(5)解けた糸の痕
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ええ、はい。楢原メイとしては、ぼくと佐伯さんがどのようにして互いを認識し合ったのかを、誰の目にも分かるように明示しておきたいのです。
そういう人を思い出し、彼女にまつわることを洗いざらい語り終えた直後に、当人に遭遇する。そのように物語的であれば、きっとぼくは今頃心臓の行方にある程度のあたりをつけて、何かしらの決心を固めていることでしょう。
しかしぼくという人間は、真っ赤な表紙のファンタジー世界に飛び込めるわけでもなく、精々が突飛な現実をみっともなく這いずり回ることくらいしか出来ないわけですから。
ええ、つまり、ぼくは彼女との関係性にある程度整った落とし所を見つけた今となっても、少しばかり語り足りないことを抱えているのです。
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佐伯さんは虐められていました。それはもう、誰から見ても分かるくらいはっきりと。
その凄惨たるや、端から見れば学園ドラマにありがちな光景なのでしょうけれど、その空間に身を置いている当事者であるぼくから見ると、異様な光景でした。
想像してみてください。ごく一般的に年を重ね、グロテスクなものを忌避する感性を形成した少女が、首から制服の中に生きたコオロギを滑り込ませられ、彼女からすれば何が起きたのか分からないまま与えられた背中の違和感、その発信源に向けて、丸めた教科書を叩きつけられる感触を。
ぷち。くちゃ。ぐしゅ。ぐちゅ。にちゃ。
その刹那、彼女が頭の中で再生したオノマトペを想像するだけで、ぼくは胸の底からへどろを吐いてしまいそうになります。
鉄面皮と形容するのがちょうどぴったりな佐伯さんでも、その時は金切り声のような悲鳴を上げました。
さぞ怖かったでしょう。気持ち悪かったでしょう。後ろ手に回した両腕が、間抜けにぶんぶんと宙を切り、それを見た複数人の生徒はどっと笑いました。
そこに良心の呵責というものは存在しません。心の底から笑う彼、彼女らの笑顔は、仰天系ホームビデオに映る平凡な家族のそれと、さほど変わりはないように見えました。
佐伯さんの目にはどのように映ったでしょう。まあ、聞くのも野暮な話でしたね。
きっと彼女にも同じように見えていたからこそ、歯痒かったのでしょう。自身の嘆きや悲しみは、この場の良心にすら何も響かせられないのかと。
顔を真っ赤にして涙を両目に湛えている佐伯さんと、目が合いました。ぼくはどんな顔をしていたのでしょう。
とても無感動にその場をやり過ごせるほど大人ではありませんでしたから、何がしか顔に貼り付けていたのでしょうね。
触れれば切れてしまいそうな、鋭い視線を向けられました。ぼくは咄嗟に目を背けてしまいました。これは、ぼくと佐伯さんの、ぼくと佐伯さんにのみ分かるやり取り。
この時は時系列的に言うと、あの放課後のやり取りの後の出来事でしたから、ぼくはクラスのいじめられっ子ではなく、より深く、一人のリアリティを帯びた人間として、佐伯さんを見ていました。
彼女とて、クラスの傍観者という符号的な立ち位置ではなく、もう一歩深くぼくを見ていたのでしょう。少なくともぼくは、そう思います。
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「みっともなかったでしょう?」
その日の放課後、ぼくはトイレを出た直後にすれ違いかけた佐伯さんに、声をかけられました。
ジャージ姿の佐伯さん。それだけを見れば、きっと溌剌とした印象を抱くのでしょう。しかしぼくにはその姿が見ていられなくて、逃げ込むように視線を彼女の足元に落としました。
「分からない」
酷く歯切れの悪い調子だったでしょう。自分でそう思うくらいなのだから、きっと彼女から見てもそうなのです。
ぼくはその時、佐伯さんの目を見ることが出来ませんでした。それでも、彼女の身体、いや、というよりは命そのものから、漠然とした悲しみのようなものが伝わってきました。
「分からない。ふうん」
それは不自然に作り上げた猫撫で声。ぼくはますます彼女の目を見たくなくなりました。けれど、このままそうしていても、ひたすら猫撫で声で肋骨を撫でられるだけだと観念し、鉛のように重くなった頭を上げました。
「私は何か疑問を提示して、それを解消しろと頼んでいるわけじゃないのにね」
佐伯さんの表情からは、苛立ちが滲み出ていました。まごついてしまわないように、出来る限り素早く返した言葉は彼女の気に召さなかったようで、ぼくは自然と踵を揃えて、直立姿勢を取ってしまいます。
「自分が何を見て、どう思ったかも分からないんだね。本当に、分からないんだね。そんなはずないのに」
ぼくはむっとして、喉の奥から言葉を捻り出そうとしました。けれどその言葉を抑え込むのもまた自分で、佐伯さんの言葉がどれだけぼくを見透かしているのかをまざまざと見せつけられている現状に、再び項垂れるのです。
「じろじろ見てるくせに。何か思ったはずなのに、分からないって蓋をしちゃうんだ? 私だってあんたのこと見てるよ。自分の意見を出したくないんだ。分からない、分からないって。へらへら取り繕って、蓮っ葉装って、誰に褒められたいんだろうね、あんたは」
「可哀想だと思った」
そこまで糾弾されて黙っていられるほど子供ではなくて、ぼくはとうとう零してしまいました。
可哀想だった。ええ、どの口が? 一体どの口がそんな無責任な言葉を吐くのですか。
奥歯から喉の奥にかけて、ずきずき痛みます。正しい呼吸の仕方すら忘れてしまいそうで、それでも――佐伯さんは、悲しげに微笑んでいて。
「……そう」
ジャージ姿の佐伯さんは深く頷いて、そして大きな溜息を吐いて、去ってゆきました。
その半月後、彼女は転校しました。
もっと言いたいことがあったのに、だとか、彼女を救いたかったのに、だとか、そういうありふれた悔恨は少しも湧かなくて、自分がどれだけ自分本位なのかを知りました。
だって、だって仕方ないじゃないですか。
あの凄惨ないじめを目の当たりにして、ぼくは、可哀想だとしか思えなかったのですから。
ぼくは彼女の中で大きな存在として在れない自分を知りました。同時に彼女も、自分がぼくにとってその程度の人間なのだと気付いてしまったのでしょう。
そのように、互いを認識し合ってぼくたちは別の道を歩みました。
そしてぼくたちは再び巡り会って、それでどうするということもなくて、それでも、それでも、ぼくたちは――
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ぼくは出鱈目に駆け回る。同じ道を、何度か行き来したような気がする。
それすらどうでもよくて、今は心臓を、がむしゃらに探したかった。スマートフォンが砕けるんじゃないかってくらい、強く、強く握り締める。
佐伯さんからの連絡はない。それでもいい。それでいい。
ぼくたちは互いに、冴えた解決策を提示することなど出来なかった。
それでもぼくは、解っているから。貴女がいたということを。
きっと、雲の向こうで月が昇る。もうすぐ、二十一時がやってくる。
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