二十時〇〇分

(1)鏡の中のメシア


 ▼


 佐伯さえき杏奈あんなという生徒がいた。ぼくにとって彼女は、鏡像のようなものだった。

 ちぐはぐバランスが取れてないぼくを反転してみると、思いのほか幾分か整って見える。つまりぼくから見た彼女は、そういうものだ。

 厭世を抱えて生きづらくなるのではなく、むしろ厭世を纏うことによって、外界から吹き荒ぶ風を防ぎ、自分にとって心地良い世界を構築する。あるいは、彼女のような人のことを、世間では厨二病・・・と言うのだろう。

 授業の合間の、頭を休めるには長過ぎるし談笑に耽るには短すぎる休憩時間にも、彼女は岩波文庫の小難しい本に視線を落としていた。

 男子生徒が教室の端から投げた紙くずが、教卓の隣でちょこんと佇んでいるプラスチックのごみ箱に入る。どっと湧き上がる歓声。佐伯さんだけが舌打ちをした。

 ひとりぼっちジョージ・ウォーエル。勝手に創り上げたディストピア。よっぽどぼくら以外の方が、人間味に充ち満ちているというのに、自室の玄関口に貼り付けた「干渉おことわり」の札だけを矜持に、佐伯さんは眉間にしわを寄せる。少なくともぼくには、そのように見えた。

 ぼくは佐伯さんのそういった人格を、他の誰よりも正確に見抜いていたという確信があったし、それを裏付ける理由は吐き気がするくらい単純な話で、佐伯さんの閉じた世界に共感する自分に気付いたからだった。


「あんたって、いつも不満げだね」


 小テストの問題資料を読み間違えた結果、人生で初めてのゼロ点答案を生み出してしまった日。

 居残りの再テストを受け終えたぼくは、西陽を浴びながら黄昏れていた佐伯さんに、初めて話しかけられた。


「分かる? 今日の小テスト、記号で答える形式だったじゃん。私ったら読み間違えて計算した数字で答えちゃってさ。人生で初めてゼロ点取っちゃったよ」


 努めて明るく振る舞ってみた。正確には、ぼくが明るいと思っているクラスメイトの模倣だけれど。

 それでも佐伯さんは眉一つ動かさずに、ハードカバーに視線を落としていた。今日は新潮社なんだね、と付け加えれば、少しは彼女の興味を引けただろう。今となってはそう思うけれど、このときぼくは、佐伯さんのやや尖った物言いにすっかり萎縮してしまっていた。


「そういうことを聞いてるんじゃない」


 それは分かりきった答えだったけれど、いざ言われると縮み上がってしまいそうだった。

 ショートボブの前髪。分け目が完璧な角度。そして、薄い琥珀色の眼鏡に守られた目元。全て、測られたようにきっちりと仕切られていた。

 そんな彼女だから、ぼくは同じ空気を吸っているだけで息が詰まりそうになった。

 窓から差し込む西陽に、どのように当たれば自分が完璧になれるか。そこまで解っていないと、きっとこうはなれないのだろう。


「そういうことって言われてもなあ。別に不満そうな顔をしてるつもりもないし、もしそう見えたのなら、生まれつきそういう顔なんじゃないかな」


「ウソ。大ウソ」


「ウソじゃないってばあ」


 佐伯さんが、少しだけ表情を崩して笑うから、ぼくはなんだか嬉しくなった。柄にもなく調子づいたふうに語尾を上げてみた。媚びているように見えなくもないのだろう。

 新潮社の本を閉じて、佐伯さんは西陽に曝された顔を光から背け、目をこすった。そして、ぼくの方を見た。


「愚図でのろまのくせに、周りに歩調を合わせられることに苛立ってる。自分が、何一つ条件の変わらない同い年の子たちの温情の上で生かされていると知ってるくせに、一丁前にそれを歯痒く思ってる」


 佐伯さんは、まるで鏡越しの自分に語りかけるように、全てお見通しだと言わんばかりに、歌うような口調で――


「あんたって、そういう人間でしょう?」


 鏡越しの彼女が、たとえどれだけの罵声を浴びせられても反論出来ないように、ぼくはその心無い言葉の弾丸に身を撃ち抜かれてなお、口を真一文字に結んでいた。


「あんたは私を羨ましいとでも思ってるんでしょうね。好き勝手に孤立して、かしましい同級生の声なんて知ったこっちゃないと振る舞う私が」


 佐伯さんの言葉はどうしようもないくらい的を射ていた。けれど同時に、ぼくはどうして彼女が今更になって、そのようにぼくを窘めるのか解らなかった。

 けれどその答えは、教室の中ですぐに見つかった。

 佐伯さんに共感を見い出していながら、ぼくは佐伯さんに自分から話しかけることをしなかった。更に言えば、ぼくは孤立している・・・・・・佐伯さんが話しかけてくる隙など無いくらい、徹底して群れようとしていた。

 あるいは佐伯さんがそれを見かねてぼくに話しかけたのだとしたら、この心無い言葉は鞭のようなもの。

 きっと彼女にとって、ぼくは好ましくない観念を纏っていたのだろう。

 どんな言葉を返そうかと悩んだ。真一文字に結んだ口が緩んだ。金魚の口のように、唇が不自然に動いているのが自分でも分かった。

 そうしているうちに、佐伯さんは手元の本を再び開いた。栞によって途切れていた世界が動き始める。

 彼女の中で、ぼくへの関心が、およそ一冊の半分程度の世界を下回った瞬間だと思った。


 ▼


「何してんのあんた」


 色白な手首がチェスターコートの袖から覗く。細い腕時計は二十時を指し示していた。前のめりなぼくを抱きとめるのに、その腕はあまりに細い。

 それでもぼくは、息も出来ないから彼女に全てを委ねてしまう。


「……佐伯さん?」


 完璧なボブカットは栗色になっていたけれど、その氷のように冷ややかな顔立ちはそのままだった。

 こんな日に、鏡越しの自分に出会うなんて、どうしてぼくは全てが空回っているのだろう。


「急ぎの用事ならちゃんと息を整えなさい。倒れたって、誰も助けてくれないから」


 その通り。ぼくは急いで駆け出さなければならないのに、またその方向すら見失ってしまったのだ。

 他でもない貴女だから、ぼくは縋りつきたくなってしまう。

 一緒に来てほしいだなんて口が裂けても言えないし、心臓を奪われただなんて到底信じてはもらえないけれど――


「      」


 喉に溜まっていたざらついた空気と一緒に、ぼくは佐伯さんを苛立たせる言葉を吐いた。

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