第七話 青鈍 其ノ壱

「御機嫌よう。貴方お一人?」

 誰も居ないと思っていた所でいきなり声を掛けられて、雅楽代は思わず振り返り、そして声の主を見つめた。少し離れたところに女性が一人、立ってこちらを見ている。

 その人は、深い黒色の髪と瞳が印象的な女性だった。

 透明感のある白い肌に、薄い唇。サラサラとした真っ直ぐな髪を肩の辺りまで伸ばし、片方だけ耳にかけるように長い指が動く。楚々とした佇まいで歩を進めながら、その人はこちらを見てそっとむ。

 まるで宿墨しゅくぼくのような瞳の色だ、と雅楽代は思った。微かな光も飲み込むような濃密な黒色。光を拒むその瞳は、まさに吸い込まれるようだ。

「ええ、はい」

 その瞳に目を奪われた雅楽代は、柄にもなく見ず知らずの人物の問い掛けにあっさり応えた。

「そう、それは嬉しいわ」

 笑んだままの顔がほんの少し右に傾く。耳にかかっていない方の髪がサラリと揺れる。言われた意味が分からず雅楽代が不思議そうに見つめると、女性は白くて細い指を左右で絡めながら胸の前で合わせる。そしてはにかむように反対側へ首を傾げた。

「だって、素敵な殿方に女が声をかけるときに、誰かご一緒の方がいると、色々と面倒でしょう?」

 薄い唇がほのかに開いて、白い小さな歯が見える。耳にかかっていた髪がスルリと落ちた。

 ご一緒にいるのが、というところを濁すその言葉は、どことなく後ろ暗い雰囲気を醸す。

 やましい事など全くないはずなのに、周囲に漂う背徳的な空気に無意識に、雅楽代の喉がごくりと鳴った。その様を愉しそうに眺めながら女性が微笑う。

「此処でお逢い出来たのも何かの縁。少しわたくしとお話し致しませんか?」

 雅楽代が応える前に、女性は距離を詰めた。足音もなくするりと近寄る様は、ほっそりとした黒猫を彷彿とさせる。雅楽代から見れば小柄だが、頭が雅楽代の鎖骨辺りにあるのだから実はそこまで小さくはないのだろう。顎の下に潜り込むようにして、何故か女性はピタリと身体を密着させた。

 次の瞬間、雅楽代はびくりと体を震わせ、そして熱した薬缶みたいに真っ赤になった。酸欠の魚のようにパクパクと口を開け閉めするが、声は出ない。

 そんな様子を見て、女性はくすくすとさざめくように笑い声を漏らす。

「そんなに緊張しなくて宜しくてよ」

 体を近づけてきた本人だから当然なのだが、女性のあまりに余裕のある堂々とした態度に雅楽代は焦った。

「それとも、女性にょしょうはお嫌い?」

 そう言って女性はほんの少し意地の悪い笑顔を見せながら、頭から湯気が出てしまいそうなくらい動揺している雅楽代を揶揄からかう。

 真っ黒な瞳に、下から覗き込むように上目遣いで見つめられ、女性に免疫のない雅楽代はいよいよ固まった。同居している女性は紙魚の二藍だし、知り合いの女性は紫鈴くらいしかいないので仕方がないだろう。

 女性は固まった雅楽代を愉しそうに見つめたまま、スン、と微かに鼻を鳴らすと、その綺麗な顔をうっとりととろけさせた。

「嗚呼、なんて良い香りなのかしら。貴方の身体に染み込んだ墨の……とてもな薫り……」

 そう呟いた白い頬はほんのり薔薇色に染まり、潤む瞳が濡れた黒曜石の光を放つ。微かに開いた薄い唇が艶めき、熱い吐息をもらす。形の良い歯を、赤い舌がなまめかしく撫ぜてゆく。

 至近距離で見ず知らずの女性に熱い眼差しで見つめられて顔が高揚していくのと同時に、背筋には冷たい汗が伝う。滑るように細い指が雅楽代の首に絡みつく。すい、と寄せられた唇が耳元で蠱惑的な声音で囁いた。

「ホント……べちゃいたいわ」

 ゾクリとするほど艶っぽい声が、恐ろしげな言葉を紡ぐ。

 ザッと音を立てて、本能的な恐怖が雅楽代の背を滑り落ちた。

 自分より小柄で華奢な女性が自分のことを喰べるなど、常識で考えればあり得ない。体の大きさも力の強さも、どう見ても雅楽代の方が強そうだ。だがこの瞬間、雅楽代はこの女性に心の底から恐怖していた。

 血の気のひいた雅楽代は反射的に体を捩って、その女性から逃げようとした。だがその抵抗は敵わず、腕をガッチリと掴まれた。女の細指が左腕に食い込む。

「お待ちになって、雅楽代春ウタシロハルちゃん?」

 可憐な声で名を呼ばれて、思わず振り返るとにっこり微笑む黒い瞳と目が合った。強烈な力で腕を掴む姿がこれほど似つかわしくない笑顔があるのかと、雅楽代は思わず顔を痙攣ひきつらせた。

二藍ふたあいたちが貴方のこと独り占めなんて、ずるい。ズルすぎるわ」

「なん……で、俺の……名前」

「あら、ご存知ないのかしら?貴方はこちらの界隈では、有名人でしてよ」

「……は?有名人?俺が?」

 何かの冗談だろう。そう思ったが、宿墨の瞳の女性は愉快な物でも見るみたいに目を細める。掴んだ左腕を手繰り寄せるように両手で雅楽代ににじり寄った。

「ええ、貴方はあの人の孫でしょう?気にするなという方が難しいわ」

 女性の手が雅楽代の腕を伝い、肩を這い、首筋を上る。先ほどまで上目遣いで見上げてきた宿墨の瞳が、徐々に上がっていき、ついには雅楽代を見下ろす位置まで上がった。そして首筋を上っていた女性の細く長い指は、雅楽代の白いかんばせを包み込み、上向かせるように掬い上げる。女性の黒い瞳に驚きで目を丸くした雅楽代自分の顔が映り込んでいた。

 それもそうだろう。なにせ、その女性の体が宙に浮いていたのだから。

 ふわりと浮いた女性が歌うように言葉を紡ぐ。

「ねぇ?幻の書家、雨鶴うかくの愛し子よ」

 雅楽代は女性の口から出た名前に瞠目した。

 何故、その名が出るのか。何故この女性は、自分が孫だと知っているのか。先ほどまでの焦りとは違った動揺が雅楽代の中を占拠していく。……この女性ひとは、俺の何を知っているっていうんだ?

「ねぇ、二藍あの子は貴方を喰べたんでしょう?なら、わたくしにもひと口、分けてくださいな」

 女の顔がゆっくり上から降りてくる。薄い唇が丸く開き、白くて小さな歯が見えた。流石に身の危険を感じたが、体は縫い止められたようにピクリとも動かない。迫る歯が視界から消えて、代わりに女の黒髪がサラリと揺れて雅楽代の頬を掠める。喉元に微かな息を感じて、雅楽代はギュッと目を瞑った。

 きつく目を瞑った拍子に微かに動いた肩から、生成りのショルダーバッグが滑り落ちた。


「おい、アンタ!大丈夫か?!」


 聞こえるはずのない男性の太い声にハッとして目を開けると、雨が顔面を優しく叩いていた。視界一面に曇天が広がる。

「おい、しっかりしろ!大丈夫か?!意識あるか?救急車呼ぶか?」

 すぐ隣に人影が見えた。

 声のする方へゆっくり首を傾けると、作務衣を着た壮年の男性が厳つい顔を心配そうに歪ませてこちらを見ている。

「……すみません。足を滑らして転んでしまったみたいで……大丈夫です」

 一瞬、状況が掴めなかったが、咄嗟に口をついて出たのはそんな言葉だった。

「本当かい?それにしてもびっくりしたよ、拝観時刻がもうすぐ終わりだから見回っててね。そしたらアンタがここで転がってるもんだから……」

 作務衣の男性が厳つい見た目に似合わずあたふたと状況を説明してくれるのを聞きながら、雅楽代は体を起こし尻や背に付いた土を払う。実年齢より幼く見える顔に爽やかな作り笑いを浮かべて、立ち上がった。

「ご心配をおかけしました。本当に大丈夫です。時間ギリギリにご面倒をお掛けしてすみません、自分、もう行きますね」

 突然爽やか笑顔を見せられてキョトンとした男性は、すぐに人の良さそうな笑顔を返してくれた。

「いやいや、何事もなくて良かったよ。アンタ学生さんだろ?若いのに受け答えちゃんとしてるなぁ。足元には気をつけるんだよ?」

「……ええ、まあ。あはははは……」

 年相応に見てもらえないのはいつものことだ。慣れと諦めを含んだ乾いた笑いを浮かべながら、雅楽代は出入り口へと向かう。男性の太い声に背中を押されて門をくぐり、参道へと踏み出す。

その途中ふと癖で見遣った左の手首には、使い慣れた腕時計が当然のように嵌っていた。その腕時計を、正確には腕時計のバンドを見て、雅楽代は目を剥いた。そして何かを落とすかのように腕をブンブンと強く払いながら、歩く速度を速めた。

 脇目も振らず一目散に駅に駆け込み、帰り電車に飛び乗った。

 雨は降っているがまだ明るい時間で、車内も人がまばらだ。その中で雅楽代は縦に大きな体を極力小さく畳んで隅の席に収まって、ブツブツと独り言を呟いていた。先ほどの出来事が夢ではないと立証する物が、あった。腕時計の金属製のバンドに絡みついていたのは、雅楽代のものより長く光沢のある細くて黒い髪の毛だった。

 ちなみに、当初の予定だったシラスはおろか、銘菓の鳩サブレーも買い忘れたことを思い出したのは、地元の駅に着く直前だった。



 ◇



 なんとも気持ちの悪い思いをしながら家路を急ぐ。

 人通りの多い賑やかな大通りから三本ほど路地を奥に入り、更に角を四つほど曲がる。三叉路を右へ行き、人気ひとけのない坂道を登りきった先の雑木林の入り口に鸞鳳堂古書店の古ぼけた扉が見えた。そしてその扉のすぐ前の門柱の上に見慣れた姿があった。

「おかえりなさい、はる紫陽花あじさいはどうだった?」

 大きなふきの葉を傘がわりに差す様は、さながらコロボックルのようだ。何やら背中に白い袋があるからコロボックルというよりは小さなサンタクロースかもしれない。機嫌良さそうにこちらに手を振る二藍を見て、雅楽代は詰めていた息をそっと吐き出した。

「ああ、ただいま二藍。今年の紫陽花も見事だったよ。だがそれより聞いて欲しいことが」

 そう言って一歩、二藍のいる門柱に近づく。あと少し、手を伸ばせば二藍の魚のような足に触れるほどの距離まで近付いた瞬間、二藍は持っていた蕗を投げ捨て、警戒するように立ち上がった。怪訝に思った雅楽代は足を止めて、尋ねた。

「?どうした、二藍」

 笑顔が消え失せ、一点を指差す。

「……春、貴方いったい何を持ってるの……?!」

 二藍は、綺麗な顔を痙攣らせながら、雅楽代の肩に掛かっている生成りのショルダーバッグを凝視している。

「え……何って、なに……?」

 ショルダーバッグの中身はあいにく、筆記具とメモ帳にICカード、財布とハンカチ、ティッシュといった特に面白味のない通常通りの物だ。本当だったらそこにシラスや鳩サブレーといったお土産が入っていただろうが、今日はそれどころではなかったので何も無い。

 二藍に言われた意味が分からず鸚鵡返ししたのと、二藍が自分の後ろに置いてあった何かを振りかぶったのはほぼ同時だった。

「悪霊退散っっ!!!!」

「うぇ?ちょっ、ぶおあ?!」

 気合一発、二藍が雅楽代に振りかぶったのは塩だった。しかも家庭サイズのお徳用。ザシャっと景気の良い音と共に、投げつけられた塩が雅楽代が肩から掛けたショルダーバッグを直撃した。突然の攻撃に驚いた雅楽代は、短く叫びその場でバタバタと足踏みする。

「何すんだいきなり!」

 目を白黒させた雅楽代の訴えを無視して、二藍は直撃させたショルダーバッグに向かって怒鳴った。

「ええい、とっととウチの子から出て行きなさい!」

「は?!何に怒ってるんだ?」

「ちょっと黙ってなさい、春。今すぐにでも、を引っ張り出してやるんだから」

「そいつって何っ?!」

 詳しい説明もなくギャーギャー言い合いをしているうちに、二藍はどこからともなく塩をもう一袋取り出して攻撃態勢に入った。背中に黒雲を背負っているような鬼気迫る形相で二藍が唸った。

「しつっこいわね!かくなる上は、もう一回塩をお見舞いするわよ!」

「わー!待て待て!よく分からんが、待て……」

 雅楽代が全力で静止したが、まさに第二撃目を繰り出そうとした次の瞬間、塩を被ったショルダーバッグから黒くて小さいモノが飛び出した。

 は、女の高い声で喋った。


「もー、ちょっと何すんのよ、二藍ぃー。服が汚れちゃったじゃない」


 お気に入りなのよ、これ、とぶーぶー文句を言ったのは、先程鎌倉のあじさい寺で迫ってきた黒い瞳が印象的な墨絵みたいな美女。……の、ちっさいサイズだった。どのくらいちっさいのかというと、ちょうど雅楽代の両手に乗る程度の、二藍より少し大きいくらいの大きさだ。萩鳥骨董店の青茅かりやすよりほんの少し小さく、二藍より少し大きいその女性には、雅楽代が見慣れたものが付いていた。濃紺を微かに帯びたしっとりとした墨色の尾ビレと、膜の張ったような尖った耳。


 ソレは紙魚だった。

 

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