第六話 梅雨の楽しみ方

 長雨が続いている。

 梅雨だから、といえばその通りなのだが、六月が終わり、もう七月だ。今年のそれは随分と長い。去年の倍は降っているのではないだろうか。

「ぅうー……」

 その雨雲を引き連れて来る低気圧のせいか、はたまたただの二日酔いか、長月湖太郎ながつきこたろう鸞鳳堂古書店らんほうどうこしょてんの奥にある長椅子カウチでだらしなく横たわり、青い顔してウンウン唸っている。

「あぁぁ……アダマいてぇぇ……、しぬうぅ……」

 まるでゾンビのような声を出す長月を、古書店店主の雅楽代春うたしろはるは冷めた目で見下ろした。

「ただの飲み過ぎだ」

 ピシリと言い放つ雅楽代に、長月は微かに首を傾けた。

「酒のせいじゃねぇよぉ……この長雨のせいだ……ぉおうう……」

「明け方まで酒盛りしてた奴が何を言う」

 苦し紛れの言い訳をバッサリ切りながら、雅楽代は手に持っていた物を机に置いた。

 コトリ、と軽い音と一緒に優しい香りと湯気が立ち上る。

「ほら、早く起きて来い、二日酔い。朝飯作ってやったから」

 机の上に手際よく準備された味噌汁や漬物、粥は雅楽代の手製だ。のろのろと長椅子から机に移動し、示された席につくと、長月の顔色がほんの少し良くなった。げっそりしていた顔が、へにゃんと崩れる。

「……わぁい、しじみの味噌汁じゃん」

 胸の前で合掌し、いそいそと箸を手に持つ。木のお椀をそっと持ち上げると、よそわれた味噌汁が静かに揺れて微かな磯の香りと温かい味噌の香りがした。コクリと口に含むと、なんとも言えない懐かしい味がじわじわと沁み渡る。

「……あぁ〜、う〜ま〜い〜」

 ほう、と息を吐いてビブラートの掛かった感想を述べる。お椀を持ち上げたまま味噌汁を味わっていると、長月の向かい側の席に雅楽代が腰を下ろした。

「いつまでも呆けた顔で味噌汁ばっか飲んでないで、ちゃんと炭水化物も摂れ」

 膳の前で合掌した後、両手で茶碗を持ち上げて左手に持つ。そして右手で箸を持ち上げ、左手で受け取り、右手で箸を握り直す。流れるような動きで茶碗と箸を持った雅楽代は黙々と食事を始めた。いつも通りの所作で食事をする雅楽代を、長月はぼんやり眺めた。

「おまえさぁー」

「なんだ、とっとと食べないと冷めるぞ」

 そっけない声を出した雅楽代だが、出汁のよく効いた粥を口に入れ満足気に目を細めた。

 あぁそろそろ、シラスが美味い時期だな。近いうちに買いに行こう。

 粥をみながら、雅楽代は旬の食材に想いを馳せつつ、長月の間延びした声掛けに応じた。表情は至って通常通りなのだが、微かに口角が上がっている。機嫌が良い証拠だ。

「絶対良い嫁になるよなー」

「ブッ!!」

 危うく粥を盛大に噴き出すところだったのを寸前で口を押さえて堪えた。そのまま物凄い形相で長月を睨む。先ほどまでの上機嫌は一転、一気に不機嫌になった。

「気色悪い冗談は止めろ」

「いやいや、結構真面目な話ですよ?」

 睨まれたところで、全く堪えていない長月は至極当然な顔で言い放つ。長月を睨む雅楽代の眉間のシワが一層深くなる。

「なお悪いわ」

「いや、だって冷静に考えてみろよ。晩酌に朝まで付き合って、その朝に二日酔いの人間の為に蜆の味噌汁作って、消化にいい粥と手製の漬物出して、バランスよく飯を食えって諭して。しかも食事の所作も綺麗でどこに出しても恥ずかしくない。一昔前ならいざ知らず、昨今の女性にこれらのこと求めても、なかなかしてもらえないぜ?少なくとも俺がそれを誰かに求められても無理だ。そもそも俺は炊事が出来ないからかも知れないが、もしお目にかかれたら、俺なら即座に求婚してるレベルだ」

「……それは単に、お前の炊事能力が壊滅的ってだけだろ。大抵の人間には備わっている能力だ」

 茶碗と箸を置き、疲れたように溜め息をついた雅楽代が正論を述べる。だが長月も中々折れなかった。

「それこそ謙遜しすぎだって。炊事が出来るのと、相手のことを考えて美味い食事が作れるのは、全くの別もんだ」

 多少は美味い料理を作っている自覚があるらしい。雅楽代は今度は即否定することはせずに、低音で聞き返し続きを促した。

「……それがなんだって言うんだ?」

「良い嫁になるなぁ、って」

「そこに飛躍する思考が全く理解できん!そもそも何故嫁?俺は男だぞ」

「言葉の綾ってやつよ。ほら、俺のこと誰よりもわかってて気にかけてくれる奴なんて、今のところお前しかいないし。俺は家事は出来ないから、外で仕事してくるし。必然的に家にいることになるのはお前じゃん。で、嫁」

「……説明を求めた俺が馬鹿だったよ」

 全く説明になっていない説明に、深い溜め息をついて雅楽代は頭を左右に振る。

「別に俺が嫁でもいいんだぜ?そしたら俺が外でバリバリ働いてくるから、俺の主夫になってくれ婿殿ー」

 長月を心底嫌そうにジロリと睨むと、置いていた箸と茶碗に手を伸ばす。そして、話は終わりだと言わんばかりに手と口を動かした。

 雅楽代は不機嫌な表情のまま、残っていた粥と漬物と味噌汁を一気に掻き込むと、勢いよく席を立った。憮然とした様子で、長月に立て続けに指示を出す。

「茶碗は洗って伏せておけ。粥の残りは蓋して冷蔵庫に、味噌汁は残り少ないから飲み切れ」

「そんな怒んないでよハルー」

「……古い呼び方をする奴のことなんぞ、知らん。俺は出掛ける」

「ああーん、ごめんハルー、許して〜」

「知らんっ!」

 怒りのままに食器を片付けると、壁に掛けてあった生成りのショルダーバッグを引っ掴み、ドスドスと足音を立てて部屋を出る。物音を聞きつけた二藍ふたあいが怪訝に眉を寄せて、玉兎庵から顔を出した。

「なあに、大きな音立てて。……あら、何処か出掛けるの?」

「二藍、起きたのか。ああ、ちょっとな。……あの馬鹿のことは甘やかすなよ」

「ふふふ。よく分からないけど、分かったわ。で?貴方は何処へ行くの?」

 細い窓から外を見て、徐に傘に手をのばす。

「鎌倉まで。シラス買ってくる」

 素っ気ない応えに、二藍は「シラス?」と言って、青寄りの紫色をした瞳をしばたたかせた。雅楽代は「ああ」と頷くと、煤けたステンドグラスが嵌った店の扉の取手に手を掛けた。

 涼やかな音色を響かせて店の扉を開ける。外はしとしとと雨が降っていた。そこそこな雨量だが風がない分、歩きにくくはないだろう。

「気をつけていってらっしゃい。遅くなる前に帰ってくるのよ」

 幼い頃からずっと変わらない二藍の送り出しを聞きながら、手に持った蝙蝠傘をひらくと、雅楽代は駅に向かって歩き出した。


 ◆


 最寄駅から電車に乗り、横須賀線を使い北鎌倉駅へ向かう。

 出掛ける直前、不機嫌を露わにしていた雅楽代だが、実はそこまで憤慨しているわけではない。相手が長月であった為、普段ひた隠しにする感情をストレートに出していたのと、長月の二日酔いのテンションが嫌だっただけだ。二日酔いのときの長月の絡み方は面倒くさい。とにかく面倒くさい。酒を飲んで酔っ払っている時より、はるかに面倒でしつこい。長引く前にさっさと出掛けようと思っただけだ。断じて、長月に嫁と言われたことに腹を立てたわけではない。

 段々と増えていく乗客を眺めながら車窓から外を見遣れば、雨は小降りになっていた。

「次はー、北鎌倉ー」

 車内アナウンスを聞きながら、のそりと立ち上がり降車準備をする。ガコン、と音を立てて開く扉から降車すると、狭いホームには人が溢れていた。のろのろと人が進む先にはこれまた小さな改札がある。次々と改札に吸い込まれていく人は改札を出た後も皆一方向に向かって歩いて行く。

 ……そろそろ剪定がされる時期だろうから狙い目かと思ってたけど、考えることは皆同じってことか。

 フン、と鼻を鳴らして仕方なくその列に向かう。並ぶ人は様々で、老若男女、国籍も問わず多くの人で賑わっていた。全く面識のない人の列に混ざり、速度を揃える。さざめくような話し声と髪にぶつかり弾ける微かな雨音が相まって、川のような音がする。

 そんな音を聞きつつ、前を行く人たちを何ともなしに見遣る。それぞれの服装と指している傘がカラフルで、人の波から頭ひとつ飛び出ている雅楽代にはそれがまるで紫陽花のように見えた。

 行列は一路、あじさい寺へと向かった。


 ◆


 行列を見て並ぶのを諦めた人がちらほらいた為、それほど待たずに境内に入れたのは嬉しい誤算だろう。雅楽代の周囲の三分の一ほどが早々に諦めて、寺の脇道に逸れて軽食を食べに行ったり、別の寺へと足早に去って行く。

 じりじりと行列に並んでいた雅楽代は、自分の番がやってきたのを確認すると緩い坂を登り、門をくぐった。

 ニュースで今年は花が遅いと言っていたせいか、少し時期を外していたにも関わらず、境内は一面、濃い蒼で埋め尽くされていた。この寺特有の蒼く、ぽってりとした丸い花が、先程まで降っていた雨に濡れて蒼玉のように煌めいている。

 ほう、と雅楽代は無意識に息をはいた。

 キュッと寄りやすい眉間のシワが珍しくのびている。雅楽代は見かけによらず、花が好きだ。中でも、暑くなく過ごしやすい時期に咲く桜と、梅雨の時期に咲くこの紫陽花が殊の外好きだ。

 同じ参拝者たちが狭い小道に立って写真を撮ってはどんどん場所を移していくなか、雅楽代はその蒼の群れの中にどっぷりと浸かるように佇んで、静かに花を愛でた。

 ……どれだけそうしていたのだろう。

 周りに人の気配がなくなり、少し気温が下がったように感じた。ぶるりと体を震わせると、雅楽代は思い出したように辺りを見回して目を瞬かせた。

「……ん?」

 辺りに人の気配がなくなったのではなく、そもそも人が居なくなっていた。咲き誇る蒼の真ん中に取り残されたように、雅楽代はただ一人、ポツンと立っていた。

 いつの間に居なくなったのだろう……。

 首を傾げながら、雅楽代はハッとした。もしかしたら、参拝時間が終わりに近いのではないか、と。慌てて時間の確認をしようとして左腕をみたが、いつも着けている場所に腕時計が見当たらない。

「……あれ、っかしーな……」

 ズボンのポケットや足元を見つめたり叩いたり確認してみたが、影も形もない。そもそも外した記憶もないのであるはずもないのだが、一応持っていた鞄の中も確認してみる。しかし残念ながら見つからない。ごそごそ中身を漁ってはみるものの、中には財布とメモ帳と筆記具以外特に入っていない為、間違えようがない。

「……落としたか?」

 ここでずっと花を見ていた為、本堂までは行っていない。正面入口を通るまでに何度か時間を確認した気がするから、落としたとするならば、ここから入口までの道だろう。

 はぁ、と面倒臭そうに息をはくと、雅楽代は出入口に向かって歩き出した。その時だった。


「御機嫌よう。貴方お一人?」


 どこか気怠げで、艶っぽい声が、一人で出入口に向かって歩いていた雅楽代に投げかけられた。反射的に振り返った先には黒の品の良いワンピースを着た女性が一人、立っている。

 白い肌に、黒い髪と黒い瞳をしたその女性は、まるで墨絵のようで、蒼く咲く紫陽花に静かに浮かび上がるようだった。


 

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