(4)ぼくと彼女の事情


 結局ぼくには、このような異常事態において助けを求めることが出来る気心の知れた友人というものはいないらしい。

 奇しくも佐伯さんの、僅かばかりの力添えはあったものの、それが事態を好転させ得るほどの助けになるとは、微塵も思っていなかった。

 それでもぼくの心はすっと軽くなった気がするし、雨晒しの中、何は無くとも傷んでしまった心が、すっと掬い上げられるような気がした。

 現実問題どうにもならない。それでも何かに立ち向かわねばならない。

 もしかしたら、希死念慮の進化系。駆け抜けた先には絞首台。成功と救済、そしてそれに至るまでに吐いた真っ赤な血との因果関係。ちっとも解らない。逆転の一手は見当たらない。

 心に差し込んだ光の暖かさ。それはまるで篝火かがりびのよう。

 どこまでも歩けるような、そんな気分になるほど暖かいのに、きっと一歩踏み出せば、途端に寒くなって不安になる。

 炎は道を示してくれないから、ぼくは不安を抱えながら歩くのだ。

 見えなくなった佐伯さんの背中。彼女が落とした残滓に別れを告げるように、ぼくは名残惜しくその背景に背を向けた。


 ▼


 見失った心臓を、今まで以上に注意深く探していた。雨は強くなった。雨が地面にぶち当たって弾ける音、その一粒一粒が、鮮明に聞こえる。

 ブレザーの袖から出ている手首から先はすっかり冷え切っていて、もう、明日風邪を引いて寝込んでしまうことを確信してしまうくらいに、雨晒しだった。

 あの子を追いかけている途中、あんなに無様に転んでしまったのに、この雨の中転んで泥まみれになれるほど、ぼくという人間には文学的リアリティが備わっていない。つまり泥臭いヒロイズムに酔うことなど、最初から許されていないのだ。

 ビルとビルの間を睨む。そのまま視線を上げる。空はぽつぽつと並ぶ建造物に阻まれて、少しだけ狭い。

 手を伸ばせば吸い込まれそうで、きっとこのビルはぼくが空に昇るとき、嫌気がさすくらい平坦な道に変わるのだろう。

 踵が浮き上がってしまいそうになったところで視線を空から外し、すれ違う人の肩がぶつかりそうになったのを確認する。その上で仰け反ってしまったので、きっと端から見たらさぞ間抜けなのだろう。

 佐伯さんならもっとスマートに避けたか。もしかしたら、ぶち当たっても素知らぬ顔で過ぎ去ったかもしれない。

 くしゃくしゃの紙切れが、空を舞っている。それが新聞紙だと気付くのは早かった。人の手を離れたばかりなのだろう。それは少しだけ宙を漂い、雨に打たれ、アスファルトに落ちた。

 たっぷりと水を吸った新聞紙はそれきり、風に身を任せて飛ぶことは無かった。

 ぼくはそれを見て、すごく悲しい気持ちになった。これは情景描写だ。そう思った。

 そしてすぐに、そんな楢原メイの首を絞め、鬼のような形相を浮かべるぼくが現れた。

 ぼくは目の端からぽろぽろ涙を零しながら、それでも明確な怒りを絶やすことなく、楢原メイにそのままぶつける。


「いつだってそうだ。自分にとって都合のいいことがあれば、空にも舞い上がる気持ちで喜ぶんだ。そして前を向くんだ。だのに、そうやって前向きな言葉を吐いた舌の根も乾かぬうちから、お前はもう立てない。打ちひしがれていると感傷に浸るのだ。身につまされるようなことも、劇的なこともなくて、そうやって適当な落とし所を見つけて軽く絶望するから、誰にだって見向きもされない。そんな痛みはリアルじゃない。だから自分の痛みなんて大したことない、この痛みはリアルじゃないなんて世迷言を吐ける。絶望したポーズ、うんざりだ。絶望などなんとも思っていないふうなポーズ、うんざりだ。お前は一体いつまでそうやって――――ほら、また足を止める理由を探してる。足を止めてはならないと、自分を責める理由を探してる。絶望から停滞、そして堕落及び生きながらの自殺。そうやって完結してるから、誰の呼び声も聞こえやしない。心臓を盗まれて、命を、刺すような風に晒されたって本気になれないなら、いよいよぼくが出張るしかないじゃないか。わかってるだろ、情景描写なんかありはしない。どうしようもないくらい写実的な世界だから、本気になって痛まないと、誰も分かってくれないし、教えてもくれないんだ。そんな こととっくに気付いているくせに。ほら、さっさと歩けよ楢原メイ。そこで浸ってちゃおしまいだ。新聞紙は、所詮新聞紙でしかないんだ。なあんにも示しちゃくれないんだ。お前は心臓に辿り着かなきゃならない。お前はそうやって雄々しく立ち上がらなきゃいけない。だって――」


「佐伯さんなら、そうするから」


 呟いた言葉はぼく以外の誰の耳にも届かなかったのだろう。ぼくはほっと胸を撫で下ろした。

 当たり前のように過ぎった感傷を、ローファーで踏み潰した。

 これはいま気づいたことで、もしかしたらぼくの勝手な想像でしかないのかもしれないけれど、佐伯さんなら、そうするのだろう。

 彼女とぼくとを分かつものは、自分の欲に忠実であるか否か、そんなシンプルなものではなかったらしい。

 彼女とて一人の人間なのだから、当たり前のように痛むのだ。ものを投げられて、足を引っかけられ、そのようにされて悲しいからこそ、去り際に笑うことが出来るのだ。

 きっとそうやって天然自然に芽生えてくる感情を、己の行動理念が上回るほど、ぼくたちはまだ大人ではない。

 我を通そうとした先に待つ痛みに、打ちひしがれる程度に子供だからこそ、彼女はそういった感傷を踏み潰した。

 ぼくはそれが出来ずに、ずぶ濡れの新聞紙を前にして膝をついてしまうくらい弱い人間だから、あの日、ぼくたちは取り返しがつかないくらい違うものになってしまった。

 踏みつけた新聞紙が自分の身体の一部だったみたいに、胸の奥がじくじくと痛んだ。今の佐伯さんからすればどうってことない痛みなのかもしれない。

 だがぼくにとっては、膝を抱えて蹲ってしまいたくなるくらい、悲痛な第一歩だった。

 ぼくは貴女に、少しでも近づけたでしょうか。

 また、貴女はそれを良しとするのでしょうか。


 証券会社のビルと、保険会社のビルが並んでいる。それらの間は細道となっていて、向こう側は大通りに繋がっている。こちらからでも、街の明かりははっきりと見えるのに、少し視線を落として、のっぺりとした足元を見ると、眩暈がしそうな深い闇が広がっていた。

 貴女の意図がどうであれ、貴女の残滓を肩に纏って、ぼくは――


 一歩踏み出して。ひときわ強い風が吹きつけた。

 雨が、弾ける。ぼくが進む道だけ、ぽっかり開いたような気がした。

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