第20話
——燦然と降り注ぐ日差しを受けた校庭には陽炎が揺らめき、締め切られている筈の窓からは蝉の鳴く声が漏れている。
幸い部室は空調完備だ。僕はエアコンを開発した見知らぬ誰かに心の隅で感謝して、冷たい缶コーヒーを啜りながらおば研の日課をこなしていた。
「ちょっと……こいつを何とかしなさいよ」
PCの液晶越しから、鈴を転がしたような可愛らしい声が聞こえてくる。
その主は人形のように小さく端正な顔立ちで、栗色のやわらかい長髪を下げている。
見た目とは裏腹に、曰く付きのオカルトアイテムを躊躇なく破壊したり、幽霊をバットで退治しようとする破天荒な人だ。
そんなおばけ研究部の部長である先輩は、部室の壁際に置かれた大きなソファーに横になっていた。
ソファーの横には、何故か部員でもない春咲さんがピタリと張り付いている。
「せんぱ〜い、いいじゃないですか別に!」
だ、誰だ。
「かわい〜!」と猫撫で声で先輩に擦り寄る彼女に、先日"座敷牢"の一件で救出した時の面影は無い。
殆ど会話もした事がないが、長い黒髮に色白という清純な見た目からお淑やかな人だと思っていた。
実際教室でも大人しい方であったし……。
「うるさい……。眠いんだから関わるな、どっかいけ」
邪険に扱う先輩の言葉に、春咲さんは何故か瞳を輝かせ頰を朱に染める。そのまま少しだけ距離を置くと、幸せそうに寝顔を見つめ始めてしまった。
「ど、どうしちゃったの?春咲さんは」
「すまん……」
僕の作業を横から覗いていた隣人が謝る。
「雪菜はその……可愛いものに目がないんだ。それも、"格好良くて、可愛いもの"が特に好きで」
「は、はぁ」
余程先輩さんの事が気に入ったんだろう……と、ため息混じりに教えてくれる。
成る程、だから先輩に直接お礼をするのを躊躇っていたのか。
隣人がお礼をするとなると、春咲さんも付いてくると踏んでいたのだ。
「ま、まぁ元気そうだしいいんじゃない?」
「そうなんだけどな……」
えへへ〜と、蕩けた表情を浮かべる春咲さんを見て隣人は重ねて溜め息を吐く。
「雪菜、そろそろ帰るぞ」
「はぁ?なんで」
隣人が水を向けると、彼女は先程の様子とは打って変わってドスの効かせた声を放った。怖い。
「ひーくん一人で帰りなよ」
「ここはおばけ研究部の部室なんだ。俺たちが居たら迷惑だろ」
別に迷惑って程でもないけど、先輩はあからさまに嫌そうにしているな。
彼らに来てもらったのは、先日の出来事を活動日誌に纏めるためだった。
おばけ研究部では怖い話や心霊スポット情報などを随時蒐集している。
そうして実際に火の立つ所へ赴き、そこで見たもの聞いたものは極力正確に記録していく。
被害者である春咲さんには協力を控えようと思っていたが、「今後私のような被害者が減るなら……」と申し出てくれたのだった。
「とにかく、助かったよ。僕以外の意見も欲しかったから」
「少しでも借りが返せたのなら良かった」
隣人には霊感と言われるものが殆ど無いが、そういう人の意見も貴重だ。
結構な厚さになった活動日誌を本棚へ戻す。
「春咲さんもありがとね」
「いえいえ。高峰くんにも沢山迷惑かけたし、むしろこれくらいしか出来なくてごめんなさい」
先輩を見つめていた彼女に声を掛けると、普段の声音で返された。
ギャップが凄すぎる。
「せんぱいも、本当にありがとうございました!」
「ぐ、苦しい……」
毛布に力一杯抱き着いた春咲さんの腕の中から、先輩の呻き声が聞こえて来た。
通常時の先輩なら突き飛ばしそうな気もするが、何故かこの時間帯だけはいつも調子悪そうなんだよなぁ……。
「そういう事だから、俺たちはお暇する」
「また来ますね〜!せんぱい!」
隣人は春咲さんの襟首を掴んで、部室を強制退出させてしまった。
扉がバタンと閉じると、部室には嵐が過ぎ去ったかのような静けさが戻る。
「賑やかでしたね」
「やかましかった……」
僕がソファーの対面に机を挟んで腰を下ろすと、先輩はモゾモゾと毛布から頭を出して欠伸をした。
「ところでまだわからない事があるんですけど、あの座敷牢にいた幽霊は何で……その、顔が無かったんでしょう」
二人きりになった所で、話にくかった話題を切り出す。
ずっと疑問だった。最近になっておばけが見えるようになった僕だが、あれだけ酷い見た目をしていたのは初めてだった。
「あぁ……、あれは自分で皮膚を抉り抜いたんでしょうね。たぶん死因も出血によるものだと思う」
先輩は伸びをして起き上がると、机の上に置いてあった苺ミルクのプルタブを開ける。
「どうしてそんなこと……」
やっぱり自殺なんだろうか。
僕は取り憑かれそうになった瞬間、あの幽霊の片鱗を見た。
どこまでも沈んでいく心、凍てつくような寒さ。
本当の孤独と言うものが、あれ程恐ろしいものだとは思わなかった。
「そうね……。きっと、確かめたかったんだと思う」
「どう言う事ですか?」
あまりに抽象的すぎて意味がわからない。
先輩は自分の顔を両手で包み、虚ろな瞳を浮かべて頬をさする。
もしもわたしだったら、そんな前置きをして話し始めた。
「——何もない。誰もいない状況の中で、わたしは必死で自分が存在する事を確かめ続けるの。忘れてしまわないように、忘れてしまわないように。只それだけを」
——想像して息を呑んだ。
脳裏に浮かぶ光景があまりにも残酷過ぎて、胸が苦しくなる。
「でも終わりの無い孤独な時間の中で、ついに自分の事すらも分からなくなってしまう。そうして、最期は……」
彼女は頬を包んでいた両手の爪を立て、力なく振り下ろした。
その表情は何を考えているのかもわからない。氷の様だと思った。
もしかしたら先輩も知っているのだろうか。あの子供が感じていた、何か恐ろしいものを。
僕にはまだわからない。
でも、これからこうして先輩と共に過ごす内に知る事になるのだろう。
僕はその時、しっかりと地面の上に立っている事ができるだろうか。
心が壊れてしまわないだろうか。
苺ミルクの缶を傾け、先程までの雰囲気とは一転して幸せそうな顔を見せた先輩に、僕は苦笑いを浮かべた。
※※※※※※
後日、廃屋はついに取り壊しが決まったそうだ。
近くに用事があった時、ふと気になって様子を見に行くと廃屋の前には複数のパトカーが止まっていた。
玄関先は、テレビで見たことのある様な黄色いテープで封鎖されている。
「知らん!!あれは只の物置だッ!!」
家の中から家主と思われる老人の怒号が響く。
僕はその声を聞いて静かに踵を返す。
見上げた空には入道雲が立ち昇っていて、一雨降りそうな気配がした。
————これで、あの魂も少しは報われるだろうか。
偽善的な考えだという事は分かっている。けれど、そう思わずには居られなかった。
——人の業はどこまでも深い。
この世には、平和に過ごす僕らが知る由も無い闇が広く存在する。
僕は、それら全てに目を背けずに居られるだろうか。
知った所でどうにも出来ない。
けれど、"知る"という事そのものに意味があるような気がする。
そう信じて、僕は今日も部室の扉を開く。
——非日常へと繋がる、その扉を。
第4章 閑話 後日談
ストレンジファントム 幽霊部員 @reikamenu
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