第三幕:天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》
「お前、そうとう機嫌悪いな、今日は」
こちらの顔も見ず、厨房の奥にいるイルス・フォルデスが声をかけてきた。
「なぜわかるんだ、そんなこと。君も感応力を使うようになったのか」
淡々と答える、私の声は不機嫌そうだった。
それを聞いて、フォルデスが笑う、低い声がした。
「そんなもん使わなくても、足音でわかるんだよ、お前の機嫌は」
「それはそれは、耳のいいことだな」
確かに機嫌は悪そうだった。答えながら、私はすでに反省し始めていた。
ため息をつき、呼吸を整えてから見渡すと、いつもの厨房に、料理の皿がいくつか、すでに出来上がっていた。
それを眺めて、私は空腹を覚えた。何とはなしに、いつもに増して食欲をそそる。たたぶん私の好物ばかりが、そこに出そろっていたからだろう。
「なにを作っているんだ」
いつもより、多めと思える品数に加えて、まだ何かフォルデスが仕上げていたので、不思議に思ってそばへ行くと、それは銀色の大皿に盛られた、輪の形をした何かだった。
「小麦粉と卵を蒸して作ったプディングだよ。
「祝い事? なんの?」
なにかの祝日だったか、今日は。祝日だったら先日、天使ブラン・アムリネスの記念日が、学内でも盛大に祝われたはずだ。おそらく私に気を遣って、盛大にやったのだろうが、こちらは気が滅入るばかりだった。
それを知ってか知らずか、食卓を囲む
「特に、なんのって訳じゃねえけど。お前、誕生日がないんだろ。シェルがそう言われたって話してたよ」
祝いの菓子だという割に、極めて素っ気ない輪っか状の薄黄色くつるんとした菓子に、フォルデスは鍋でこがした糖蜜のソースをかけていた。
「お前にだけ誕生日がないのに、他のを祝うわけにはいかないだろ。だけど、それだとつまんねえから、天使ブラン・アムリネスの祝祭日を、お前の誕生日ってことにしたらどうかって、シェルは思いついたらしいんだけど、スィグルが反対したんだよ。それはお前には、あんまり歓迎されないだろうってな」
銀のカップに入っていた、小さな銀色の粒を、フォルデスは褐色の指先でつまみとり、
「俺もそう思うよ。それで流れて、でも、何もなしじゃあな、ってことで、何でもない日に四人分まとめて誕生祝いをやることになったのさ」
「聞いてない、そんな話」
私が静かに抗議すると、フォルデスは苦笑した。
「そんなこと話して、お前が素直に、じゃあ、やろうやろうって言うかよ」
言わないだろうか。
言うわけがないな。
そんなことに何か意味があるのか。
正直言って、そう思っている。
「葡萄酒の味見をしろよ」
広口の
今夜の厨房ではもう、それぐらいしかやるべき仕事が残っていないらしかった。
私は大人しく、用意されていた
舌に乗せると、その飲み物は、学院の古い酒蔵で熟成を重ねた、
ここへ来る前、私がまだ神殿の城壁の中にいたころ、食事というのは、生命を維持するためのものだった。空腹というものすら、意識したことはなかった。欲求を満たすため、なにかを貪るということが、否定された世界だったのだ。
しかしここでは違う。
「これで完成。でも
淡い笑みでそう言い含め、フォルデスは料理を運ばせた。
食堂のほうには、食うだけでいい、気楽なふたりが待っていた。いつの間に来たのだろう。
シェル・マイオスはどことなく、そわそわしていた。
スィグル・レイラスはどことなく、にやにやしていた。
「僕の大事なクッションは届いたかい、猊下」
「届いたよ、レイラス。全部、窓から投げ捨てておいた」
席に着きながら私が答えると、レイラスがからかうような小さい口笛を吹いた。
「嘘です。ライラル殿下は嘘をついています」
そわそわしたまま、マイオスはこちらを見もせず、きっぱりとそう言った。
「シェル。お前、のぞきはやめるって約束したんじゃなかったのかよ?」
呆れたふうにフォルデスが言い、それぞれの酒杯に葡萄酒を注いでやっていた。
「のぞいてません。今のはただの直感です。それより早く食べましょう」
よほど空腹なのか、マイオスは落ち着かなかった。
そのせいで慌ただしく食う羽目になり、マイオスは、落ち着けよと罵るレイラスに、何度も食卓の下で足を蹴られていたようだ。
「そろそろデザートに進みませんか。もういいでしょう」
必死の形相で、マイオスはそう頼んだ。誰にともなく。
なぜ君はそんなにデザートを食いたいんだ、マイオス。
「落ち着かないな。食った気がしないよ」
マイオスにぶうぶう文句を言うスィグル・レイラスの声が、葡萄酒のほろ酔いの向こう側から聞こえていた。
「だってもう、花が咲きそうなんですよ! さっきから、何とか必死で止めてるんですから……」
そう言うマイオスは、確かに何となく、思い詰めたような目をしていて、必死のような形相だった。
「花……?」
不思議に思って、私が訊ねると、マイオスはひっそりと頷いたが、それだけだった。
「そういうことなら、
フォルデスが席を立ち、そう宣言した。
私以外の全員が、それではと、席を立つ。
彼らは私の部屋で、このささやかな祝宴の続きをやろうというのだった。
なぜそういうことになるのか、皆目見当がつかない。なぜなんだと、やや呆然とする私を連れて、我が盟友たちは、無理矢理に私の部屋を訪れた。飲み残した葡萄酒と、皿と、そして
「ああもう本当に、間に合って良かった!」
私の学寮の居間にある、沢山の植木鉢の花が、まだ蕾のままでいるのを見て、シェル・マイオスが快哉を叫んでいた。
そんなものには目もくれず、スィグル・レイラスはずかずかと上がり込み、謎の送り主から送りつけられてきた、四十六個のクッションの中から、二つ三つを選びだして、暖炉の前のいちばん居心地のいい辺りの床に、それを敷き詰め寝そべった。
「猊下の部屋って、ほんとに広くて居心地がいいよね。地味すぎるのが難だけど。僕、ここに引っ越そうかな」
すでにもう引っ越したかのようなくつろぎぶりで、レイラスは靴まで脱いでいた。
「引っ越すんなら喜んで手伝うぜ」
長椅子のそばにひとつだけある、客用の小さなテーブルの上に、
「無理だ、それは無理だ。物置になっているほうの居間にある物はどうするつもりだ」
青ざめて、私が抗議すると、フォルデスは笑い、その笑いに震える手で、円環だったプディングに、四等分のナイフを無造作に入れていた。
「どれを食うか自分で選べ」
すでに、ごろごろ寝そべる構えのレイラスとマイオスに、フォルデスは四枚あるプディングの皿を示した。皆それぞれ好き勝手に選び、フォルデスは私にも、自分より先に皿をとらせた。
プディングの中に、未来を占う、小さなお守りが入っているらしい。
食べ物の中に、食べられないものが入っているという話に、私は愕然としたが、それは彼の生まれ育った海辺の町や村では、ごく普通の習わしらしい。誕生日に
「何を当てようが恨みっこなしだぜ」
遠い砂漠の薫香が匂う、大振りなクッションにごろりとくつろぎ、フォルデスはそのままプディングを食らうつもりのようだった。
「私の部屋で寝そべってものを食うな」
驚いて私が咎めると、スプーンを銜えたフォルデスは、わざと難しい顔を作ってみせた。
「俺の故郷の王宮じゃあ、寝そべってものを食うんだぜ。それが正式な作法なんだ」
「なんて野蛮な連中だ」
嬉しげに批判するレイラスも、すでに寝そべってプディングを食っていた。
「このクッション、いい匂いがしますね。でも、寝そべって食べるのって、案外難しいな」
嬉しげに寝ころんでいるマイオスの皿から、今にも糖蜜のソースがこぼれ落ちそうだった。
「お前も来いよ、シュレー。なんで突っ立ってるんだよ。
珍しくも強引に、そう誘うフォルデスに負けて、私もどうにも所在なく、床に置かれた砂漠風のクッションの上に、座らされる羽目になった。
床に座るなんて野蛮じゃないか。寝そべってものを食うなんて。それにこの、祝いの席の菓子というには、素朴に過ぎるプディングはなんだ。中に一体、何が入っているというのだ。
こわごわスプーンで、震えるプディングを突っついている私の横で、いかにも楽しげに
血相を変えて、噛みしめたものの正体を、手のひらに取り出して眺めたマイオスは、ぎゃっと短く悲鳴を上げた。
「なんですか、これ。木じゃないですか!」
「そうだよ。ほんとは銀とか
フォルデスはさも当たり前のように、そう教えてやっていた。
「お前の、それ、本だよな。本を引き当てた奴は、将来学者になるとか、知識を極めるとか言うんだぜ。それを噛み割るなんて、お前は相当、
「きっと将来、ものすごい馬鹿になるんじゃない、シェルは」
けらけら笑って、レイラスは気味が良さそうだった。
「ほっといてください! 殿下のには何が入ってるんですか」
ぷんぷん怒って、マイオスはレイラスの皿を引っ張り寄せようとした。
「うわっ、やめろよ。こぼれるだろ! 僕のクッションにシミをつけるな」
「僕のクッションてお前、シュレーにやったんじゃなかったのか?」
皿を巡って争っているふたりに、フォルデスが驚いたふうな声を上げるのを、私は呆然と眺めた。
「くれてやったわけじゃないよ。ここに置かせてやってるだけじゃないか。置き場がないなら捨てろとか、送り返せなんて君がぐちゃぐちゃ煩く言うから、置き場所を見つけておいたのさ」
レイラスはまるで、このクッションを半永久的に私の部屋に置いておけるかのような口振りだった。
「ねえ、なんなのさ、この、丸い板みたいなの?」
自分のプディングの中から出てきた木ぎれを、レイラスはスプーンの先に乗せて、フォルデスに示した。
「それは金貨だ。それを引き当てた奴は、将来、金持ちになれる」
「僕は今だって金持ちなんだよ。君たちは知らないだろうけど」
ふんぞりかえるレイラスから、マイオスが金貨の形をしたお守りを、見せてもらって眺めていた。
「お前は探さないのか」
手をつけていないプディングを見とがめられ、私はフォルデスに訊ねられた。
未来の幸運だなんて。自分の未来に幸運があるかどうか、それすら分からない身の上なのに。
「ただの遊びだよ。そう真剣に考えることはないんだ。お前はちょっと、頭が固すぎなんじゃないか?」
プディングの中から、スプーンで何かを掘りだしながら、悟った風にフォルデスは言った。
「俺のも出てきた」
銀のスプーンに乗せられた、小さな木の帆船を、フォルデスは私に見せた。逆巻くプディングの波頭を、蹴立てて走る極小の快速船だった。
「これが作るの一番大変だったのに、自分で引いちまったよ」
見せろとうるさいマイオスに、小さな船を廻してやりつつ、フォルデスはぼやいた。
「船を引いた人はどうなるんです?」
「遠くへ旅する運があるとか」
葡萄酒の杯を上げながら、フォルデスはマイオスに教えてやった。
「それって幸運と言えるのかい、イルス。遠くへの旅ならもう、してるだろ、このトルレッキオへ」
皮肉めかしてレイラスが言うのに、フォルデスは苦笑していた。
「そりゃあ、まあ、そうだけどな」
薄暗い部屋の灯火に透ける葡萄酒の色は、まるで、微かに光るようだった。
「悪いことばかりじゃないさ。お前らにも会えたし。何が幸運かなんて、その時になってみなきゃ、わからない」
含蓄のあるふうな、フォルデスの言葉に、しきりに頷く感激屋のマイオスを、底意地の悪い笑みで、レイラスが見つめた。
「そうそう、だからシェル、お前にも、馬鹿のお守りが当たってよかったと思える日が来るよ」
「馬鹿のお守りじゃないです! 知識のお守りですから!!」
噛み割った、木の本をレイラスに示して、マイオスは期待通りの怒り方だった。それが可笑しくてたまらないというように、身を揉んで笑うレイラスは幸せそうだった。
確かに何が幸運かなんて、分からない。運命の手によって、切り分けられたプディングの中に、何が入っているかは、同じでも、それを幸運に変えるのは、自分自身の力ではないか。
「猊下のには何が入ってるんだい。ひとりだけ秘密にするのはずるいよ」
卑怯だと、咎める口調でレイラスが言うので、それもそうだと私は思った。
私がプディングを食う間、フォルデスはずっと、にやにやしていた。思えば彼は、それを見る前から、私の食い扶持に何が秘められていたか、知っていたのだ。
「何か出てきた」
スプーンが掘り当てた、小さな木の輪を、私は予言者フォルデスに見せた。
「それは指輪だよ」
淡い笑みのまま、フォルデスは私の無言の問いかけに答えた。
「なんだ。
将来の戴冠を予言する幸運のお守りかと。なにしろこの菓子は、
「指輪を引き当てた奴は、意中の相手と結婚できる」
意中の相手と。
私は慌てて難しい顔を作った。そして葡萄酒を飲んだ。甘いプディングのせいで、口の中が甘くてたまらず、頭の中まで砂糖漬けになりそうだった。
「意中の相手ですって」
マイオスのほうが私よりよほど嬉しげにじたばたしていた。
「お前やっぱり馬鹿だよ。喜びすぎなんだって……」
たじろいだ笑みで、レイラスはマイオスを見ていた。そこまで喜ぶマイオスのことが、私も恥ずかしかった。
まさかこいつ、私に共感してはいまいな。もしもそうなら今すぐ死にたい。
「ちょっと甘くしすぎたな……」
プディングの味のことを、フォルデスが反省していた。
「そろそろ花を咲かせてもいいですか」
にこやかに、マイオスが立ち上がり、満を持したらしい、流れ星のような花の開花を宣言した。
それは魔法以上に、魔法めいた光景だった。
たくさん並んだ鉢のひとつに、マイオスが唇を寄せ、なにごとか囁きかけると、つり下がる滴のようだった蕾が、いっせいに解けた。ゆっくりと咲き始める花の目覚めは、次々に隣の鉢に伝播していき、見る間に部屋中の花が、星形に見える形へと、花開きはじめる。
花心が薄ぼんやりと、淡い緑色の燐光を放っていた。
あたかも流星の降りしきる野に、寝そべっているようだった。
私はそれに、ふと、古い記憶をよみがえらせた。
どこか遠い、遠い荒野で、満天から降りかかるような星を見上げ、願いを叶えてくれるという、幸運の星を、いつまでも飽かず探していた、幼い日のことを。
私はその話を、今まで誰にもしたことがなかった。私のそんな他愛もない記憶に、興味を持つ者が、誰もいなかったからだ。
しかし、この夜、葡萄酒の香気に任せて、皆、他愛もない話をした。
イルス・フォルデスは亡き母親が、生前最後の彼の誕生日に、この
スィグル・レイラスは四十六個もあるクッションの、刺繍で描かれた部族の文様の話を、ひとつひとつ苦にもせず話した。その文様によって華麗に飾り立てられた彼の都についての話を、誇らしげに。
マイオスは彼の姉たちとそぞろ歩く、
波乱含みの生涯にある、幾多の苦みのことを、この夜ばかりは砂糖衣に隠し、私たちは僅かばかりの人生の甘みを、そこに持ち寄った。
星を見上げた時のことを、私は彼らに話しただろうか。震える子山羊を抱いて眠る、寒い寒い夜のことを。葡萄酒の許す、甘い酔いに任せて。
「君たちはもう、帰ったらどうだ。床で寝る気か?」
ランプの灯も絶え果てて、揺れる暖炉の火影だけが照らす、薄闇に包まれた居間の床で、四十六個の極彩色の、刺繍された文様と宝石に埋もれて眠る、盟友たちに私は呼びかけた。
誰もそれには、答えなかった。
眠ったのか。仕方ないなと、私は誰にともなく言い訳をした。
「帰れ、レイラス」
ぐっすりと深い寝息で、床に
帰れ、マイオス。帰れ、フォルデス。
ここは君たちの部屋じゃないだろう。なぜ帰らないんだ。
なぜ皆、私と一緒にいてくれるのだろう。
不思議だな、と思いながら、私は眠りに落ちた。
そして四十六個のクッションのある、幸運な床の上で。
明日の朝、目覚めて、帰れと怒鳴るいつもの時まで、穏やかに繰り返す、友たちの寝息を子守歌にして。
【おわり】
カルテット番外編「帰れの部屋」 椎堂かおる @zero
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