第十一話 ついてくる

 その昔、雅楽代が長月と知り合って一年ほど経った頃にこんな言葉を交わしたことがある。


湖太郎おまえは俺の背後霊か何かか?』

 まだ変声期を迎える前の高い声が、怪訝そうな様子で自分の背後にへばりついている少年に問いかけた。

『違う、ハルの後ろに憑いていきたそうな顔した奴らが居るから、代わりに俺がくっついてそれを阻止してる』

 見た目の年齢はさほど変わらない少年が、少し低い声で返した。

『やっぱ背後霊じゃないか』

 甲高い声がむくれたように言った。

『大きく違うぞ。俺がハルの後ろを歩いて、ハルの背後霊になりたそうな顔してる奴らを追っ払ってるんだ』

『似たようなもんだよ』

 反論するように少し低い声が弁解したが、甲高い声に一蹴される。取り付く島もない少年に、少し声の低い少年は眉根を寄せた。

『なら、ハルは、変なのがくっついてきても怖くないのか?』

『怖いも何も、俺には変なのが視えてないから分からないよ』

 甲高い声の主は静かに首を振る。その様子に低い声はさらに表情を曇らせ、声をひそめた。

『じゃあ、いま俺たちの後ろにいるのは、誰だ?』

 低い声に促されちらりと後ろを見た甲高い声は、ごく自然に答えた。

『後ろ?……ああ、辻橋つじばしのところにいる人?ヤマダのおじちゃんだよ。この前おつかいの途中で知り合ったんだ。釣りが大好きで、いつもあそこで釣りしてるんだよ』

 甲高い声の少年——雅楽代春が、釣りをしているヤマダのおじちゃんに笑顔で手を振る。それに気付いたヤマダのおじちゃんも笑顔で手を振り返した。

 だが、その光景が低い声の少年——長月湖太郎には、ひどく恐ろしかった。

 優しそうな笑顔で手を振るヤマダのおじちゃんは、腰から下が無かったからだ。

 その人を見たのはお盆。

 あの世とこの世がまじわる季節だった。



 ◆◇



「おい、まだついて来てるか⁈」

 蝉時雨の中、両手に引っ提げた袋をガサガサ鳴らしながら、二人は辻橋から離れるように自然を装いながら歩を早める。雅楽代の問を受けて、長月がそっと後ろを窺う。

「ああ、バッチリついて来てるな」

 雅楽代と長月の背後、揺らめく陽炎の向こう側。その奥に、場違いなほど季節感の違う格好をした女が、ひたり、ひたりとついて来ている。

 長い黒髪をずるりと前方に垂らしているので、やや前傾姿勢で進んでいるのだろう。長い髪が邪魔で表情は見えない。このクソ暑い中で、女が身に纏ういかにも温かそうな真っ赤なロングコートと黒いブーツ姿は、暑苦しく感じるどころか頭から冷や水をぶっかけられたみたいにゾッとする姿だった。

「ちょっとヤバいやつだよな?」

「相当ヤバいだろうよ」

 小声早口で会話をすると、どちらともなく歩く速度を上げた。

「雅楽代、おまえ。よく今回は気が付いたな」

「あれは明らかにヤバいだろ⁈何が悲しくてこんなクソ暑い日にあんな格好する女性がいるよ?普通に考えて自殺行為だろうがっ!」

 この緊急時に妙な会話だが、長月が雅楽代にそう言ったのには訳がある……。


 その昔、雅楽代はこの世の住人とあの世の住人の区別がつかなかった。

 見た目が生者と変わらない人はもちろん、見た目が普通の人とは違う場合も雅楽代にとっては同じだ。例え、身体の何処かが欠損した人でも自分や家族に敵意を向けてくるのでなければ、その人は知り合いであり、友人であった。欠損しているのが、脚だろうが、手であろうが、首であろうが関係ない。

 そしてそれは異形のものに対しても同じだった。生きているものも、そうでないものも、人ならざるものも、全てが等しく目に映る光景が、雅楽代春の常だった。


 ……赤いコートの女は相変わらず、二人の後ろをついて来る。

「良かったよ、今回は見分けがついてくれて」

 今度は後ろを見ずに長月がそう言った。


 ……雅楽代のその日常が変わり始めたのは、小学六年の夏。小学五年の秋に転校して来た長月湖太郎と知り合い、よく遊ぶようになってから半年ほど経った頃だった。

『変なのがついてきてる』

 二人で遊んでいると、そう長月が言い出すことがあった。不思議に思って雅楽代が周りを見渡しても、長月の言う『変なの』が何なのか解らなかった。

『湖太郎のいう、変なのって、どんなの?』

 何度も言われると流石の雅楽代も気になった。

『どんなのって……あのベンチでこっちに手を振ってるのだよ』

 長月は斜め後方のベンチを気味悪げにちらりと見遣る。

『あの人?あの人はキヌコ先生。小学校の先生だったんだって』

『キヌ……え?』

 雅楽代の思いがけない返事に、長月は目を白黒させた。

『キヌコ先生、いい人だよ。前に俺が一人で遊んでて怪我したときに助けてくれたんだから』

 長月は最初、雅楽代のこの発言が理解出来なかった。何故ならキヌコ先生は手首から先しかなく、顔はおろか、身体が一切なかったからだ。初めは、視えているものが違うのかと思ったが、どうも同じらしい。ただ受け取る感覚が違ったのだ。その事を理解した長月は、それからというもの雅楽代にへばりつくようにいつも隣や後ろについて回った。

 その頃から数年間、長月にくっつき続けられた経験と長月の根気強い説明を受けて、雅楽代は己の目に映るモノには生きている人とそうでない人、異形のものという区別がある事をようやく理解し始めた……。


 雅楽代は前を向いたまま続けた。

「それに、知り合いに、あそこまで髪の、長い人間は、居ないから、なっ」

「そうかい」

 舌を噛まないように気をつけながら喋っているから妙なところで途切れる会話に、長月は短く応えた。

 随分、たくましくなったものだと長月は思う。

 今でも雅楽代は、生きた人とそうでないものを偶に間違える。それこそ明らかな敵意が無ければ、そういうものと理解していてもうっかり普通に接してしまうこともある。だから——…。

「とっとと撒きたいんだけどなっ!」

 長月はそう言いながら腰に着けたポーチにそっと手を伸ばした。その蓋を指で弾き、中の物を取り出すか否か迷う。

 雑踏の中であるはずなのに後ろからは相変わらず、ひたり、ひたり、と音がする。辻橋から離れ、二人は人の往来が多い道に入っていた。だが、赤いコートの女は道行く他の人には目もくれず、ただ一直線にこちらを目指してやって来る。何か理由があるのかもしれないが、生憎長月には身に覚えはない。

 ……先ほどよりも足音が大きくなった気がする。

 瞬間、長月の背中を、氷塊が滑り落ちるような怖気おぞけが走った。こういったときの勘は馬鹿にできない。

「ハル、走るぞ!」

「うえ?!」

 長月は雅楽代の腕を掴むと、一切後ろを見ずに走り出した。二人の腕の先でビニール袋が一際大きくガサリと鳴った。

『■■■■!』

 刹那、ザラザラと耳障りの悪い音が雅楽代のうなじの辺りで聞こえた。雅楽代は長月に引っ張られ体勢をやや崩した。その拍子に雅楽代の視界に、離れた所を歩いていたはずの女の赤いコートが映り込んだ。

「うおぉうっ!」

 まだ後ろを歩いていると思っていた存在の急接近で、変な声が出た。驚いた雅楽代は、勢いで女の方を振り返ってしまった。そして、自分たちのすぐ真後ろに迫っていた女の姿に、思わず目を剥いた。

 一言で言えば異常だった。先ほどまでは普通の人間の姿で普通に後ろを歩いていたはずの女の姿はゆがみ、首から下がきつく絞られた雑巾のように捻れていた。グネグネといびつに捻れた体からは、同じようにおかしな方向へ手足が捻れている。その姿は、まるで出来の悪い人形みたいだった。そして、傾いた顔には前髪が掛かっておらず、微かだが女の顔が見えた。

 女にはが無かった。黒く落ち窪んだ目のようなものは見受けられたが、鼻や口が何かで剥ぎ取られたように虚無だった。

『■■■■、■■■■!■■■■■‼︎』

 その虚無から、再び音が聞こえた。

 雑音ノイズがキツくて酷く聞こえにくいが、何かを訴えているようだ。気味の悪い姿だが、必死に何かを訴えている様子の女が雅楽代は気になった。無意識のうちに自分の肩越しにその虚無を見つめながら、雅楽代は耳を澄ませた。

『■■■■ォ……■■■ェ■!』

 前を向いて走っているはずなのに、上半身が意識を向けた女の方に徐々に向いていく。

 ザラザラ、ザラザラと、その訴えを掻き消すように雑音が大きくなる。

『k■■ァ■■!……■■■■■ォ!!』

 あと少し……あと少しで、何か……。

「ハルっ!」

 すぐ隣で鋭い声が自分の名前を呼ぶ。ハッとして顔を上げると、長月が怖い顔でこちらを睨んでいた。

「馬鹿野郎、喰われるぞ!」

 低い声で怒鳴ると、長月は後ろの女から引き剥がすように、掴んでいる雅楽代の腕を強く引き寄せた。

「……ごめん」

 あまりの剣幕に気圧された雅楽代は素直に謝った。

 一方、謝られた長月は忙しなく足を動かしながら、しゅんとした様子の雅楽代を一瞥すると再び前を向いた。「説教は後な」とぼそりと呟く。

 長月の機転のおかげで距離が開いたのも束の間、再び女が追いついて来た。普通、この位の時間逃げ回れば大概のものは撒けるはずなのだが、女にも余程の理由があるのだろう。随分としつこい。あまりのしつこさに長月は思わず舌打ちしたくなった。おかげで腰に着けたポーチの蓋に手をかけては止めるというのを、幾度となく長月は繰り返した。


 走り続け、この暑さも手伝って雅楽代だけでなく、長月も疲弊してきた頃、住宅地の隙間に目的の瓦屋根を見つけた。

「あと少しだ!ハル!」

「……っ!」

 久々のダッシュで受け応えこそ出来なかったが、その言葉で雅楽代は下がっていた顔をグッと上げた。狭い路地に入り残りの距離を一気に駆け抜けると、目的地の門に二人は飛び込んだ。そのまま勢いよく三、四メートルほど進み、敷地内の通路のど真ん中にある車止めの石柱に飛びつくように走り込んだ。手を繋いだままの二人は文字通り、その石柱に抱きつくように止まった。硬く、ひんやりとした石の感触が早鐘を打っている心臓を静かになだめた。

 その感触にホッとした二人は、そろりと後ろを振り返った。赤いコートの女は捻れた体を揺らし、恨めしそうにこちらを睨み付けて門の外で立ち尽くしている。その、あまりの形相に再び血の気が引いてゆく音が聞こえた気がした。

 二人が飛び込んだのは、この土地に古くからある寺だ。そこまで大きな寺ではないが、手入れの行き届いた境内はいつも美しい。ここの墓地には、雅楽代の祖父母と両親が眠る墓がある。

 寺の名は勝善寺しょうぜんじという。

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