漂い、自分の前には、ただ道具があるだけ。
用意された細筆を握り感触を確かめて、穂先に墨を含ませる。
「———」
声にならない声で小さく気合を入れると、雅楽代は一気に筆を踊らせた。
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