第八話 青鈍 其ノ弐

 雅楽代の塩まみれのショルダーバッグから飛び出したのは黒い紙魚だった。

 人型をしていた時より、瞳の黒目の面積が多くなって目が大きく見えるが、間違いなく先ほど寺で迫って来た美女と同じ容姿の、紙魚だ。

「まったく……塩まみれじゃないのよ、もー」

 いきなり塩をお見舞いされた黒い紙魚が唇を尖らせながら自分の黒い衣をはたくのを、鋭く睨みつけながら二藍ふたあいが吠えた。

「うっさいわね、青鈍あおにび!!何の用があってはるについて来たのよ?!」

 雅楽代を己の背中に守るような位置の中空に仁王立ちになりながら、二藍が目を三角にして怒鳴る。

 それに対して、髪にもついていた塩をパラパラと払いながら黒い紙魚——青鈍あおにびは、二藍をチラリと見遣り面倒臭そうに口を開いた。

「二藍ぃ。貴女ね、いつまでそんなちんちくりんの格好のまま居るつもりなわけ?相変わらずだっさいわねぇ。あ、もしかして少女趣味の甘ったる〜い文字ばっか喰べてて変化へんげ出来なくなっちゃったのかしら?可哀想にぃー」

 問い掛けにまったく答えず、むしろ二藍を挑発する様な青鈍に、警戒心丸出しの二藍はホイホイ乗っかった。無い胸を全力でそらして迎え撃つ。

「おあいにく様。この姿も人の姿もちゃんと維持できるけど、貴女と違って自分の意思でこの姿で過ごしているだけよ。勘違いしないで頂戴」

 雅楽代は知らなかったが、どうやら彼ら紙魚は人の姿になることが出来るらしい。と、いうことは、二藍も人型になれるということか?ちょっと、いや、非常に気になる情報だったが、今はとても教えてもらえそうな空気ではない。雅楽代は大人しく口を噤んだ。

 二藍の弁解を聞いた青鈍がわざとらしく驚いてみせた。塩を払い終わった黒色の髪を後ろに流し、首を絶妙な角度に曲げて二藍を見下ろす。その仕草を小悪魔っぽいととるか、悪女っぽいととるか難しいところだ。

「あらそうなのぉ?ごめんなさいね、貴女のこと甘ったるい物ばっか喰べてるだと思ったから、てっきり全身砂糖菓子にでもなってると思ってたのよぉ」

 上品な口調に聞こえるが、嘲りが存分に含められた喋りは聞いていてあまり良い気分はしない。雅楽代は無意識のうちに鼻の上にシワを寄せたが、女の口喧嘩に口を挟むような愚行はしなかった。

 一方、甘党であることを自他共に認めている為、否定はしないが、完全に小馬鹿にされて黙って居られるほど二藍は冷静ではなかった。悪いなどと爪の先ほども思っていない様子で謝る青鈍に、額にくっきり青筋を浮かべて言い返した。

「……負の感情ばかり好いてる悪食にだけは言われたくないわ!」

 気怠げな様子の青鈍は、二藍の否定的な返しをただ受け流すだけかと思いきや、そのまま自論を展開しつつ嫌味へと続いた。

「失礼ね。人の子らが持つ最も強くて純粋な感情の味は格別なのよ。その味が分からないなんて不幸ねぇ。だから貴女はいつまで経ってもなのよ」

 一応説明しておくが、べべとは“赤ちゃん”のことだ。ぱっと見、どちらも幼い少女のような風貌の為、べべと言われても大人と言われても違和感しかない。

「べべ、べべ、うっさいわね!そんなにちんちくりんの姿が嫌なら、さっさと変化すれば良いじゃない!」

 仔犬よろしく、吠える二藍に対し、墨色の目をすがめ、心底馬鹿にするように鼻を鳴らす。

「はぁ?わたくしが塩が苦手なの知ってて投げたんでしょ?おかげさまで、纏っていたモノがスッカリ浄化されちゃったもの。不本意だけど、しばらくはこのままね。それとも、さっき自分が塩投げつけたことも忘れたの?頭はべべじゃなくて、ババァだったわけね」

 ……最後の一言が的確に二藍の怒髪天をついたのだろう。

「あんったにだけは言われたくないわ!この年増!!」

 まさに、どっかーん!といった様子で憤慨した二藍の返しは何の捻りも皮肉もなく、ただただキレていた。片や、二藍をババァ呼ばわりした青鈍は「きゃー、こわいー」と言いつつ、「怒りっぽいって、更年期なんじゃなぁい?」と火に油を注ぐことを忘れない。

「なんですってえええっ!?」

 その効果は抜群だったようで、火山の如く燃え上がった怒りのもと、どちらがより年増かという何とも低次元な言い争いへと移行した。

 あまりの低次元過ぎる内容にげんなりしつつもしばらくその罵り合いを聞いていた雅楽代だが、一人置いてけぼりをくったような空気が何となく居心地が悪くて、気付けば口を出すまいと思っていた口論に割って入っていた。

「……二藍、いい加減説明してくれ。こいつは何なんだ?」

 姿形から目の前の黒い少女が、先ほどの妖艶な美女であり紙魚だということは分かっているが、それ以外の情報が全くない。先ほどからの二藍とのやりとりから何となく性格は悪そうな気もするが、よく分からない。

 口喧嘩を分断されても青鈍は怒らなかった。むしろ、ちょっと驚いたように黒い目を開き、一瞬キョトンとした表情を浮かべた。その顔が、初めて幼い見た目と一致したのが印象的だった。

 墨色の瞳を瞬かせて笑顔を浮かべ直したときには、すでに最初に見た少し気怠げな美人の顔に戻っていた。

「あら、自己紹介がまだだったかしら?わたくしは青鈍あおにび。神社や寺や墓地、各地の名所を巡るのが日課の、紙魚界の美食家よぉ」

 青鈍は、二藍よりメリハリのついた曲線を強調させるように、クネッと、体を捻る。小さい体のままだからあまり効果がないが、先ほどと同じ人の姿をとっていれば、かなり妖艶だっただろう。

「騙されないで、春。そいつ、恨みとか妬みとか、殺意とか、とにかく負の感情ばかり好き好んで喰べる偏食家で悪食よ!」

 一方、ささやかな上半身をグイッと捻り、こちらを勢いよく向いた二藍は鬼気迫る形相で、青鈍の自己紹介に説明を被せた。

 その説明を聞き青鈍は、むう、と頬を膨らます。そのわざとらしいまでのあざとい動きが、今の彼女の姿にバチリとはまった。

「こだわりが強いと言って頂戴?」

 青鈍にとって、そこは譲れないポイントらしい。心外だといった様子で眉を寄せた。

 そんな仕草も、残念ながら同性の二藍には通じなかったようだ。まるで猫が毛を逆立てて怒るみたいに、青鈍の言動に噛み付いた。

「恨み妬み殺意その他諸々が渦巻く名所なんて、こだわりが強いなんて言葉で片付けられると本気で言ってる?!悪趣味以外の何物でもないじゃない!」

 恨みや妬みや殺意が渦巻く名所ってなんだろう……。

 再び始まってしまった、ぎゃんぎゃん吠えるような二人の会話を遠い目をして聞きながら、ボンヤリ考えた。

 そして、何となく嫌な予感がしたが、雅楽代は思わず聞いてみてしまった。

「……参考までに聞くが、名所ってのはどういった場所だ?」

 んー、と人差し指を柔らかそうな頬に当てて考える様子は実に可憐で、そしてあざとい。

「ちょっと前に行ったのは富士の樹海ねぇ」

 バリバリの自殺の名所だった。

 そんな場所で、紙魚である女が好んで喰べる物とは一体何なのだろう。……正直考えたくもないが、遺書や呪詛の類としか思えない。二藍が悪食と称すだけのことはある。

「ほら言ったじゃない!ただただ悪趣味なのよ!」

 確かに悪趣味だった。思わず相容れない人種を見るような目で見つめてしまう。

 そんな視線に気付いたのか、それとも単に話の内容に飽きたのか、青鈍はぽんっと手を打って雅楽代に向き直った。

「そういえば、ちょっと味見させて貰ったから感想言わせてもらうけど。ハルちゃん、貴方、もっと歪んだ感情こころを持ってても良いと思うわよー?そうすればもっとずっとわたくし好みになるわ」

 ズビシっ、と指差す青鈍はまるで批評家のように尊大な態度でそう言った。

 突然の話題の変更に一瞬戸惑い固ってしまった雅楽代は一拍後、慌ててバッグの中に入れてあった和綴じのメモ帳を取り出した。このメモ帳は、出先や移動している途中で思いついた作品の構成や、言葉をメモしているいわゆるネタ帳だ。書き損じた半切や半紙を切り出して雅楽代自身で綴じてある和綴じ本だった。雅楽代がそれを大急ぎで捲ると、所々喰われた跡がある。

 ここに来るまでの間に青鈍にだいぶ喰われていたらしい。満遍なく喰われた穴を見つめて、雅楽代は不機嫌に眉を寄せた。

「……余計なお世話だ」

 雅楽代の中で、青鈍への印象が途端に悪くなった。最初の一件だけでも油断ならないと思って警戒していたが、そこに作品漁りをするクセの悪い紙魚という認識が追加された。

「目の前に最高の食材や料理があるのに見て見ぬふりをするなんて、食材に失礼じゃない。それこそ美食家の恥だわ」

 身内ならいざ知らず、初対面の紙魚に作品を喰い荒らされた上に批評を受けるなんて冗談ではない。

「何が恥だ」

 雅楽代は憮然とした表情で腕を組んだ。ぐっと顎を引き、腹に力を入れて青鈍に真正面から向き合った。

ひとの作品を勝手に喰う奴の批評なんぞ受けたくない。例えそれが下書きであってもな」

 キッパリとした拒否の言葉に、青鈍は黒い目をぱちぱちさせると、にっこりと笑った。そして、あら、つれない。と肩をすくめる。

 青鈍の全く悪びれた様子の無さに、はあ、と疲れたようにため息をつく。

「いいかげん、帰れ。ひと口喰わせろと言っておきながら、鞄の中でがっつり喰っただろう。もう十分だろうが」

 勝手に作品を喰い、偉そうに批評してくるような輩を、家に招き入れて茶を振舞うような趣味は雅楽代にはない。しっしっ、と野良猫でも追い払うような手振りで青鈍を追い返す。

「あら、喰べたいのは貴方の作品だけではなくてよ?」

「紙魚が紙類以外の何を喰うっていうんだ?」

 ふん、と鼻を鳴らした雅楽代に、青鈍はさも当たり前だという顔で続けた。

「何って、そんなの決まってるじゃない」

 そう言いながら、ずずいっと青鈍は雅楽代の顔面に近寄ってきた。この、今まで保っていた距離を一気に詰めてくる様子には既視感があった。

 咄嗟に動けなかった雅楽代の左の耳元で、青鈍は蕩けるような声で囁いた。

「貴方自身よ、ハ・ル・ちゃん♡」

 甘い声に続くようにチクリと、まるで虫に刺されたような微かな痛みが雅楽代の耳たぶに走る。

 バッと左耳を押さえて顔を向けると、素晴らしい身のこなしで即座に雅楽代から距離を取った青鈍が薄い唇を舌で舐め取っていた。

「それは予約ね。ひとまず、ご馳走様」

 左耳を押さえた手のひらを見遣れば、微かに血が付いていた。それを見て、自分が何をされたのか予想できてしまった雅楽代は真っ赤に、一連の流れを間近で見ていた二藍は真っ青になった。

 わなわなと二人が震える。そして。

「「帰れっ!!!」」

 雅楽代と二藍の怒声が綺麗にハモった。

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