第ニ話 企業秘密

 都内某所。人目を避けるように建つ蔦まみれの冴えない古書店「鸞鳳堂らんほうどう」は、今日も閑古鳥が鳴いていた。

 店構えや立地のせいもあるが、店で取り扱っている大半の本の内容が一般的な古書でないのが最大の原因だろう。常連客以外、ほとんど訪ねてくる人がいない。

 店の主人である雅楽代春うたしろ はるは睡眠不足でしょぼつく目を覚ます為、レジの奥にある部屋の机で珈琲を淹れる準備をしていた。店の奥にあるレジのすぐ傍には雅楽代が「玉兎庵ぎょくとあん」と命名した小部屋があるが、レジの更に奥は雅楽代の居住空間スペースになっている。雅楽代がいる机は一人用にしては巨大な一枚板の机で、所々に黒いシミが見える。今は何も置かれていない机に、のっそりとした動きで食器棚からカップを取り出した。ミルで豆を挽いている後ろでは、一口コンロにかけた薬缶やかんがシュンシュンと音を立てている。非常に緩慢な動きだが決して止まることはなく、淡々と作業を進める。眠さで傾く体を精一杯のばして珈琲を淹れる。ゆっくり立ち昇る芳ばしい香りが鼻をくすぐる頃、雅楽代の瞼はやっと開き続ける努力をし始めた。

 席につき、淹れたての珈琲を口に運ぶ。鼻腔を抜ける香りと熱さでほんの少しだけ目が覚めた。もともとカフェインが効きづらい体質なので、眠気覚ましは珈琲でなくても良いのだが淹れる工程と香りが好きで雅楽代はよく珈琲を淹れる。ちなみにお茶も同様の理由でよく淹れる。ただ、朝はお茶より珈琲の方がしっくりくる気がするのだから面白い。

 台所から店内の方に珈琲の良い香りが漂いはじめたあたりで、ちょうど十一時を知らせる鐘が鳴った。雅楽代が今いる部屋の柱に掛かっている壁掛け時計だ。

 残りの珈琲を一気に飲み干して、流しで軽くカップをすすぎ伏せておく。どうせまたすぐ飲むと予想して、片付けもそこそこに雅楽代は店に出た。開店してから二時間経っているが、やはり客はいなかった。ふぅ、と短く息を吐き雅楽代はいつも通り玉兎庵(巣)に入ろうとして、やめた。店の書架の前に築かれた紙の山の上に、見慣れた小さな影を見つけたからだ。藍色に紅色を重ねた色——二藍色ふたあいいろの髪をもつ、人間の少女のような魚のような異形のもの。鸞鳳堂に棲みつく紙魚しみの少女、二藍ふたあいだ。

 雅楽代は首を傾げながらゆっくりと紙魚の少女に近づいた。

「……二藍ふたあい、今度は何を食べていたんだ…?」

 近づいて見てみると二藍の口がもぐもぐと動いている。確か、雅楽代が店を開けたときに昨日の失敗作を食べていたはずだ。まだ食べるのかと呆れた様子で、雅楽代は二藍に問いかけた。

「手紙。……なんだか苦くて、舌が痺れるような味だわ。恨み言とか、そういう内容だったみたいね。せっかく手紙を書くのなら、もっと美味しいふみを書けば良いのに……」

 二藍は紙の山の端に腰掛け、小さくちぎった紙片をみながら応えた。よく見ると確かに手紙のようだった。記憶が間違っていなければ、一昨日おとといの昼ごろに長月ながつきが持って来た品物だった気がする。大量に持ち込まれた手紙のうちの一つだったので内容は詳しく見ていなかったが、味はいまいちだったらしい。不満げな声がする。

「もっと美味しい、か……。例えばどんな内容なら君にとって、美味しい味になるんだ?」

「そうねぇ……」

 二藍は、口元に微かに残る紙片を舐め取り、思案するように首を傾げる。

「舌触りが良いのは、名作って言われてる古典作品の愛蔵版とかかしら。沢山の人間に愛された作品だけあってとても複雑な味で美味しいのよ。それにあれ、いい紙使ってるからね。丁寧に刷られているせいか、インクの味も良いのよね。それとインクも良いけど、やっぱり私、墨は捨て難いわ。和紙に染みたあの墨のほろ苦さと飽きの来ない絶妙な旨味……。絶対お目にかかれないだろうけど内容としてなら、平安時代の仮名色紙とか最高に素敵よね。職人が手作業で作った紙に、名手の筆跡で書かれた、有名な歌人の歌なんて至高の贅沢だわ……」

 うっとりしながら二藍は自分の趣味嗜好の傾向をスラスラ語ってゆく。

「甘くて美味しいのは、やっぱり恋文ね。それも出来れば、純粋な年齢の人や心の持ち主が書いた物だと、雑味がなくてほんのり酸っぱくて、そしてとっても甘くて美味しいの」

 純粋な年齢や純粋な心の持ち主が書いた恋文。

 なかなかどうしてこの紙魚しみの娘は、まるで人間のような抽象的なことを言う。

「恋文ねぇ……」

 雅楽代は思案するように呟く。

 正直、二藍の言うような恋文だと、送った相手と送られた相手とが夫婦になり仲睦まじいのであれば、ほっこりした昔話になるだろうが、そうでない場合だったとき書き手は顔から火が出るほど恥ずかしい内容だろう。それこそ、その恋文が歯の浮くような言葉や甘ったるい文言が並ぶ物であったなら、物理的に火をつけて灰にしてしまいたい人もいるに違いない。少なくとも、雅楽代だったら燃やす。確実に燃やす。灰も残らないほどに滅却する。

「……そういった恋文は、なかなかハードルが高いんじゃないのか」

 世の人々は己の黒歴史としてそういう代物は滅却しているだろうと想像したため、雅楽代は遠回しに「無い」と二藍に言った。

「そうかしら?そんなことは無いと思うのよ、私」

 だが二藍は妙に自信たっぷりに返した。雅楽代は無意識に眉を寄せた。

「……なぜそう思う?」

「見たことあるから」

 怪訝そうに尋ねた雅楽代に対して、しれっ、と二藍は言い放つ。雅楽代はぽかんと、間抜けに口を開けた。

「誰の?」

「それは企業秘密」

 いたずらっぽく口を歪める二藍に、雅楽代は少しむくれた。

「思わせぶりな言い方しておいてそれは無いんじゃないか?」

「世の中には知らなくて良いことが沢山あるのよ、坊や」

「坊やはめろ」

 子供扱いされ、更に訳知り顔で頷く二藍に雅楽代は一気に不機嫌になった。結果語調が強くなる。

はる、そんなむくれないの。折角の美形が台無しよ」

 くすくす、と笑いながら二藍が雅楽代の周りを旋回する。雅楽代の眉間のシワが深くなった。雅楽代は年齢の割に反応が新鮮で面白い為、ついからかってしまう。だがこれ以上からかうとやり過ぎだと判断した二藍は、雅楽代の頭の周りをくるりと一周して、近くの書架に泳いで行った。

「企業秘密の方は教えられないけれど、他の実例に関してなら教えてあげるわ。この本の作者は知ってるわよね?」

 そう言って一冊の本を指し示した。緑の帯のついた古ぼけた文庫本だ。背表紙は茶色く焼けて、防水用に付いている油紙あぶらがみも天地(※1)が少し傷んでいる。雅楽代は無言でその本に手をのばした。手に取ると想像以上に年季の入った物だったようだ。背表紙どころか、天、地、小口こぐち(※2)すべてが茶色く日に焼けている。不揃いの天はところどころ折れて、不思議な模様を作っていた。

 その本のタイトルは「夢十夜」。近現代文学の文豪の書いた有名な短編集だ。

「ああ、『I love you』を『月がきれいですね』って訳したあの文豪だろう?」

 雅楽代は一瞬考えたが、難なく答えた。満足そうに二藍が頷く。

「そうそれ。とても有名よね。ただそれ以外にも彼の恋愛に関する資料……というか、妻に宛てた手紙にが残ってるのよ。遠回しに、お前から便りが来なくて寂しい、って」

「そうなのか……!」

「大学の授業で夢十夜その本の読み解きの際、先行研究の書物をひっくり返したときに読んだ記憶、ない?」

 雅楽代は腕組みし、脳内の抽斗ひきだしを漁ったが目当てのものが見つからない。

「……第何夜だったか忘れたが、そのなかに出てきたパナマ帽のくだりに関わる記述を躍起になって探し回った記憶しかない」

「それは第八夜ね。暇なら読み返してみると良いわ」

 二藍は即答した。

「第一夜が私としては好きよ。甘くて、でも貪るように喰うものでもない。ただ、じっくり欠片を味わう。それこそ舌の上で砂糖菓子をころりころりと転がすようにすると、彼の求める理想のヒトを思い浮かべられる」

「でも恋文じゃないだろう?」

「私に言わせれば、あれは立派な恋文よ」

 そんなもんかね、と半信半疑な様子の雅楽代は手に持ったままの文庫本をじっと見つめた。それを紙の束に腰掛けた二藍は、目を細めて眺めた。

「……貴方の作品と一緒よ」

 まるで口の中で囁くような、微かな呟きだった。

「……なんか言ったか?」

「いいえ空耳じゃないかしら?」

 文庫本から顔を上げた雅楽代は二藍に問いかけたが、彼女は素知らぬ顔で別の本の山の方に泳いでいった。






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 以下、少々用語の説明がございます。

 ご存知の方も多くいらっしゃるとは思いますが、作中で※をつけた用語についての説明となります。拙い文章ではございますが、参考までに書かせて頂きました。


 ※1 天地……製本における用語。正確には『天』、『地』。本の頁が重なった上部、表表紙と裏表紙に挟まれた紙の束の上の部分を『天』と言い、その反対側である下部を『地』という。

 ※2 小口……製本における用語。天と地に挟まれた部分で、本を開くときに主に自身の方に向かう部分が『小口』。背表紙の反対側に位置する。

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