二十一時〇〇分
(1)青少女領域
雨が強くて、ぼくの身体を自分勝手に叩いているから、指先はすっかり冷えてしまった。
楢原メイ的には、やはりここらで足を止めて、ブレザーのポケットの中で指を温めたい。しかしそれを許さないのが、タイムリミットだ。
残り三時間と、残り二時間五十九分とでは、あまりに違いすぎる。
それだけの時間をかけて、ぼくは普段何をしている?
ご飯を食べて、のんびりとお風呂に入る。そして化粧水を肌に馴染ませ、乳液を塗ったところで、髪を念入りに乾かすのだ。そして足を伸ばし、自分の身体のうち、特に気に入っているすらっとした足を、太ももの付け根から足首にかけてじわじわ揉みほぐしてゆくうちに、ちょうどそれくらいの時間が経過している。
その程度だ。ぼくが三時間で出来ることと言えば、その程度でしかないのだ。
今まで、一度たりと有効活用出来なかったこの短い時間の中で、ぼくは自分の命を取り返さなければならない。
もともとタイムリミットはその倍以上の時間を設けられていたのに、鳴り響いた家路のチャイムから今に至るまで、ぼくは一体何をしてきたのだ。
自分でも、あまりに間抜けな話だと思うけれど、残り三時間を切った今になって、急に命が惜しくなってきた。
いや、正確には……本当に命が無くなってしまうのではないかと、不安になってきた。
荒唐無稽な出来事を信じたからこそ、こうやって雨に打たれても駆けてきたのではないかと、自分で自分を窘めたい気持ちでいっぱいだ。
これは信じられないような話だけれど、ぼくは、少なくとも夕日が見えるうちは、あの子が示した零時というタイムリミットが、永遠にやってこないような気がしていたのだ。
今日に限らず、うんと記憶を遡ってみる。このような突飛な思考に至ってしまう心当たりはいくらでもあって、その中でも分かりやすいのは、夏休み初日のぼくだ。
毎年毎年、夏休みが終わる一週間前になって机にかじりつくことになるのは分かっているのに、今年も、去年の夏休みも、ぼくは初日の時点で、四十日間の休みが四十日後に終わることなど想像出来なかった。
消化すべきタスクを後回しにしてしまう怠け者、と言ってしまえばそれまで。しかし、はたしてそうなのだろうか。
自慢ではないけれど、ぼくには学校の外で会うような友達なんていなかった。だから、後回しにしてきた提出課題を先にやってしまうことなんて、少しも苦にはならない。
それでも、そうやってやらなければならないことから目を背けることによって、同時に何かが終わる時も意識せずに済むから――
このような人間を、世間ではクズと呼ぶ。
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はい。つまり、ぼくはこのように過度な自己卑下を、自分自身の弱い部分に叩きつけることによって、ある種の精神安定を得ようとしているのだろう。
自己完結した独白ですら、ぼくにかかれば精神安定剤。俯瞰して、視線で射抜いた心臓から滴る痛々しい血を飲み込んでようやっと、ぼくは自分で自分を痛めつけることをやめ、腰を下ろし、一息つくのだ。
心臓に視線を穿たれ、倒れ込んだぼくの背中の上に乗り、ここらでぼくという精神の種明かし。
このような歪な手段でしか自分を癒せないぼくは、どのような欠陥を抱えているからこうなってしまったのか。
虫眼鏡を当てて考えてみよう。
救いようのないマゾヒスト。
自傷によって悦に入る青春病患者。
孤立主義。社会的弱者。
全部違う。もっと奥まで、痛いくらい、ほじくり返してみて。
たとえば心臓の奥の奥。倒れ伏すぼくの身体にだけ存在するそれを、まだ生温かいうちに毟り取り、ぽっかりと空いた穴を虫眼鏡で覗く。
そらみたことか。全然違う。ぼくは当たり前のように痛みを忌避しているし、だからといって虐げられている弱者でもない。
どれだけ羨ましいことか。マイノリティーという強固な鎧が。それを纏うことすら許されず、それでもぼくは自分の弱さを異質であるかの如く挙げ連ね、自身を痛めつけるというちぐはぐな手段をもってそれを表現しているのだ。
つまり、つまりこれは……思考停止。
やりたいことなど分かりきっている。自分の痛みを掬い上げて、わんわん喚き散らしたいだけだ。世迷言を、吐き散らしたいだけだ。
どこにその泥を吐けばいいのか。どこまでを堪えればいいのか。どのように気持ちが昂ぶったときに吐き出せばいいのか。
ぼくはそれを考えることを怠った怠け者だから、その
ほら、また狼少年が警鐘を鳴らしている。
その痛みは、きっと本当のことなのだろうけれど、自分の嘘や欺瞞に慣れ過ぎたぼくは、メーデー、メーデー、と泣き叫ぶその声にすらリアリティを感じられなくなってしまった。
雨だ。雨が降っている。
しとどに濡れた額を擦ると、かあっと熱くなった。
ブレザーがたっぷり水を吸って、両肩が重い。ブラウスと肌の間には嫌な熱気が篭っていて、このまま走り続けていると湯気が立ってきそうだ。
ぼくは何処に向かっているのだろう。自分でも分からない間に、足だけが自分の使命を全うしている。
ぼくの脳が与えた使命自体が、どうしようもないくらい空回っているかもしれないのに、ぼくの身体の末端である足は、何処までも走り続けてぼくを運ぶのだ。
雨が強くなって、雑踏が疎らになっているのか。ぼくが街並みから遠ざかっているのか。きっとその両方だろう。
雨曝しのスマートフォン。握り締めたそれは壊れるかもしれない。
誰とも繋がれないのだから、そうなっても知ったことか。そんな風に胸の中で吐き捨てて、更に強く握る。
ぼくの手のひらによって温められ続けたそれの温度は頼りなかったけれど、唐突にバイブレーションが鳴り出して、
ディスプレイには一文字、今、一番話したくない相手。
母、と表示された画面をタップして、ぼくは――
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