第19話

 

「二人とも!!早く逃げてッ!!」



 隣人と春咲さんに向けて、僕は全身全霊を掛けて叫んだ。

 隣人は何かを察し、春咲さんを肩に抱いたまま素早く此方へ移動する。


「誘拐犯か!?」

「違うッ!!」


 誘拐犯だって?そんなもの、目の前の存在に比べれば恐ろしくも何とも無い!!


 頭が割れそうなほどの耳鳴りに耐えながら、僕はそいつを見据える。


 子供だ。しかし只の子供では無い。

 足は床に接地しておらず、僅かに宙を浮く。

 全身の輪郭はボヤけ、不気味に明滅を繰り返している。


 その顔は中心から完全に抉られていて、表情など存在しない。

 今まで感じた事のない程の強大な悪意、憎悪がひしひしと伝わり、脳内に警笛が鳴り響く。


 僕は竦む足を何とか奮い立たせ、乾いた喉から声を絞り出した。


「春咲さんを連れて早く逃げるんだッ!!」

「何を言っている、誰もいないじゃないか!!」


 当然、隣人には見えていないようだ。

 腕に抱かれた春咲さんは意識を取り戻したようで、僕の方を振り返ると瞳孔を開いて尋常じゃない怯え方をした。


「——ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいッ!!」

「おいッ!しっかりしろ!!」


 その場に蹲ってしまった彼女に、隣人は何が起こったのか把握できず狼狽してしまう。


 ——くそっ!こうなったら仕方ない!!


 僕は右手に握っていた鉄バットの感触を確かめると、両手に構えて臨戦態勢を取る。



 ト  ト トト ト  ト ト   ト



 耳の奥にこびり付くような、舌を巻く嫌な音が僕の恐怖心を大きく揺する。


「——う、うぁぁあああッ!!」


 目を背けたくなる姿の幽霊に向かって、恐怖を誤魔化すように絶叫した。


 重い足を動かし、駆ける。

 ヤケでも何でもいい。

 一発で仕留めてやる、それだけを考えて。



 ——ダンッ!!



 振り下ろしたバットが畳を打ち付ける鈍い音。



 確かな感触がして顔を上げると、目前には赤黒く抉り抜かれた小さな顔があった。



 口が存在したであろう場所からは小さな舌が伸びていて、失われた上顎の位置を不規則なリズムで打ち付けている。




 ト ト ト   ト ト  ト ト   ト




「あ、あ、」



 頭が真っ白になった。

 もはや目を閉じる事すら叶わない。


 その凄惨な光景は、僕の戦意を完全に刈り取った。


 腰が抜け、尻餅をつく。

 身体を支える腕が面白い程震えている。


「は、あはは、ははは、はは」


 頰に涙が伝う感覚がした。

 怖いのか、悲しいのか、様々な感情が身の内で爆発する。


 悍ましい姿の子供の霊は、僕の顔へとゆっくりと手を伸ばしてきた。


 ——あぁ、ダメだ。



 諦観した僕は、なす術なく流れに身を任せた。



 ————————

 ——————

 ————




 ————ドプン



 泥水で耳が塞がれるような、そんな音がした。

 重力の感覚が鈍り、体温が徐々に失われていく。


 ——寒い


 抱えた膝に頭を埋める。

 音も色も消え失せた、底なしの沼に堕ちて行く。


 ——寂しい


 最期に残った感情は、それだけだった。

 何処までも暗く、冷たい宇宙に一人放り投げ出されたような。



 ————これが、"孤独"という事なんだ。



 もう永遠にこのまま、何処にも辿り着かずに漂うだけ。


 心の扉が軋む音を立てて、ゆっくりと閉じていく。


 閉まり切る寸前、その隙間から一縷の光が差した気がした。





『ふーん。そんな奴に、大切な身体を奪われてもいいの?』





 そのどこか懐かしい声に、急速に意識が覚醒する。


 大切な身体が奪われる?

 そんなのは、嫌だ。


 全身に血が駆け巡り、体が熱を取り戻す。



 ——僕の身体は僕のモノだ。

 お前なんかには、渡さない。



 心の底から強い意思を示すと、何かが体から抜けていく感じがした。


 次第に取り戻す五感。


 そうして僕は、この場に居るはずの無い人の名前を呟く。



 ————————

 ——————

 ————



「先……輩……?」


「なに?」



 背後から聞こえた返事はとても温かく、それは間違いなくいつも僕を助けてくれる頼もしい声だった。


「先輩……なんで」


 振り返ると、彼女は仁王立ちして僕の背後を睨んでいた。


「だから関わるなっていったのに」


 再び視線を戻すと、目の前で立ち竦むように停止している子供の霊。

 思わず悲鳴を上げそうになるのをなんとか堪えた。


「私宅監置されていた子供の魂、ね。流石に凄まじい怨念だわ」


 ふっ、と息を吐いた先輩に思わず泣き出しそうになる。


「そいつにバットなんて効かない。暴力よりもずっと恐ろしいモノを知っているから」


 いつもの調子で不敵に笑った彼女に、目を白黒とさせていた隣人が尋ねる。


「お、お前は……?」

「お前?先輩に向かって随分失礼ね」


 自分より年上と聞いて更に困惑した様子の隣人に、先輩は腕を組んで不機嫌そうに口を尖らせる。


「そんな事してる場合じゃないですって!!お願いしますから、何とかして下さい!!」


 情けなく助けを乞う僕に向けて、呆れたといった表情をすると背中に隠し持っていた何かを掲げあげた。


 ——それは、風呂場で見た赤ん坊の人形だった。


 何故先輩はそんなモノを??

 考える間も無く、彼女は叫んだ


「ほら、あんたの大切なモノなんでしょ!!」


 その声に、子供の霊は初めて反応を見せた。

 次の瞬間には、凄い速さで先輩に迫る。


「危ないっ!!」


 咄嗟に危険を知らせたが、僕の声よりも早く先輩は動く。


 迫る幽霊の脇を潜り抜けて、鉄格子の入り口へと駆ける。その姿はさながら猫のように身軽だった。


「どぅぉりゃぁあああ!!!」


 大凡女子高生から聴こえてはならない逞しい雄叫びと共に、先輩は牢獄の中へと人形をぶん投げる。

 壁に激突した人形の四肢は勢いよく吹き飛び、完全にバラバラになってしまった。


 隣人も僕も、恐怖に呑まれていた筈の春咲さんですら呆気にとられていると、嫌な気配が物凄いスピードで僕の側を通り過ぎたのがわかった。


「先輩!!」

「わかってる!」


 身を翻して鉄格子から距離を取った先輩は、その中に子供の幽霊が飛び込んだのを確認して扉を閉める。

 僕がバットで破壊したと思われる鍵を拾い上げると、力任せに施錠してしまった。


「一先ず、これであの子は出てこれない」

「そ、そうなんですか?」


 幽霊は壁とかすり抜けるんじゃないだろうか。

 人は通り抜けられないにしても、隙間のある鉄格子なら尚更では。

 そんな不安が顔に出ていたのか、先輩は仕方ないといった様子で説明を始める。


「魂には、生前の記憶がある程度保存されているの。この子は自分で鉄格子を破れない事を誰よりもよく知っていた。それは死後も、剥き出しの魂であっても、この子を縛る結界になる」


 さなか、牢屋の中から脳を直接揺さぶるような呻き声が流れて来る。


「も、もしこの扉が開いたら私はまた……!!」


 春咲さんは頭を抱えて震えている。

 僕も他人事ではない。


「ど、どうすればいいんですか?」

「そうね……」


 先輩は鉄格子の中にいる子供の霊を見据え、少しの間考え込む。


 やがて溜息を吐いて、下げていたペンダントを胸元から取り出した。


「気の毒だけど、消滅させるわ」

「そんなことができるんですか?」

「できると思う。——けど、」


 気は進まない。と呟いて、彼女はそのまま俯くとなにやら集中し始めた。


「聴覚を持たない幽霊に言葉を届けるには、どうすればいいと思う?」

「え?」


 ペンダントを握りしめたまま、先輩が尋ねてくる。


 どういうことだ。

 確かに、肉体を持たない幽霊と会話するなんて普通に考えたら不可能だ。


「——"言霊"を使うの」


 集中を続ける彼女の口元から、青白い煙が立ち昇るのを見た。

 それは宝石を砕いたかのように、キラキラと幻想的な煌めきを放っている。


「魂は意思の根源。己を強く信じて——その欠片を吐き出す」


 額に汗を浮かべ、歯をくいしばっている。

 未だ現状を理解できない隣人を除いて、僕と春咲さんはそんな先輩の姿をただじっと眺めていた。


 子供の霊が放つ瘴気はますます激しくなり、鉄の扉がガチャガチャと音を立てている。


 ——マズい、このままでは扉が……!


 そう思った次の瞬間。


 身体のずっと奥深く、魂にまで響き渡るような声が聴こえた。






『この扉はもう、永遠に開かれない』






 ————ァ"ァ"ァ"アアア"アアアアア"ッ!!!




 鼓膜が破れるのではと思う程の叫び声。

 違う、声では無い。振動だ。


 地鳴りがして、家全体が大きく揺れる。


「なんだ?!地震か?!」


 隣人が慌てふためき、蹲っていた春咲さんを庇うように覆い被さる。


 そんな中、力尽きた先輩と僕は牢屋の中に出来た空間の歪みを眺めていた。


 絶叫する子供の幽霊は、渦を巻くようにして闇に溶けていく。



「……あの先にはどんな世界が広がっているんでしょうね」

「心配になるような事、言わないでください」



 ——揺れは数秒間続いた。


 やがて恐ろしい気配が完全に消滅すると同時に、鈍い音を立ててゆっくりと鉄の扉は開く。

 その奥には、バラバラになった人形が落ちている古い座敷部屋があるだけだった。



 ※※※※※※



 疲弊し切った僕らは、それぞれ重い身体を引きずって廃屋を出た。


 今にも屋敷内へ入り込もうとしていた西村さんは、春咲さんを見つけると真っ直ぐに駆け寄り抱き着く。


「よかった……よかったよぉ……」

「加奈……心配かけてごめんね」


 春咲さんは子供をあやすように西村さんの頭を優しく撫でる。酷い爪痕の残るその顔は、それでも優しい笑顔に満ちていた。


 そんな光景を暖かく見守る隣人と、不機嫌そうに俯いている先輩。


「どうしたんですか?」


 気になって声を掛けると、僕に睨みを利かせて吐きつけるように言う。


「わたしが来なかったら、死んでたかもしれないじゃない」

「そ、そうですよね……。本当にすみませんでした」


 深々と腰を折って謝罪する。

 先輩の言う通り、あと少しでも彼女の到着が遅れていたらどうなっていたのかわからない。

 下手したら完全に身体を乗っ取られて、最悪は————


 想像して身震いをした。

 もうこんな無茶は辞めよう。


「この家はね、もう随分前から区が取り壊すことを打診しているの」


 先輩は背後を振り返って、静かに話し始める。


「でも、家主が断固反対を続けている。そりゃそうよね、あんなの見つかったら大問題だし」

「あの座敷牢の事ですか」


 そう、と先輩は頷く。


「時効にでもするつもりかしら」

「そんな……」


 その言葉に僕は絶句した。

 気がつけば、他の面子も先輩の話に息を呑んで耳を傾けている。


「あの、子供の幽霊は……どうなったんですか?」


 春咲さんがおずおずと先輩に尋ねると、苦い物を噛んだように顔を顰める。


「私の言葉通り、魂が消滅するまで座敷牢に閉じ込められた。それだけの話よ」


 その答えに春咲さんは首を傾げる。

 僕だって今の言葉だけでは何も理解できない。


「死後の世界のイメージを少しでも持っていないと、その魂は迷子になる。本来還るべき場所、それも現代の私達が忘れてしまった大切な事の一つかもね」


 先輩はいつか僕に見せた遠い冬の夜空を思わせる様な瞳を浮かべ、溜息を溢した。


「恨むなら、そんな環境を生み出したこの世界を恨む事ね」


 それだけ言うと、先輩は僕らに背を向け一人歩き出してしまった。


「ほんと、噂通り変わった人だね……」


 西村さんは、先輩の背中を見ながらそっと呟く。


「でも、すごく強い人だよ」


 同じ様に先輩を見送っていた春咲さんは、その後ろ姿を真剣な眼差しでいつまでも、いつまでも眺めていた。



 ※※※※※※



 ——後日。


 無事に春咲さんは登校して来た。

 ガーゼで覆われた頬は痛々しく見えたが、いつもの調子は取り戻せたようだ。


「透、今回は本当に助かった」


 席に着いた隣人が、僕に改めてお礼を言ってくる。


「お礼なら先輩に言ってよ」


 確かに僕も協力したが、実際に問題を解決したのは僕じゃなくて先輩だ。


「あー、あの小さな先輩さんか」


 隣人は頭を掻くと、何かを隠すように目を逸らした。

 なんだろう、隣人は先輩の事が苦手なのだろうか?


 そこへ西村さんと春咲さんがやって来る。


「いやー、悲鳴が聞こえたから怖いの我慢してゆっきーを助けに行く寸前だったんだよ」


 西村さんは照れたような、困ったような笑みを浮かべつつ当時を振り返る。


「でも、あの先輩ちゃんが唐突にやってきて"私に任せなさい"って聞かなかったんだ〜」


 口を尖らせて、「ゆっきーを格好良く助けるのは私の立場なのに〜」と茶化すように言った。


 そんな彼女に対して、僕らは苦笑いをする。

 ささやかな日常を取り戻した事を、強く実感した。


「まぁ、なんだ。とりあえず先輩さんにはお礼を言っておいてくれ」


 隣人がそう言うとタイミング良く始業を告げるチャイムが鳴り、僕は(直接伝えればいいのに……)と思いながら何事も無く放課後まで過ごした。




 校舎3階の一番端。おばけ研究部の扉を開くと、いつも通り私物のソファーで寝息を立てる先輩がいた。


 僕は苺ミルクの缶を、これまたいつも通り彼女の側に置く。

 その片手には、言霊を放った際に用いられたペンダントが握られていた。


「……またいつもの謎アイテムかな」


 僕が独り言のように零すと、先輩は眉を顰めて寝返りを打った。

 その拍子に、握られていたペンダントが地面に落下する。


「これは……ロケットタイプ?」


 落ちた衝撃で、ペンダントだと思っていたそれは二つに別れた。

 片方には日付、もう片方には小さい頃の先輩と思わしき写真が嵌められている。


「ん?」


 妙だ。

 写真は先輩が一人で写っているものだった。

 しかし先輩の右手はそこに居るはずの無い誰かと手を繋いでいるかのように、不自然な形で宙に掲げられていた。


「気のせいか」


 最近いろいろあったせいで考え過ぎる癖がついてしまっている。


 未だに理解しきれない先輩の事だ、幼き日の彼女が一人で映るこの写真にも何かしらの意図があるのだろう。


 靄を払うかのように首を振り、それを閉じて先輩の右手にかけ戻す。


 そうして僕はいつものようにPCデスクに座る。

 モニターに映されたブラウザの検索画面をボーっと眺めて、静かに閉じた瞼の裏には先日の出来事が鮮明に浮かんだ。




 誰も居ない真っ暗な部屋で、死ぬまで一人孤独に過ごす。


 そんな残酷な一生を過ごした、報われない小さな魂の最期を。




 第4章 座敷牢 完結

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