第四話 萩鳥
風光る、緑風駆ける初夏。
都内でも有名な古書街の表通りから一本外れた道に、その店は建っている。さっぱりとした、ある意味趣きのある木枠に型板ガラスが嵌っただけの引き戸を、力を入れて引く。建物が古く建て付けの悪い引き戸は、男の
「相変わらず、とんでもない店名だよ、なっ」
歯を食いしばりながら、雅楽代は文節で区切るように言った。
今、雅楽代が入ろうとしているのは、古美術品を扱う慎ましやかな雰囲気の骨董店。
その名を『
勿論、雅楽代は正式な読み方を知ったうえで、ややこしいと思っている。何故、カタカナで名字を表記しなかったのだろう。訪れる度にそう思う。そんな事を思いながら、ガタガタと動きの悪い音を立てる戸をじりじり開いた。
出不精の雅楽代が珍しく外出したのは、商売に支障の出そうな名を敢えて付けたこの店にある用事があったからだ。やっとの思いで人一人が入れる隙間を作り、体を捩じ込むように店内へ入る。ようやく入れた店内で雅楽代は大きく息を吸った。古い物に宿る独特の香りが鼻をくすぐる。
店内はいつもながら様々な骨董品で溢れていた。まず目に入るのは、入り口正面にどっしりと構え来店する客に怪しくも人懐こい笑みを浮かべる、巨大な信楽焼の狸。次に色とりどりの壺や皿。壁沿いに置かれた大きな水瓶の中には水は入っておらず、代わりに刀と思しき長い棒が何本も投げ込まれている。何に使うのか謎の三つ足の鉄器に、歴史の教科書で見たような銅鐸に似た置き物、錆びついた
「
雅楽代は短く声をかけた。だが、応答がない。気配はする。気配がするどころか、ドタンバタンと何やらけたたましい音がするので、確かにいるはずなのだが雅楽代の来訪に気づいていないのかもしれない。
ふう、と短く息を吐き再び声をかけようとした時、それは飛び出してきた。
「
「おぐうっ!」
すると茶色の毛玉を追いかけるように、おどおどと気の弱そうな声がした。
「ゆゆ、ゆか、紫鈴っ、ごめ……ぼく、そんなつもりじゃ……」
ふよふよと、どこかおぼつかない様子で泳いで来たのは一人の
この萩鳥骨董店に住み着く紙魚の青年、
「ぐむぐうぅ、うむぅむう!」
その気弱な声に反応するように、雅楽代に猛然と突っ込んできた茶色の毛玉が、雅楽代の腹にめり込んだままぐむぐむ唸っている。
「なあに
「あ、
騒ぎを聞きつけて、雅楽代が持ってきて先程足元に取り落としたあずま袋の中から、二藍色の長い髪をした紙魚の少女が顔を出した。あずま袋ごと投げ出されたのでさすがに怒っているかと思いきや、何やらワクワクした様子で黄色い紙魚の青茅に声をかける。二藍のささやかなからかいに、青ざめていた青茅の顔が今度はみるみる赤くなった。
本来ならこの辺りで雅楽代の冷静な指摘があるのだが、今日の雅楽代はそれどころではなかった。先程から雅楽代の巨軀がくの字に曲がり、腰の辺りでみしみしと音がしている。
「ふふ、冗談よ。ご無沙汰ね、青茅。早速で申し訳ないんだけど」
ころころと鈴を転がすように二藍は笑い、そして徐に己の頭上を指差した。
「そろそろ、うちの
訝しげに二藍の指差す方を見て、青茅は再び青ざめた。
絶叫と共に突撃してきた茶色の毛玉——もとい、ボリュームのあるくせ毛を一本結びにした小柄な女性、
◇
「ご……ごめんなさい、ハル先輩……」
店の奥にある畳の上で茶色の毛玉が申し訳なさそうな様子で、体を折り畳むようにして雅楽代の前に正座している。
茶色の毛玉こと、
低い位置で一本結びにされた彼女の茶色のくるくるとしたくせ毛は、そもそもの髪の硬さもあるが存分に空気を含んで質量以上の大きさに膨らんでいた。
「で?なんだって店の奥から飛び出して来たんだ?」
「そ、それは」
何やらバツの悪そうな様子で顔を上げた紫鈴は、何故かこちらを見ようとしない。言葉を濁すようにごにょごにょと口の中で呟いている。
「ぼぼ、ぼ、ぼくが悪いんです」
小さくなっていた紫鈴の隣で同じく小さくなっていた紙魚の
「あら、
二藍が合いの手を入れた。
こくりと殊勝な様子でド派手な金髪が頷く。
「実は今、
栄吉とはこの萩鳥骨董店の正式な店主で、目の前で小さくなっている紫鈴の父親だ。目当ての
「
萩の親父さんこと、萩鳥栄吉氏が店を留守にして買い付けに行くのはよくあることなので、何が問題なのか分からない。
「大問題ですよ」
青茅は至極真面目な顔で返した。
ますます分からないと、雅楽代は首を傾げる。
「栄吉がいないのを見計らったかのようにあの男が来て、また紫鈴にガラクタばっかり押し付けて行ったんです。紫鈴はとにかく見る目がないので、良いものと悪いものと全部一緒に引き取ってしまったんです。ちゃんと精査しないから買取金が足らなくて、結局足らない分を今月の紫鈴の食費から捻出したんです」
「ちょ、青茅っ!」
紫鈴は逸らしていた顔を勢いよく青茅に向け、思わず畳を強く叩いた。ばん、と威勢のいい音がする。彼女が力強く手の平を畳に叩きつけた衝撃で、紫鈴の隣に居た青茅の小さな体が縦に跳ねた。
ひゃ、と小さく声を上げたが、弁解するように青茅は続けた。
「ぼ、ぼくは良いんですよ、ここなら食べるものはいっぱいあるし。でも、紫鈴はぼくと同じご飯じゃダメじゃないですか。それに育ち盛りだからちょっとのご飯じゃ絶対足らないだろうし」
「や、ちょっ!ち!違います!先輩、私そんなに大食いじゃないですうっ!」
紫鈴は顔を真っ赤にして、今度は雅楽代を振り返った。口をギザギザに開きながら、慌てた様子で青茅の紫鈴大食い発言に対して釈明してきた。
「骨董に関する審美眼がないっていうのはいいのか?」
慌てふためく紫鈴を前に、雅楽代が冷静に指摘した。きっと口論の種はそれだろうに。
「や、それも気になりますけど!私大食いじゃないです!信じてハル先輩っ!」
どちらにしても異議ありのようだが、まだギリギリ二十代の乙女としては、骨董の見る目がないと言われたことより大食い認定されることの方が耐え難いようだ。悲痛な顔で訴えている。そんな乙女心を知ってか知らずか、青茅は畳み掛けるように大食いだという点を褒めちぎった。
「隠さなくても良いと思うよ。ぼくは、いっぱい食べる君が、好きだし。美味しいご飯を口いっぱいに詰め込んで、リスみたいになってのを見ると、本当幸せそうだなって、思うし……か、かわ」
「っバカーーーー!」
青茅はどさくさに紛れて何か言おうとしたようだが、恥ずかしさの限界だった紫鈴に絶叫と共に平手打ちされた為最後まで言えなかった。加減を忘れた平手を食らい、小さい紙魚は雅楽代に向かってすっ飛んで来た。
結果、再び口を挟む前に、すっ飛んで来た青茅を図らずも顔面キャッチしてしまった雅楽代は、今度は声もなく青茅共々畳に沈んだ。
雅楽代の隣で静かに一部始終を見守っていた二藍は呆れたように額を押さえて、畳に転がる雅楽代とその顔面にめり込んだ青茅、そして真っ赤な顔を両
「なんだなんだ、痴話喧嘩か?」
声につられて二藍が振り返る。そこには人懐こい大型犬を思わせる爽やかな三十路男、
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