鸞鳳堂古書店の紙魚

ヒトリシズカ

第一話 庵の主人と紙魚の少女

 都内某所。

 人通りの多い賑やかな大通りから三本ほど路地を奥に入り、更に角を四つほど曲がり、三叉路を右へ行き、人も車も動物もほぼ見えなくなった坂道を登りきった先の雑木林の入り口に、まるで息を潜めて隠れるような佇まいでその店は建っていた。

 店の名前は『鸞鳳堂古書店らんほうどうこしょてん』。地味で陰気な見た目とそぐわない、あでやかな名をもつこの店は、古本を売り買いすることを生業としている。

 蔦まみれの外壁に同じく蔦まみれの木製看板。そして扉には古ぼけたステンドグラスが嵌る。埃が積もり煤けたその扉を開けると、見た目とは裏腹に涼やかな音が鳴り響く。店内に客の姿はなく、閑古鳥が鳴いている。

雅楽代うたしろー。いるかー?」

 うず高く積み上げられた本の山に向かって、男は声をかけた。やや間をあけて、店の奥の方からひらひらと白い手が振られた。どうやら今日は生き埋めにはなっていないらしい。

 店を訪れた男の名前は、長月 湖太郎ながつき こたろう。この寂れた店の数少ない常連だ。

 長月は狭い通路を抜けて、白い手に向かって進んで行く。古書店独特の微かな埃と紙の匂いが鼻をくすぐる。店の中は乱雑に見えるが、一応ジャンル毎に山が形成されている。蔵書は現代の物もあるが、和綴じの本や、剪装本せんそうぼん粘葉本でっちょうぼん巻子本かんすぼんなど、古い書物も多い。さすがに、木簡もっかん竹簡ちっかん甲骨こうこつなどはないが、紙の束に混じって拓本たくほんがあったりするのでなかなか侮れない。

 お目当ての人物はいつも通り、宝の山のさらに奥に設置されたレジの傍にある小部屋にいた。紙がうず高く積まれた壁の一部がぽっかりと抜けているそこは、三畳ほどの非常に狭い空間だ。古ぼけた畳が申し訳程度に敷かれ、三方の壁が天井まで棚になっている。その棚には画仙紙の束やすずり、墨に墨汁、石でできた印に印泥いんでい、木製の筆掛けには様々な太さや長さの筆が大量にぶら下がり、法帖ほうじょうや字書、詩歌集といった資料が所狭しと詰まっている。その狭い部屋の入り口には蒲鉾板かまぼこいたに墨で「玉兎庵ぎょくとあん」とあるが、生憎「いおり」ではなく「」といったほうがしっくりくる。

 長月はそんな巣の中をひょいと覗き込む。ふわりと墨の香りがした。その中で、鸞鳳堂の主人であり玉兎庵の主人でもある男、雅楽代 春うたしろ はるは、畳の上に毛氈もうせんを敷き紙を広げ、その上に仁王立ちしている。右手で筆を握り、何やら難しい顔をしていた。

「なんだ、お前らまた喧嘩したのか」

「ああ、長月ながつきか」

「おう。いつものやつ持ってきたんだが、今日は何で揉めたんだ?」

「喧嘩じゃない。二藍ふたあいのやつが、また勝手に俺の作品を食べたんだ。一方的な被害を受けてる」

 やや神経質そうな顔の男——雅楽代 春うたしろ はるは、ひょろっとした長身をわずかにひねり、長月に不貞腐れた様子で応えた。その不貞腐れた顔を見るのもいつものことだ。長月はいつもと同じように、雅楽代に返した。

「良いじゃないか。自分が書いた作品を紙魚しみに喰われるなんて、光栄じゃないか。良い作品だって認められたも同然だろ」

「俺がこの作品を依頼人に引き渡してからなら、幾らでも喰ってくれて構わない。だが代金と引き換える前に喰われたんじゃ、膨らむのはこいつの腹だけだ」

 筆を持っていない手で雅楽代は、ある場所を指し示す。その先にあるのは漢詩が書かれた画仙紙と、それを齧る小人のような小さな魚のようなモノ。異様な姿だが、顔は人間とよく似ている。その顔つきは少女ようだ。肌は白く、藍色に紅色をのせた紫に似た色の髪をもち、瞳は髪よりやや青みがかった紫色。下半身が魚に似た尾ひれになっている。藍色の着物からのぞく尾ひれは髪よりやや紅色よりの色で、ぴちぴちと機嫌良さげに振られている。

 彼女は紙魚しみだ。名を二藍ふたあいという。紙を喰らい、文字を喰らい、生きる異形のものだ。虫でも同じ名を持った紙を食うものがいるが、それとはまた異なる。虫たちと違い、彼らは各々の美学をもって喰う物を選ぶ。それは紙や墨・インクといった材質であったり、そこに込められた想いであったり。実に多彩だ。

 二藍という紙魚はいつの頃からか、この鸞鳳堂に住み着いている。きっと仕入れた本の中に紛れていたんだろうというのは、雅楽代の見解だ。初めて見たときはそれは驚いたが、気がついたときには雅楽代と仲良く喧嘩していたので今ではもう見慣れてしまった。

 もぐもぐと口を動かしている様を見つめていると、二藍は長月が来ていることにやっと気付いたらしい。咀嚼そしゃくしていた紙を嚥下えんげすると、中空を泳いで長月と雅楽代の間にやって来た。

「あら、湖太郎こたろう。いらっしゃい、来てたのね」

 藍色に紅色をのせた色——二藍色ふたあいいろの長い髪がふわりと揺れる。髪よりほんのすこし青い瞳と小さな唇が、やわらかい弧を描く。

「やあ、二藍。今の作品は美味うまかったか?」

 二藍は、長月のいつもの挨拶を受けて、考えるように首を傾けた。

「うーん、ちょっと雑味があったかも」

「つまり、あまり美味くないと」

「そうね。美味おいしくなかったわね」

「おいこら。ひとの作品を納品前に喰っておいて、あまり美味くないとはどういう事だ」

 二藍の批評に雅楽代うたしろが口を尖らせた。先ほどのことをまだ根に持っているらしい。出来栄えはどの程度なのか自分が一番分かっているのに。

「美味しくないから美味しくないって言ってるの。自分で納得いってない作品なんだから、雑味が出るのよ。何に迷ってるのか知らないけど、もっと素直に書きなさいよ」

 ぐっ、と雅楽代の顔が歪む。言い返してやりたいが図星すぎて言い返せないといった顔だ。その顔を見て長月は、にやにやと笑いながら雅楽代に絡んだ。

「言われちまったなー。おい、どうするよ雅楽代?」

五月蝿うるさい」

 ぶっきらぼうに返す様は、年齢より幼く見える。そもそもが若く見える容姿だが、言動のせいかそれに輪をかけて幼く見えた。青白い肌に、墨色の髪と同色の瞳をもつ雅楽代この男は今年で三十になる。ただ、顔の造詣や醸し出される雰囲気は実際の年齢の男には到底見えない。そのくせ身長だけは無駄にあるので、顔と体のバランスが少しちぐはぐに見えるのだ。対して、にやにやと雅楽代に絡んでいる長月も、雅楽代と同じ三十歳だ。こちらは雅楽代のように髪がそこまで潤沢ではない為、栗色の髪をしゃっきりと短く切り、清潔感を持たせている。少年のような表情かおで絡む長月も三十歳にはあまり見られないが、雅楽代ほどではない。服装や受け応えがしっかりしているせいだろう。

「……それより!今日の納品は?」

 雅楽代は強引に話題を変えた。握りしめていた筆を墨池ぼくちの縁に下ろし、視界から二藍を追い出すように長月に突っかかった。「逃げたわね」という二藍の言葉と舌打ちが聞こえた気がしたが、雅楽代は無視した。いつも通りのやり取りに、はいはい、と笑いを噛み殺しながら長月は背中に背負った荷物を下ろした。下ろした鞄から本が数冊と、長細い箱が出てきた。箱を開けると中から軸装じくそうされた掛け軸が出てきた。

「今日は小説数冊に、図録が一冊。あと、作者が分からない仮名の軸が一本」

「軸は作者が分からないのか?落款や印は?」

「ない。喰われたわけじゃなさそうなんだが、全体の三分の一ほどしか無く、もとの持ち主がそれをそのまま軸に仕立てたようなんだ」

 ふうん、と気乗りしない返事をするのに、その顔は好奇心がチラチラと見え隠れする。雅楽代は掛け軸を手に取った。

二藍ふたあい

 先ほど無視したのが嘘のように自然に紙魚しみの少女を振り返る。

「なあに?はる

「食後の甘味デザートはいかがかな」

「あまりに不味い甘味だったら、あなたが口直しをくれるんでしょうね?」

「味は保証できない」

「まあ、素直ね」

 その応えをと受け取った雅楽代は手に持った掛け軸の真田紐さなだひもを解き、中身を見せる。二藍はそれを覗き込むように泳いできた。中身をじっと見つめ眉を寄せる。所々にシミや汚れがあり、紙も茶色く変色している。前の持ち主はあまり丁寧に保管していなかったようだ。

「……ふうん?確かに古そうだけど、違うわね」

「あちゃあ、また偽物か」

 黙って様子を窺っていた長月が声を上げると、二藍は長月をキッと睨みつけた。

「何度も言わせないで頂戴。あなた達人間にとっては有名な作家以外興味は無いんでしょうけど、そんなもの私にとってはどうでもいいの。良い悪い、好みか好まざるかというだけの物よ。模倣だろうが、贋作だろうが、技量と想いがあれば美味しいんだから。偽物とか言われると食事が不味くなるわ」

「すいません……」

 三十になる大の男が小さな少女に説教されてしゅんとなる様は、なかなかシュールだ。

「誰が書いた物か、どんな味かみてくれないか?」

 怒られた長月を尻目に、雅楽代が尋ねた。

「食べて良いのね?」

 確認を取る二藍に雅楽代は頷いた。

「ああ、勿論」

 表装された作品の端に二藍の白い手がのびる。爪の先ほどの大きさに小さく千切った破片を咥えると、そっと舌の上で転がす。じっくり味わうように目を閉じた二藍は、やがて優雅に瞬いた。長くて真っ白な睫毛が羽ばたくように動く。ゆっくりと嚥下するとようやく口を開いた。

「……青い、とても青い味ね。想いはあるのに力が伴ってないのかしら。爽やかと言えば聞こえは良いけど、甘さが全くと言っていいほどないわね。誰かは分からない。今まで食べたことのない人だわ」

「そうか、残念だ」

「悪くはないけど、私の好みじゃないわね」

「じゃあこれは骨董屋のところに持って行ってもらうか」

 くるくると軸を巻き直しながら雅楽代が言う。長月は二藍に怒られてしゅんとしたままだったが、二藍の見立てを聞いて改めて残念そうに肩を落とした。

「今回こそ、いけると思ったんだけどなぁ」

「二藍は好みじゃないと言ってるが、確かあそこのは好き嫌い無く喰うだろう?」

「まあな。ただ、何でも喰ってくれると、張り合いがないじゃないか」

 そんなものかと雅楽代は首を傾げるが深くは追求しなかった。長月の負けず嫌いは学生時代から変わらない。ぽりぽりと首の後ろを掻きながら、棚に積まれた豆色紙まめしきしの束を出して長月の前に数枚差し出す。

「こんなので良いのか毎度疑問だが、今回の代金だ。枚数は三、四枚ぐらいで良いか?」

 色紙には短い漢詩と素朴な水墨画が描かれている。人物画は無く、花鳥画ばかりだが素朴で柔らかい作品ものばかりだ。長月はじっと束を見つめ、そこから一枚だけ受け取った。

「本命を突き返されたんだ。これだけ貰えば充分だ」

 長月はそう言って受け取った豆色紙を大事そうに懐紙に包み鞄へ仕舞う。

 長月の基準がいまいち理解できない雅楽代は、そんなもんかねと思いながら余りの豆色紙を再び棚に仕舞った。二人のやり取りを二藍は部屋の隅に置かれた小ぶりのテーブルに腰掛けて面白そうに見ている。

はるー、口直しに甘い物が食べたいわ。早く何か書いてちょうだい」

 頬杖をついて雅楽代にしょをせがむ。はいはい、とおざなりな返事をしながらも雅楽代は棚から半紙を取り出して一瞬考えたあと、徐に……もとい玉兎から這い出て店内の書架に向かう。

「二藍ー、シェイクスピアの詩歌集と金瓶梅きんぺいばい、どっちが今日の気分だ?」

 少し離れた所から雅楽代の声が響く。どちらも捨て難そうな、でもどちらでも無いような顔がチラリと覗くがそれをきれいに隠して二藍は、声のする方に泳いで行った。それを長月が静かに見送る。

 いつもと変わらない平凡で、ほんの少し不思議な光景。

 これが鸞鳳堂らんほうどう古書店、そして店主・雅楽代春うたしろはる紙魚しみの少女二藍ふたあいの日常だ。

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