第五話 あの男

湖太郎こたろうじゃない。どうしたの、こんなところで」

 萩鳥骨董店はぎとこっとうてんにいきなり現れた長月湖太郎ながつきこたろうに、二藍ふたあいは驚いたように声をあげた。二藍の、青みがかった紫色の瞳が不思議そうにぱちぱちと瞬く。

 その問いに、あがかまちで靴を脱ぎながら長月は応えた。

「それは俺の台詞だな。二藍たちこそどうしたんだ、こんなとこで」

 靴を脱ぎ終わり二藍たちがいる畳の上に登って来た長月は、顔面に鮮やかな黄色——青茅色かりやすいろの髪をもつ紙魚しみをめり込ませたまま昏倒している雅楽代うたしろを興味深げに覗き込んだ。

「私たちはちょっとした用事で萩鳥骨董店ここに来たんだけど、来て早々、紫鈴ゆかり青茅かりやすの痴話喧嘩に巻き込まれたのよ」

 二藍はそう言って、心底面倒臭そうに眉を寄せた。

「てことは察するに、雅楽代これはゆかりんの流れ弾が当たったってとこか」

 妙に納得した様子で、長月はふむふむと頷く。

 長月が顔を近づけてみても動くそぶりを見せないところを見ると、雅楽代も青茅も完全にのびてしまっているらしい。どれだけ怪力なのか。

 のびている二人から顔を上げて、二人を昏倒させたであろう紫鈴を見た長月は、訝しげに顔を歪めた。

「で?二人を畳に沈めた張本人は、なんで真っ赤な顔して変な踊り踊ってるんだ?」

 長月の指摘通り、男二人(内一人は紙魚)を一撃で畳に沈めた女・萩鳥紫鈴はぎとゆかりは、握りしめたままの拳を両頬に当ててグネグネと揺れている。真っ赤になった顔とギザギザに歪んでいる口とあいまって何とも気持ち悪い。

「さあ?私にはよく分からないけど、状況から見て、羞恥心を緩和する踊りとかなんじゃないかしら」

「なんだそりゃ。訳分からんな」

 二藍は冷めた目で己の見解を述べる。

 それを聞いて、長月は寄っていた眉を跳ね上げた。

「ええ。ほんと、理解に苦しむわ。……で。湖太郎は何しにここへ?」

 先ほどはぐらかされた質問を再び投げかける。

 長月はちらりと二藍に視線を送ると、赤面しながらグネグネと踊り続ける店主代理にゆったりと近付いた。

「なぁに。俺は仕事に来ただけだよ。ちょうどひと月前にここで買って行った商品が俺の望む金額で売れたから礼を兼ねてその代金の一部山分けと、良いのが入ったからまたいくつか買ってもらおうと思ってな。出来ればこの間預けた商品もいい具合に仕上がってると良いな〜と」

 軽い調子で長月は己が萩鳥骨董店ここに来た理由を述べた。説明をうけて二藍は、納得すると同時に半眼になった。

 このタイミングでこの場に来るとは、何とも間の悪い。そういえば、湖太郎はこの店にも何処からか買い付けて来た品物を時折おろしていた。しかも湖太郎の発言から察するに、今回の痴話喧嘩の元凶は十中八九、湖太郎だろう。青茅の言っていたの正体が分かった。これは青茅と紫鈴が正気を取り戻したら、確実に一悶着あるだろう。なんと面倒な。

「……あとで三人にちゃんと謝りなさいよ?」

 不審な動きの紫鈴の前にしゃがみ込み目の前でひらひら手の平を振りながら、きょとんとした様子で長月は二藍を振り返った。

「え、なんで?」

 なにやら大変面倒なときにやって来てしまったらしいことを、心底悔いたように二藍は深い溜め息をもらした。



 ◇



 数分後、店の奥にある一段高くなった畳の上で、底抜けに明るい笑い声が響いた。

「なんだよ、ゆかりん。んなくだらない理由で青茅とったんだしてたんか」

 胡座をかいている長月は笑いを堪えることもせず、自分の膝を平手でベシベシと叩いた。

 それを受けて、正座していた紫鈴はまるで河豚のように頬を膨らませた。よく膨らむ頬だ。

「くだらなくなんてないです!コタロウ先輩にはくだらなくても、私にとっては死活問題です」

「そうかねえ。そもそも大食いは学生の頃から変わらねえだろうが」

「し、失敬な!あの時よりはずっと我慢してるんですっ!」

「ぶっは!を意識した途端、それって!分かり易過ぎるんだよなぁ、ゆかりんは」

 むうう、と紫鈴は長月のからかいに一層膨れ、そして涙目になった。

 自分も春に対して大概だが、長月もなかなか、人を揶揄からかう悪癖があると、二藍は静かに分析する。ここら辺で口を挟んでも良いが、藪蛇やぶへびなのは目に見えているので二藍は黙って見ていた。

「……長月、五月蝿い」

 笑い転げる長月の隣から地を這うような声がする。座布団を枕がわりにして仰向けに転がっている雅楽代だ。先程まで昏倒していたが、長月たちの話し声で目を覚ましたらしい。大人な対応をした二藍と違い、不機嫌さ全開で、額にのせた手巾の隙間から細められた墨色の瞳が睨んでいる。つい今し方まで大騒ぎしていた紫鈴は、その声を聞いた途端に借りてきた猫のように大人しくなった。対して長月は、その不機嫌な眼差しを臆することなく覗き込んだ。

「わりぃわりぃ。それにしても雅楽代おまえも災難だよなぁ、久々に外出た矢先に何かしら巻き込まれるんだから」

 そう言ってケラケラと笑いながら、雅楽代の額にのせた濡れ手巾をひっくり返した。笑い声の軽快さとは裏腹に、その手つきはとても慎重で丁寧だ。

「……俺の意志じゃない」

 薄く開けた目を再び閉じながら小さく呟く。長月は薄く微笑むと、雅楽代の前髪の生え際辺りを手巾の上から軽く叩いた。

「あ、ああの、ハル先輩……」

 神妙な顔で紫鈴が居住まいを正し、雅楽代に話しかけた。ぐったりした様子だったが、紫鈴の声掛けに応じて微かに首を持ち上げた。

 そして無言で、紫鈴の次の言を待った。

青茅かりやすを顔面にぶつけてしまって本当にごめんなさい。も、もちろんわざとではないですよ!?」

 紫鈴は勢いよく頭を下げて、そしておずおずといった様子で頭を上げた。雅楽代は、手巾の隙間から紫鈴をジッと見つめる。雅楽代に無言で見つめられた紫鈴は視線に耐えるように、口をギザギザに引き結んだ。

 束の間の沈黙の後、雅楽代は静かに口を開いた。

「別にいいし、知ってる」

 口元は微笑んでいるように見えなくも無いが、もう少し言い方があるだろうに、と二藍も長月も心の中で呟いた。しかし、二藍や長月からしてみれば、ややぶっきらぼうな短い返しだったが、どうやら紫鈴には違って聞こえたようだ。

 一瞬固まり、続いて尻尾のような髪がブワッと膨らんだ。みるみるうちに頬が桃色に染まり、眉はこれでもかと上がり、先ほどまでとは別の意味で瞳も潤んでいく。アワアワと動揺したように半開きになった口を、すかさず紫鈴自身の手のひらがそれ以上開かないように押さえた。心なしか後ろで結んだ髪が本当の尻尾のように揺れて見えるのは、紫鈴本体が小刻みに揺れているせいだろうか。

「……先輩が、ほ、微笑ん……尊い……」

 早口かつ小声で何か発したと思ったら、紫鈴は口を押さえていた手のひらで顔を覆い、そのまま後方に倒れて畳の上をゴロゴロと転がった。そして。

「しゅきい〜〜〜〜!!」

 くぐもった黄色い悲鳴が響いた。

「……手記しゅき?」

 怪訝そうな顔で聞き返した雅楽代の額から手巾が滑り落ちた。それを見ながら長月は、天然発言を炸裂させた雅楽代に、冷静なツッコミをいれた。のっそり起き上がった雅楽代の肩を、長月が軽く手首を返してペシリとはたく。その動きは、さながら古き良き時代の漫才のようだ。

「いや、大喜利じゃねぇし。つかスカートじゃなくても、そんな転がり回るとパンツ見えんぞ、ゆかりん」

 まるでダンゴムシのように丸くなったまま転がる紫鈴は裾の広いキュロットを履いているため、右へ左へと転がる度にその裾がひらひらと揺れている。だが折角の忠告は当の本人は聞こえていないらしく、ウフフフ、と奇声をあげてゴロゴロリと転がり続けている。

 その様子を、用意された座布団の上に座った二藍は黙って事の成り行きを見ていた。

「相変わらず、面妖な様ね……」

 はっきり言って二藍は、紫鈴のことが少し苦手だ。紫鈴とは性別は同じ筈なのだが、いかんせん理解しかねる言動が多過ぎる。

 比較的ストレートに物が言える二藍にとっては紫鈴の言動が理解出来ず、その結果、苦手と思ってしまうのだ。別に、紫鈴という人物が嫌いなのでは無い。どちらかと言えば、その真面目な性格などはとても好ましいと思う。だが、そういうことではない。紙魚である自分が見ても、紫鈴は愛情表現が壊滅的に下手なのだ。何故こうも謎の言動ばかりするのか。驚くほど鈍感な春を前にして、奥手を通り越した挙動不審な言動を繰り返したところで状況は一寸たりとも変わらないのに……。

 そんな事をつらつら考えていた二藍が、ふと紫鈴から目線を長月たちに移してみると、長月が半眼で紫鈴の不審な動きを見つめていた。

「……ド天然に変化球投げたって、響きゃしないつーこといい加減理解わかれよ」

 長月が呆れた声でそう呟いていた。長月の意見に、全くもってその通りだと思ったが、雅楽代だけは、何の話だと言わんばかりの表情で長月を見上げている。

 それから少しの間、ゴロゴロ転がってくぐもった悲鳴をあげる紫鈴を三人で眺めていたが、やがて長月は興味が失せたようで、首をクキリと回すと話題を変えた。

「二人は用事があって来たって言ってたけど、一体何の用だったんだ?」

 唐突に話題を振られ、雅楽代は怪訝そうな眼差しを向けていた紫鈴から目を離し、長月の方を向く。

 雅楽代の代わりに二藍が口を開いた。

「本格的に暑くなると春は家から出たがらないから、かなり早めの御中元を渡しに来たのよ」

「ああ、お中元か!……お中元って、今まだ五月だぞ?」

 なるほどと頷きかけて、違和感に気づいた長月は不思議そうに聞き返した。

 その反応に、雅楽代の眉間が不機嫌に寄る。

「ふふ、本格的に暑くなったら、春が外に出たがらないからね〜」

「あー、なるほど。暑さか!でもそれなら、梅雨の期間じゃダメなのか?」

 多少は涼しいだろう、という長月の言葉を、二藍は冷静に否定した。

「雨の日は、春は出かけられても、紫鈴が部屋から絶対出てこないでしょう?」

「え。……あー、そうだわ、そういう奴だったわ」

 そうなのだ。

 毛量の多い紫鈴にとって、梅雨は一番嫌いな季節なのだ。部屋中に充満する湿気を余すところなく存分に吸い込んで、ただでさえ多い髪が倍以上に膨らみ、全く纏まらないのだ。文字通り、髪が大爆発する。その為、紫鈴は梅雨の時期は引きこもりになる。しかも訪ねてくる相手が雅楽代ならば尚更だろう、絶対に出てこない。

「……そういうことだ。遅いより、早い方が幾分かマシだろう?」

 どこまで分かっているのか知らないが、そう言って雅楽代が締めた。ふむ、と口元に指を当てて話を聞いていた長月の口が不意に歪んだ。

「なあなあ。その話、俺にも一枚噛ませてもらえないか?」

 ちょっと悪い笑みを浮かべた長月が、雅楽代と二藍に提案した。二人は目をパチパチさせて顔を見合わせた。



 ◇



青茅かりやす。起きて頂戴、青茅」

 ぺちぺち、と二藍の小さな手が失神したままの青茅の頬を叩く。

「う、う〜ん……」

「起きて青茅。貴方が起きてくれないと、私たちお暇出来ないんだから」

 なかなか目を開けない青茅に痺れを切らした二藍が、畳み掛けるように頬を連打する。

「二藍……?」

「目が覚めた?」

 のっそり起きた青茅は、まだボンヤリした様子で二藍の方を向いた。二藍は、起き上がった青茅に向かってあずま袋を、ずいっと差し出した。

 首を傾げる青茅に、二藍はにこりと笑顔を作る。

「いつも書画ばっかりじゃさすがの貴方も飽きてしまうと思って、かなり早めの御中元よ」

 そう言って二藍は白い手で、自分が入っていたあずま袋を指し示した。中には鸞鳳堂古書店から持ってきた二藍お気に入りの書籍が数冊入っている。

「わ、わ、本だ!嬉しいなぁ!」

 青茅は、二藍が寄越した物の正体が分かると袋に飛びついた。興奮した様子で袋の中から本を取り出すと、嬉しそうに匂いを嗅ぐ。

「はあぁ〜、インクの香り、久しぶりだなぁ〜」

「ふふ、気に入ってくれたみたいで私も嬉しいわ。いつも渋い物ばかり食べているんじゃないかと思ったから、甘めの物を重点的に集めたの。味は私が保証するわ」

「君のお薦めなら間違い無いよ!ありがとう」

「いえいえ、そう言ってもらえて私たちも贈った甲斐があるわ。ねぇ、春、湖太郎?」

 にっこり微笑む二藍に、満面の笑みを浮かべた長月と、ぎこちない笑顔の雅楽代が続いた。

「苦労して集めた甲斐があったな。な、雅楽代?」

「あ、ああ……そうだな」

 嬉しそうに本を抱いていた青茅は、目下の敵である長月が雅楽代の傍からひょっこり顔を出した為、明らかに警戒するように身構えた。二人の妙な雰囲気に、青茅は胡乱げに眉を寄せた。

「……どういう事ですか?」

 その言葉を受けて、長月は大げさな身振りを加えて説明を始めた。

「なんて事ないさ。その贈り物は、俺が『蒐集しゅうしゅうし』、雅楽代が『買取り』、二藍が『厳選した』物ってだけだ。つまり」

「三人からの御中元ってことよ」

 青茅の手から本がずるりと落ちた。

 趣味の良い雅楽代が買取り、甘党の二藍が厳選した本。訳あって書画ばかり喰む毎日の青茅に贈られた素晴らしい本は、まさかの天敵・長月湖太郎が蒐集した物だったとは。

「そんな……」

 愕然とした様子で青茅は呟いた。

「というわけで、また半年宜しくな!青茅」

 この男が蒐めた本など本来なら読みたくない、しかし二藍のお薦めは大変美味で当たりが多い。

 力一杯渋い顔をした青茅は落とした本を拾うと、キッと長月を睨みつける。

「……この前、紫鈴が回収し損ねた売上、その他もきっちり頂けるんでしょうね?」

「ああ、勿論だとも!踏み倒す気なんて毛頭ないぞ?」

 青茅の睨みを物ともせず、長月は今日一番の笑顔を青茅に向けた。


 こうして、青茅が起きた途端起きる筈だと思われた大爆発は、長月の悪知恵……もとい、素晴らしい機転で無事回避することが出来た。

 そしてその結末を見ながら二藍は、今度長月に、何か埋め合わせをしてもらおうと密かに誓うのだった。

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