(2)洗脳コード:お姉ちゃん
「……もしもし」
自分の声が震えていることに気づいて、ぼくは短く咳払いをした。
「あんた、どこほっつき歩いてんの」
女性にしては太く、低い声。それは毎日聞く母の声だったけれど、今日ばかりは、その声は威圧感を存分に含んでいた。
「台所使ってシンクの中掃除してなかったでしょ。灰皿は割れてるし、床に包丁は落ちてるし、どうなってんの」
ぼくの失態を並べ立て(灰皿に関してはコウくんが悪いが)、ママは最初からぼくを萎縮させることが目的であるかのように、仰々しく声を荒らげた。
指先が冷え、膝が震える。胸が締め付けられたが、動悸は無い。
「台所はごめん。コウくんが晩御飯作れって言ってたから。包丁と灰皿はコウくんだから」
ぼくはちょっぴり嘘を混ぜた。それは家で作る炒飯に、香りづけの醤油を垂らすのと殆ど同じだったけれど、言葉を吐いている自分の喉がくっと締め上げられるような気がした。
ぼくはママに怒られそうになるたびにこうやって少しばかりの嘘を吐いたけれど、悉くそれらは後になってばれてしまい、大目玉を食らうことになった。
その度にお前のように嘘を吐く子は嫌いだと詰られ、遅れて顔を出すパパに頬を叩かれるのだけれど、ママの語気が強くなると、ぼくはどうしても耐えきれずにその場凌ぎの嘘を吐いてしまうのだ。
ママはぼくとの通話を繋いだまま、怒鳴り散らすようにコウくんを呼んだ。直後に、なんと言っているのかは聞き取れないが、コウくんと思しき男の子の怒鳴り声が聞こえた。
恐らく、うるせえクソババァ、だとか、デカい声を出すな、だとか、そういった返事だったのだろう。
「聞こうにもコウが出てこないんだよ。どっちにしてもあんた、コウが散らかしたって分かってんならどうして片付けないのよ。お母さんが帰ってきてから片付けなきゃいけないって分かるでしょうが」
ほんの少しだけ語気が丸くなる。けれどぼくは知っている。こうなった時のママの問いかけに、間違った答えを返してしまったら、鉛玉のような無数の罵声を浴びせられるのだ。
「……ごめんなさい」
きっとこれが最適解、いつもならば。しかし今日に限ってはそうじゃないことを、ぼくは知っている。
「で、あんたはこんな時間にどこにいんのよ。コウは部屋に篭りきりだしお父さんの機嫌も悪いんだから、早く帰ってきなさい」
いつもなら、ぼくはママの言う通り真っ直ぐ家に帰るのだ。そして脇腹をちくちく刺すようないやみを、ほどほどに、少なくとも真摯に聞いているように見える程度に聞き流す。
パパの機嫌が悪いから、もしかしたら一発くらいぶたれるかもしれない。
今更になって家庭内暴力だのと騒ぎ立てるつもりも無いし、ぼくの家ではそれが自然なのだから、抗うつもりなんて微塵も無かった。
けれど、ぼくの家にぼくの心臓は無い――
ぼくとてママとの会話は穏便に済ませたい。ともすれば、きっと早く帰ると伝えて、スマートフォンの電源を切ってしまうのが最良なのだろう。
そうして心臓が無事見つかれば、これまでにないくらい怒られるだろうけれど、そこはもう命あっての物種ということで、すんなりと受け入れられると思う。
もしも心臓が見つからなかったら……考えるまでもない。ぼくは両親の怒号にも、コウくんという性的脅威にも、漠然とした寂寥感にも脅かされることもない、ぼくの知らない世界に行ってしまうのだ。
「……ごめんなさい」
普段の感覚が正常に作動していれば、きっと息を吐くように紡げた嘘。
「ぼく、今日は帰れないや」
簡単なことなのに、その嘘だけは吐けなかった。
「は?」
ママの声が低くなる。背筋に電流が走ったみたいに、ぼくはその場で直立姿勢になった。
「この雨の中今日は帰れないってどういうことよ。あんたまさか、男の家にでも転がり込んでるんじゃないでしょうね」
「違う!」
「じゃあ何処よ。明日学校でしょうが。いいから早く帰ってきなさい! お父さん怒ってるよ!」
まるで自分がパパの怒りから娘を庇っているような口ぶりだ。
幼い頃はママに詰られるだけで泣いた。中学生になって、高校生になって、ぐっと堪えた涙はパパに頬を叩かれて零れ落ちた。
あなたは気付いていないのでしょう。
いくつになってもぼくは、あなたが低く野太い声で詰るたびに、涙は流さずとも泣いているということに。
パパが手を上げるのは決まって、ママの詰問が終わった後だ。いつだって、ママの都合によってぼくの頬は赤く腫れた。
「何処にいるか言いなさい、迎えに行くから。お母さんを困らせないで」
ねえ、ぼくは気付いているよ。
床に包丁が転がって、灰皿が割れている。どう見ても普通ではない光景を目の当たりにしてなお、あなたは部屋に篭るコウくんを無視して、ぼくだけを攻撃することによって全てを丸く収めようとしている。
「やだ。帰れない、帰れないよ」
「なにぐずついてんのよ! はやく言わないと後で酷いよ!」
いやだ、いやだと泣いている。誰が泣いているのだろう。そんな風に惚けていたのは昨日まで。
ねえママ。コウくんはぼくをお利口さんだと言ってました。きっとコウくんよりかはぶたれていないのだろうけれど、ぼくはあなたの機嫌を損ねないように、自分なりに頑張ってきたつもりです。
お姉ちゃんだから、ぼくは楽しみにとっておいたチョコレートをコウくんにあげました。
コウくんは勉強が少し苦手だから、代わりにぼくが世間様に顔向け出来るように、パパとママに恥をかかせないように――
学年を重ねるごとに、ぼくは自分の理解力がそれほど高くないことを実感させられました。それでもどうにか食らいついて、高校受験の追い込みなど、あなた方に気付かれないように、声を殺して泣いていました。
コウくんがぼくに何をしたのかも、ずっと黙っていました。
やがてコウくんはあなた方の手に負えなくなって、パパがコウくんを咎める時は決死の覚悟であることが、ぼくから見てもありありと伝わってきます。
だからでしょうか。あなた方が、楢原メイという娘に、捌け口としての役割を見出してしまったのは。
いずれにせよ、ぼくは疲れてしまったから、どうにも説明出来ない今の状況の代わりに、シンプルな言葉を吐いて駄々をこねるのです。
「帰りたくない! もうぼく家にいたくない!」
お姉ちゃんは、少しだけ疲れました。
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