第十話 盂蘭盆

 大の大人の男が、姫抱っこという大変屈辱的な方法で布団に放り込まれてから数日が経ち、雅楽代はお目付役二人の了承を得て、昨日やっと布団生活を脱却した。

 よく、映画や小説などで服役し刑務所から出所した人物にお決まりの「シャバの空気は美味い」という台詞があるが、約一ヶ月ぶりのシャバの空気は確かに美味かった。あまり好きではない夏の空気を、これほど恋しいと思ったことはないだろう。外出の許可が出た瞬間、あの煤けた店の扉から外に飛び出したのなんて初めての体験だったような気さえする。まさか、引き籠もり気味の自分がシャランと鳴る扉の音を間近で聞き、顔面に降り注ぐ灼熱の太陽光を感じることに歓喜する日が来るとは思わなかった。後方から少女の声でお小言が聞こえた気もするが気にしない。

 ……まあ、五分と経たずに汗が噴き出し、眉間にはシワがいつも通り刻まれたが。

 雅楽代春は、やはり夏が苦手だった。

 あまりの暑さに耐えかねて店の奥に引っ込み、冷えた麦茶で一息つく。


 人心地ついたところで雅楽代はある作業をすべく道具を準備し始めた。用意したのは園芸用で使う剪定鋏とよく乾燥した白っぽい植物の茎、それと今朝採れたばかりの野菜。野菜の側面にその茎を当てながら長さの見当をつけていく。

「間に合って本当に良かった……」

 ほっと息を吐きながら、手元を見つめる。

 雅楽代が今作っているのはお盆の必須アイテムである精霊馬だ。裏庭の畑で採れた胡瓜キュウリ茄子ナスに、買ってきたを剪定鋏でパチリパチリと折り切るとどちらにも四本ずつ刺して手足を作る。

 精霊馬とはお盆に帰省する先祖の霊を乗せて走る馬と牛だ。あの世から帰省するときは、早く帰ってこれるようにとの意味を込めて足の速い馬を胡瓜で、あの世へ戻るときはゆっくり帰って欲しいとの意味を込めて歩みの遅い牛を茄子で作成する。昨今の流行では、馬より速い車やバイク、飛行機などの精霊馬がちょっとした話題になっているようだが、雅楽代は流行に乗る気などさらさら無い。豪快な祖母は車より馬で帰ってくる方がカッコイイと言いそうだし、穏やかな祖父はのんびりとした牛の背に気持ち良さそうに揺られる様が目に浮かぶ気がする。よく覚えていないが両親、特に母親の方は実の親祖母によく似ていたらしいので、祖母と二人で嬉々として馬にまたがって帰って来そうだ。

 よって、今年も雅楽代は胡瓜と茄子で馬と牛の精霊馬を作る。前脚を後脚より少し短くして前傾姿勢にするのは、作り方を教えてくれた祖父・時雨しぐれの流儀だ。「前のめりで速そうだろう?」と笑っていたのをよく覚えている。

 十分程度の時間で出来上がった精霊馬を、仏間に運び込む。仏間は階段の手前にある、光のよく差し込む部屋だ。仏壇の前に組まれた祭壇の上には真菰まこもが敷かれ、その上に茶飲み茶碗と蝋燭立て、おりんと線香立てとを配置し、その手前に水の入った皿と、皿のふちから縁に渡すように禊萩みそはぎが一束、紐で括って供えてある。仏壇の上部の欄間には鬼灯が一本、水平に固定されて、祭壇の傍には灯の入っていない提燈が二つ置かれている。一つは三つ足の紋付きの物で、もう一つは紋付きの手持ち用の提燈だ。どちらも先祖の霊を迎えてから灯を入れるので、今はひっそりとしている。

 禊萩の左隣に、先程作った精霊馬を置いて、雅楽代は満足げに頷いた。

「あとは仏膳ぶつぜんと、焙烙皿ほうろくざらくらいか?」

「仏膳つーと、あのちっこい食器だっけか?」

 指差し確認をし、準備の最終確認をしている雅楽代の後ろから、ぬっ、と顔を出したのは長月だ。いつもみたいに人懐こい大型犬のような雰囲気を纏いながら、雅楽代の後ろにピタリとくっついている。背後から突然声をかけられた雅楽代だったが、特に驚いた様子も見せず平然と首肯した。

 それは何故か。

 実はずっと居た。それこそ、雅楽代が店の扉から外へ飛び出して夏の日差しに歓喜し、そして眉間にシワを寄せた辺りから、半歩後ろをずっとついて来ていたからだ。だが雅楽代が全く驚かない理由はそれだけでは無い。

 その昔、雅楽代が長月と知り合って一年程経った頃にこんな言葉を交わしたことがある。

湖太郎おまえは俺の背後霊か何かか?』

 その時の長月の答えは勿論『否』だったが、それからというもの毎年ある時期になると必ず雅楽代にへばりつくようになった。はじめは鬱陶しく思っていた雅楽代だが、長い付き合いのせいだろうか。すっかり馴染んでしまった。

「ほんと、間に合ってよかったな」

 背後にへばりつく長月が、先ほどの雅楽代の呟きに時間差で返した。それに対して、雅楽代もしみじみと頷いた。



 ◇



 店の壁掛け時計が十時を知らせる鐘を打つ。

「さて、そろそろ買い出しに行くか」

 ひっつき虫・長月と手分けをして、炮烙皿を押し入れから引っ張り出し、同じく押し入れから引っ張りだした仏膳を台所できれいに洗い、布巾を布巾掛けに戻したところで雅楽代が長月に声をかけた。

 祭壇や盆提灯などの準備がひと通り終わり、残すは明朝に向かう墓参りで必要な仏花の用意と、栄吉と約束していた和菓子を買いに行くことだけだ。迎え火を行う夕方までに終われば別に構わないのだが、あと数時間で温度計は本日の最高気温を叩き出すだろう。暑さに弱い雅楽代にとっては死活問題だ。今でも十分暑いが、その暑さが幾分かマシなうちに外仕事は終わらせたいというのが本音である。

「ん。じゃあ二藍に一声かけて来なきゃな」

 床にしゃがみ込んで床下収納を物色していた長月が、穴から顔を上げた。

 その返しを待つことなく、雅楽代は台所を出て自らの作業部屋の玉兎庵ぎょくとあんを覗き込んだ。

「二藍ー……って、あれ?」

 いつもなら雅楽代が書き散らかした作品の周りにいるはずの、二藍色の長い髪の紙魚が見当たらない。

 キョロキョロと店の中を見回してみると、彼女は店の入口付近に積まれた本の山の前に座って、煤けた扉のステンドグラスから外を鋭く観察していた。

「二藍、どうしたんだ?そんな怖い顔して」

「春……。ええ、今日からお盆でしょう?また碌でもないのが来るんじゃないかと思ってね」

 雅楽代の問いかけを受けて、二藍はちらりとこちらを見たが、すぐにガラスの外に意識を向ける。彼女の言う碌でもないものとは、先日のあの黒い紙魚のことだろう。

「あぁ、この前の紙魚みたいなやつとかか。青鈍あおにび?だっけか」

「……アレの名前を呼ばないで頂戴。何か喚びそうな気がするから。……とにかく用心に越したことはないでしょう?」

 二藍は青鈍の名を聞いただけで、心底嫌そうに顔をしかめてみせた。よほど嫌いなのだろうか。

 そのまましばらく外を睨み付けていたが、ふと思い出したように二藍は雅楽代を振り返った。

「そういえば春、貴方何か用があったんじゃないの?」

 ……うっかり忘れるところだった。

「長月と一緒に、仏花と和菓子買いに行ってくる」

 忘れかけていたことを悟られないように、あくまでも自然に話した。

「そう……変なもの拾ったり、ついて行っては駄目よ」

 話を聞き終えた二藍は、念を押すような口振りでそれに応えた。

「……分かってるよ」

 今度は雅楽代が顔をしかめる番だった。

 先日の一件のせいで、雅楽代に対する二藍の子供扱いが悪化したように感じる。ただ、無用心だった自覚は少なからずあるので、雅楽代は出かけた文句を飲み込んだ。

 報告義務は果たしたとばかりに、雅楽代は踵をかえしてさっさと出掛ける準備を始めた。「本当に分かってるのかしら……」と小声で聞こえたが無視する。日が高くなる前に仕事を済ませなければ意味がない。

 鞄と帽子を引っ掴み、長月に声をかけて、灼熱の太陽の下に繰り出した。



 ◇



 ジリジリと音が聞こえそうな光を浴びて、早くも回れ右しそうになる体を叱咤しながら熱気で揺らめく景色の中を進む。坂の下まで下り、足早に町の花屋へ向かう。季節柄、菊を主体にした花束が多く作られていて、雅楽代たちはその中から白と黄色を主にした物を選び、続いて和菓子へと足を向けた。

「今日もあっちぃなあ〜」

「……言うな。体感温度が上がる」

 極力日向を避けて通っているが、暑いものは暑い。だらだらと滝のように流れる汗が目に染みる。

「さっさと行こう。辻橋を渡れば、香泉こうせんまでもうすぐだ」

 眉間のシワがくっきり寄った雅楽代が提案した。

 辻橋は、町を流れる川に架かる小さな橋だ。飾り気のない橋だが、陽気の良い日には川釣りを楽しむ人がいる。

「……ああ、そうだな」

 珍しく長月が浮かない顔をした。

「……?どうした」

「いや……早く行こう」

 その様子に雅楽代は怪訝に思ったが、理由は特に聞かなかった。


 ◇


 和菓子屋・香泉はとても小さな店だ。木造の建物でなかなか年季の入った佇まいだが、手入れが十分にされている為ひなびた様子はない。渋い色味の外壁には店の看板が掛かり、硝子の引き戸には手書きのお品書きが貼ってある。夏らしい水羊羹や、くず桜といった商品名が踊る。店名が書かれた看板の下には『春夏冬中商い中』とある。昔からある粋な洒落シャレだ。

「良かった、まだ開いてた」

 この時期、お盆で人が多く帰って来ている為か、香泉は店を閉めるのが早い。店の営業時間は十八時までだが、店の商品が売れてしまえば営業終了になってしまう。店内に入ると冷房が効いていてひんやりしていた。思わずほっとしてしまう。

「いらっしゃいませ」

 穏やかで静かな声が迎えてくれる。その声と一緒に奥の厨房からおばさんが出てきた。

「こんにちは。えーと、くず桜を五つと……」

 雅楽代は店内の硝子ケースの中を覗き込んだ。中には色鮮やかな上生菓子が六種類入っている。その中には栄吉の見立て通り、『鬼灯』や『朝顔』が含まれている。ラインナップを確認すると迷うことなく注文した。

「この上生菓子を全種類三個ずつください」

 全部で二十三個というかなりの量だ。大量の注文にもおばさんは慣れた様子で一言、はい、と請け負ってくれた。

「重いので二つにお分けしますね」

 手早く包み、ビニール袋にいれてもらったそれを受け取る。

「お会計、五千五百円になります」

 いつも思うが、香泉は一つ一つの金額が安い。なのに美味いのだ。なんだが申し訳ないような気がしないでもないが、その事も含めて長く愛される所以だろう。手早く支払いを済ませ店を出る。

「ありがとうございました」

 穏やかで静かな声に送り出されて外に出ると、忘れかけていた熱気に思わず二の足を踏む。

「おぉう……」

 一瞬で戻ってきた汗に顔が険しくなる。用事はこれで終わりだが、あまりの暑さで自宅に戻るのが少し億劫だ。きっと自分と同じように暑さに辟易しているだろうと思い、隣に立つ長月を見る。

「……とっとと帰るぞ。出来るだけ早く」

 隣に立つ長月は、とても怖い顔でそう言った。

 ただ事ではない様子に雅楽代が静かに口を開く。

「……どうした?」

 長月は先ほど渡った辻橋の方をちらりと見遣るような素振りを見せた。

「ついてきちまったみたいだ……」

 雅楽代は、長月の肩越しにそっと辻橋の方を窺う。

 揺らめく陽炎の向こう側に、ずるりと長い黒髪を前方に垂らした真っ赤なコートを着た女がゆっくりとこちらに向かって歩いて来るのが見えた。

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