鸞鳳堂古書店の紙魚
ヒトリシズカ
第一話 庵の主人と紙魚の少女
都内某所。
人通りの多い賑やかな大通りから三本ほど路地を奥に入り、更に角を四つほど曲がり、三叉路を右へ行き、人も車も動物もほぼ見えなくなった坂道を登りきった先の雑木林の入り口に、まるで息を潜めて隠れるような佇まいでその店は建っていた。
店の名前は『
蔦まみれの外壁に同じく蔦まみれの木製看板。そして扉には古ぼけたステンドグラスが嵌る。埃が積もり煤けたその扉を開けると、見た目とは裏腹に涼やかな音が鳴り響く。店内に客の姿はなく、閑古鳥が鳴いている。
「
うず高く積み上げられた本の山に向かって、男は声をかけた。やや間をあけて、店の奥の方からひらひらと白い手が振られた。どうやら今日は生き埋めにはなっていないらしい。
店を訪れた男の名前は、
長月は狭い通路を抜けて、白い手に向かって進んで行く。古書店独特の微かな埃と紙の匂いが鼻をくすぐる。店の中は乱雑に見えるが、一応ジャンル毎に山が形成されている。蔵書は現代の物もあるが、和綴じの本や、
お目当ての人物はいつも通り、宝の山のさらに奥に設置されたレジの傍にある小部屋にいた。紙がうず高く積まれた壁の一部がぽっかりと抜けているそこは、三畳ほどの非常に狭い空間だ。古ぼけた畳が申し訳程度に敷かれ、三方の壁が天井まで棚になっている。その棚には画仙紙の束や
長月はそんな巣の中をひょいと覗き込む。ふわりと墨の香りがした。その中で、鸞鳳堂の主人であり玉兎庵の主人でもある男、
「なんだ、お前らまた喧嘩したのか」
「ああ、
「おう。いつものやつ持ってきたんだが、今日は何で揉めたんだ?」
「喧嘩じゃない。
やや神経質そうな顔の男——
「良いじゃないか。自分が書いた作品を
「俺がこの作品を依頼人に引き渡してからなら、幾らでも喰ってくれて構わない。だが代金と引き換える前に喰われたんじゃ、膨らむのはこいつの腹だけだ」
筆を持っていない手で雅楽代は、ある場所を指し示す。その先にあるのは漢詩が書かれた画仙紙と、それを齧る小人のような小さな魚のようなモノ。異様な姿だが、顔は人間とよく似ている。その顔つきは少女ようだ。肌は白く、藍色に紅色をのせた紫に似た色の髪をもち、瞳は髪よりやや青みがかった紫色。下半身が魚に似た尾ひれになっている。藍色の着物からのぞく尾ひれは髪よりやや紅色よりの色で、ぴちぴちと機嫌良さげに振られている。
彼女は
二藍という紙魚はいつの頃からか、この鸞鳳堂に住み着いている。きっと仕入れた本の中に紛れていたんだろうというのは、雅楽代の見解だ。初めて見たときはそれは驚いたが、気がついたときには雅楽代と仲良く喧嘩していたので今ではもう見慣れてしまった。
もぐもぐと口を動かしている様を見つめていると、二藍は長月が来ていることにやっと気付いたらしい。
「あら、
藍色に紅色をのせた色——
「やあ、二藍。今の作品は
二藍は、長月のいつもの挨拶を受けて、考えるように首を傾けた。
「うーん、ちょっと雑味があったかも」
「つまり、あまり美味くないと」
「そうね。
「おいこら。
二藍の批評に
「美味しくないから美味しくないって言ってるの。自分で納得いってない作品なんだから、雑味が出るのよ。何に迷ってるのか知らないけど、もっと素直に書きなさいよ」
ぐっ、と雅楽代の顔が歪む。言い返してやりたいが図星すぎて言い返せないといった顔だ。その顔を見て長月は、にやにやと笑いながら雅楽代に絡んだ。
「言われちまったなー。おい、どうするよ雅楽代?」
「
ぶっきらぼうに返す様は、年齢より幼く見える。そもそもが若く見える容姿だが、言動のせいかそれに輪をかけて幼く見えた。青白い肌に、墨色の髪と同色の瞳をもつ
「……それより!今日の納品は?」
雅楽代は強引に話題を変えた。握りしめていた筆を
「今日は小説数冊に、図録が一冊。あと、作者が分からない仮名の軸が一本」
「軸は作者が分からないのか?落款や印は?」
「ない。喰われたわけじゃなさそうなんだが、全体の三分の一ほどしか無く、もとの持ち主がそれをそのまま軸に仕立てたようなんだ」
ふうん、と気乗りしない返事をするのに、その顔は好奇心がチラチラと見え隠れする。雅楽代は掛け軸を手に取った。
「
先ほど無視したのが嘘のように自然に
「なあに?
「食後の
「あまりに不味い甘味だったら、
「味は保証できない」
「まあ、素直ね」
その応えを
「……ふうん?確かに古そうだけど、違うわね」
「あちゃあ、また偽物か」
黙って様子を窺っていた長月が声を上げると、二藍は長月をキッと睨みつけた。
「何度も言わせないで頂戴。あなた達人間にとっては有名な作家以外興味は無いんでしょうけど、そんなもの私にとってはどうでもいいの。良い悪い、好みか好まざるかというだけの物よ。模倣だろうが、贋作だろうが、技量と想いがあれば美味しいんだから。偽物とか言われると食事が不味くなるわ」
「すいません……」
三十になる大の男が小さな少女に説教されてしゅんとなる様は、なかなかシュールだ。
「誰が書いた物か、どんな味かみてくれないか?」
怒られた長月を尻目に、雅楽代が尋ねた。
「食べて良いのね?」
確認を取る二藍に雅楽代は頷いた。
「ああ、勿論」
表装された作品の端に二藍の白い手がのびる。爪の先ほどの大きさに小さく千切った破片を咥えると、そっと舌の上で転がす。じっくり味わうように目を閉じた二藍は、やがて優雅に瞬いた。長くて真っ白な睫毛が羽ばたくように動く。ゆっくりと嚥下するとようやく口を開いた。
「……青い、とても青い味ね。想いはあるのに力が伴ってないのかしら。爽やかと言えば聞こえは良いけど、甘さが全くと言っていいほどないわね。誰かは分からない。今まで食べたことのない人だわ」
「そうか、残念だ」
「悪くはないけど、私の好みじゃないわね」
「じゃあこれは骨董屋のところに持って行ってもらうか」
くるくると軸を巻き直しながら雅楽代が言う。長月は二藍に怒られてしゅんとしたままだったが、二藍の見立てを聞いて改めて残念そうに肩を落とした。
「今回こそ、いけると思ったんだけどなぁ」
「二藍は好みじゃないと言ってるが、確かあそこのは好き嫌い無く喰うだろう?」
「まあな。ただ、何でも喰ってくれると、張り合いがないじゃないか」
そんなものかと雅楽代は首を傾げるが深くは追求しなかった。長月の負けず嫌いは学生時代から変わらない。ぽりぽりと首の後ろを掻きながら、棚に積まれた
「こんなので良いのか毎度疑問だが、今回の代金だ。枚数は三、四枚ぐらいで良いか?」
色紙には短い漢詩と素朴な水墨画が描かれている。人物画は無く、花鳥画ばかりだが素朴で柔らかい
「本命を突き返されたんだ。これだけ貰えば充分だ」
長月はそう言って受け取った豆色紙を大事そうに懐紙に包み鞄へ仕舞う。
長月の基準がいまいち理解できない雅楽代は、そんなもんかねと思いながら余りの豆色紙を再び棚に仕舞った。二人のやり取りを二藍は部屋の隅に置かれた小ぶりの
「
頬杖をついて雅楽代に
「二藍ー、シェイクスピアの詩歌集と
少し離れた所から雅楽代の声が響く。どちらも捨て難そうな、でもどちらでも無いような顔がチラリと覗くがそれをきれいに隠して二藍は、声のする方に泳いで行った。それを長月が静かに見送る。
いつもと変わらない平凡で、ほんの少し不思議な光景。
これが
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