第九話 過保護

 八月。

 異常に長かった梅雨が終わり、今年も蒸せかえるような熱気を伴って茹だる夏がやって来た。

 蝉たちが待ちわびた太陽に歓喜し、我こそはといわん音量で一斉に鳴きわめいている。

「……五月蝿い」

 蝉時雨というには些か凶暴なその音を、布団の上で聞くしかない雅楽代は鬱陶しそうにぼやいた。

 雅楽代春は、夏が苦手だ。

 年々上がる最高気温に、毎年溶けそうになるし、必ずと言っていいほど夏バテになる。

 おまけに今年は梅雨の終わりに風邪をひいてしまった。体調を崩したのは忘れもしない、あの黒い紙魚との邂逅があった日の夜だ。弱雨とはいえ、長時間雨に濡れながら青鈍あおにびの相手をしていたからだろう。日頃外に積極的に出る方ではない雅楽代は、物の見事に風邪をひいた。

 まずは悪寒から始まり、頭痛、発熱、一旦治ったと思わせておきながら今度は喉の痛みと咳、鼻まできたところで耳が殆ど聞こえなくなった。ちなみにここまでで約二週間は経っている。最初の一週間は布団から全く動けなかった。

 やっと鼻が治り、耳の聞こえが良くなった辺りで再び熱が出た。多分、ちょっと体調が良くなった時分に、調子に乗って玉兎庵ぎょくとあんに四時間ほど籠もって作品づくりをしていたのがまずかったのだろう。しばらく筆に触れておらず居ても立ってもいられなかったんだから、仕方がない。ただあの後、二藍ふたあいに物凄く怒られたが。

 しかも二度目の発熱は微熱だった分、とにかく長引いた。熱が上がっては下がり、上がっては下がりを繰り返しているうちに、気付けば七月が終わり夏本番になっていた。蝉も元気に鳴くはずである。窓を閉めてエアコンをつけている室内でさえこの五月蝿さだ。外はさぞ地獄のようだろう。そんな事を思いながら、雅楽代は眉間にシワが寄ることを抑えられなかった。

 雅楽代が寝ているのは、鸞鳳堂らんほうどう古書店の奥、居住スペースである居間の右奥にある階段を上った二階にある寝室だ。板張りの居間や廊下と違い、畳が敷いてある部屋だ。六畳ほどの広さで、箪笥と文机の他に目ぼしい家具はなく、布団の周りに何故か身に覚えのない本と紙が散乱している。

 そろそろ熱も下がって来た気がするからせめて家の中をウロチョロしたかったのだが、夏風邪を長く拗らせたせいか二藍と長月の二人に完治まで絶対安静を言い渡されてしまった。二人を怒らせると後が怖いので大人しく従う事にしていたが正直なところ、昨日辺りから雅楽代は布団の中で暇を持て余していた。

 ……今はとにかく、蝉の声が煩わしい。

 雅楽代は蝉の声を意識から遮断するようにごろん、と寝返りをうつ。すると視界に白い手巾が落ちてきた。寝返りをうった拍子に、額に乗せてあった物が落ちてしまったらしい。体温で温くなってしまったそれを握ると、雅楽代はのっそり布団から起き上がった。手巾を冷やしたいと思ったのと、何より喉がとても渇いていたのだ。

 比較的体調が良いときは少しは体を動かすようにはしていたが、夏風邪が長引いている為か、やはりかなり筋力が落ちている。箪笥に掴まりながら立ち上がると、ヨロヨロと寝室を出る。

 廊下に出ると、扉の隙間から微かに漏れ出していた冷気は一瞬で霧散した。代わりに、夏特有の分厚い空気が雅楽代の進路を阻む。一瞬、回れ右をして布団に戻ろうかとも思ったが、むわっとした空気を回避することより喉の渇きを潤す欲が勝った。壁を伝い廊下を進み、フラフラ階下へと降りていった。



 ◇



「お、春くん。起きてていいのかい?」


 雅楽代が向かった台所に、思わぬ先客がいた。

 その人物は、健康的な肌をした五十路を超えた眼鏡の男性だった。大きな一枚板で出来た食卓テーブルに片肘をつき、麦茶を飲みながら新聞を読んでいる。細身だがガッチリ筋肉のついた体が袖を通していたのは、スカイブルーと真っ赤なハイビスカス柄が眩しいド派手なアロハシャツ。金茶色のボサボサ頭を首の後ろで一本結びにし、無精髭を生やしている顔はシワこそあるが若々しい。鼻の頭にチョンと乗った小さな丸眼鏡が妙に胡散臭くて、逆に様になっている。

 その男性を、雅楽代はよく知っていた。

栄吉えいきちさん……?」

 萩鳥骨董店店主、そして暴走癖のある萩鳥紫鈴はぎとゆかりの父、萩鳥栄吉はぎとえいきちだ。

 紫鈴の父親という以外に、実はかなり前から親交がある人物だ。正確には、雅楽代の祖母と栄吉が同じ居酒屋を、祖父とは同じ和菓子屋を贔屓にしていた関係で、よく三人で菓子と酒を持ち寄り花見をしていたらしい。雅楽代が祖父母に引き取られた時には恒例のイベントだったので、幼い頃は親戚のおじさんだと思っていた。

 思わぬ人の登場に少々面食らいつつ雅楽代は尋ねた。

「どうしたんです?こんなとこで」

 うん、と栄吉が頷く。後ろで束ねられた金茶色の髪が揺れる様は、娘の紫鈴とよく似ていた。

「本当は今日、リンが春くんとこに手伝いに来てたんだけどね」

 ……そういえば、そんな話を昨日の夕方頃に聞いたような気がする。

「それが、昼頃に湖太郎くんに一報もらってね。ウチの鈴じゃ使い物にならないってんで、直々に店番頼まれたんだよ」

 確かに、長月や二藍、あと今日手伝いに来てくれているはずの紫鈴の姿が見当たらない。

 ……俺の知らないところで、何かあったんだな。

 よく分からないが、紫鈴の代わりの助っ人に来てくれたことは分かった。しかも長月から電話をもらい、わざわざ来てくれたらしい。年中、閑古鳥が鳴いている古書店に店番なんているのか少々疑問は残るが、こうして気にかけてもらえることは幸せだと思う。

 雅楽代は素直に礼を述べた。ぺこり、と頭を下げる。

「すみません、わざわざ来てもらっちゃって」

 鸞鳳堂は、栄吉の店・萩鳥骨董店から三駅ほど離れた場所にある。歩けない距離ではないが、この炎天下だ。雅楽代は外に出ていないので確かなことは言えないが、廊下の暑さや蝉の声から察するに外は猛烈な暑さだろう。

 申し訳なさそうな雅楽代とは対称的に、栄吉はヒラヒラと手を振って楽しそうに笑う。

「なんのなんの。この前の買い付け先に比べれば、散歩みたいな距離だよ。むしろウチのが面倒かけたみたいで申し訳ない……」

 それに、と栄吉は続けた。ガサリと新聞を閉じて立ち上がり、腰に手をあててニカっと笑う。

「困った時はお互い様だ」

 気の良い人柄が滲み出るようなその笑顔に、雅楽代はつられて笑顔を浮かべた。雅楽代が小さな声で、ありがとうございます、と礼を述べれば、うんうん、と嬉しそうに頷いてくれた。

 しばし柔らかい空気が流れて、あれほど喧しく鳴り響いていた蝉時雨さえも穏やかに聞こえるような気がした。

「で?何かしに来たんだろう?」

 思い出したように、栄吉が口を開く。好奇心の強い茶色の瞳が瞬く。視線を受けて、墨色の瞳を柔らかく開いて雅楽代が応えた。

「ええ。喉が渇いたので、何か飲もうかと」

 食卓の上で少し汗をかいたマグカップを見つめた雅楽代に対し、栄吉は冷蔵庫を指差した。

「麦茶ならまだあるよ」

 それを聞きながら、雅楽代は考える素振りを見せた。

「麦茶でも良いんですけど」

「ど?」

 疑問符を浮かべながら、栄吉が首を傾げて聞き返す。

「少し甘みも欲しい気がするので、作ってあった梅のシロップを水で割ろうかと」

「梅のシロップ?」

「はい。この前見た時に、良い具合に出来てたはずなんで」

 そう言うと、雅楽代は巨大な机を離れてシンクに向かう。その後ろを栄吉がついてくる。

 手に持ったままだった手巾をシンクに置き、そのままシンク手前にしゃがみ込む。目の前の床板を外すと、ひやりと冷たい空気が舞う。薄暗い床下は天然の氷室ひむろだ。雅楽代は白い腕をのばして金属の取手を引っ掴むと、ゆっくりと持ち上げた。ゴトリ、と床下収納からガラス製の密閉容器を取り出す。瓶の中で、とろりとした黄金色の液体に大きな梅がいくつも浮いている。

「自家製かい?こりゃすごい」

 その様子を、隣で覗き込んでいた栄吉は感嘆の声をあげた。

「今年はあまり、量は作れなかったんですけどね」

 パカっと蓋を開けて中身の確認をする。二人の監視をかい潜りこまめに様子を見ていた為、発酵することもなく完成した梅のシロップが二人の目の前で小さく波打った。そこから立ち昇る爽やかな香りが鼻をくすぐる。ひとつ頷くと、雅楽代はほんのり笑みを乗せて尋ねた。

「一杯いかがです?」

「良いのかい?」

 嬉しそうに聞き返す栄吉の瞳がキラキラしている。それを見て、雅楽代は楽しそうに微笑んだ。

「飲む為に作ったんですよ。栄吉さん、甘い物お好きですよね」

 瓶を食卓に乗せると、食器棚から吹きガラスのグラスを二つ取り出して氷を入れる。カランコロンとなんとも涼しげな音を響かせて、氷がグラスの中で踊る。その中に瓶から梅シロップをよそう。かき氷屋で見るような小洒落た専用の柄杓が無いので、使うのはもちろんおたまだ。少し大きいそれで慎重に注げば、パキパキンと弾けるような音がする。

 最後に水で割り、マドラーでひと混ぜすればほんのり甘い手作り梅ジュースの完成だ。

「いやあ、美味そうだ」

 栄吉はいそいそと席につき、冷気で少し曇ったグラスを嬉しそうに眺める。

「お口に合うと良いんですけど」

 向かいの席についた雅楽代がそう言うと、栄吉が笑みを深くした。

「あの時雨しぐれさんに育てられた春くんが作ったんだ。美味いに決まってるさ」

 少し日に焼けた手がグラスを掴み、そっと口に運ぶ。ゴクリ、と何とも良い音を立てて飲んだ栄吉はにんまり笑った。

「ほらな。やっぱり美味い」

 そう言って褒めてくれた。


 ◇


「そういえば、もうすぐお盆だねぇ。今年もやるんだろ?」

 グラスを半分ほど空けたところで、栄吉が口を開いた。

「はい、朝の四時には墓に着けるように出ます。あまり遅いと、祖父に枕元でどやされます」

 雅楽代は毎年、盆の二日目の早朝に墓参りに向かう。

 迎え火を行った次の日の早朝に、誰もいないはずの墓に家の仏壇で火を灯した提灯を持って参るという、雅楽代の祖父母と両親が眠る墓のある地域独特の風習だ。日も登らないうちに家を出て、空が東雲しののめに染まる頃に線香と花を手向たむけに墓を参る。

「時雨さん、普段穏やかだけど、そういうところ几帳面だったもんなぁ」

 祖父の時雨はとにかく穏やかで優しい人だったが、しきたり等はきっちりする几帳面な一面もあった。多少の緩さは許してくれるが、一年に一回の親孝行を疎かにすると怒るか拗ねてしまうかもしれない。

 そうだ、親孝行といえば……。

「そうだ。栄吉さん、お盆中にうちで酒盛りしませんか?祖父母や両親も帰って来てるから、栄吉さんも来てくれたらきっと喜びますよ」

 ふと思いつき、雅楽代は栄吉にそう提案してみた。

「酒盛りかー。今年の花見はこっちに居なかったから、出来なかったもんなぁ」

 のんびりとした受け答えをしながら栄吉はグラスをゆっくり傾けた。そのまま緩く回し、下に溜まったシロップを混ぜる。その度にカランコロンと涼しげな音が食卓に響く。

「酒のさかなに、香泉こうせんり買っときます」

「のった!」

 瞬間、栄吉の目がキランと光った。

 香泉とは、栄吉と祖父が贔屓にしている近所の和菓子屋だ。小さな店だがファンも多く、細く長く続く隠れた名店である。甘味を肴に酒を飲むのが好きな栄吉は、その言葉で即答した。

「この時期だもんなー、やっぱり『鮎』とか『鬼灯ほおずき』とか、『朝顔』もありそうだよなあ!」

 栄吉は甘い物、とかく練り切りには目がない。まるで少年のようなキラキラした目で、今から香泉の菓子に想いを馳せている。こうなるとしばらくに戻ってこないだろう。

 その様を微笑ましく見つめながら雅楽代も再びグラスを傾ける。キンと冷えた梅ジュースは少し甘く、でも爽やかで、口の中がスッキリする。

 ……のんびり梅ジュースを味わっていたその時だ。


「ハァ〜〜ルゥ〜〜?」


 背後から地を這うような低音で自分の名前を呼ばれて、雅楽代は危うく吹き出すところだった。

 声の主を確認する為ゆっくり後ろを見ると、驚くほど笑顔の長月ながつきが雅楽代を見下ろしていた。満面の笑みだが目が全く笑っていないのが逆に怖い。その表情のまま、淡々と喋る声音が恐怖に拍車をかけた。

「布団から出るなとあれほど言っといたのに、仕方ないなー、ウチの姫は。よっぽど姫抱っこをご所望らしい!」

 その言葉に、サァー、と雅楽代の血の気がひいていく。

 雅楽代を姫抱っこして運べる人物は、意外と身近に居たらしい。このままでは祖父のしょっぱい思い出を自分も体験してしまう。

「や、ちょっと待て、これには深い訳が……!」

 慌てて弁解しようとしたが、長月のギラリと光る眼光に気圧された。

「問答無用ーっ!!」

「ちょ、湖太郎!ごめん、俺が悪かった!悪かったから、頼む!下ろしてくれえーー!」

 弱った筋力で長月に勝てるはずもなく、あっさり姫抱っこで台所から強制退場させられた雅楽代の悲痛な叫びが蝉時雨に重なった……。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る