(5)空っぽな16ビートの速度


 でたらめの残像を棚引かせながら駆ける。夜が更けてゆくスピードに追いつかれないように、小さな背中を追いかける。

 視界の奥で小さく見えていた建物。雑踏。街灯。全てが近付いて、大きくなって、視界の端で薄く引き延ばされて、煌めく光線に変わる。

 真っ暗な空。朧げに揺蕩たゆたう灰色の雲。向かい風が強くなるのに、身体がぐんぐん前に進む。

 次こそは逃さないから。路地を抜けて、再び歩道に躍り出る。向かい風が横殴りの風に変わって、足元を掬い取ろうとする。

 負けるもんかと浅い息を無理やり飲み込むと、目尻から血が吹き出しそうな気がした。

 骨がへし折れて、開きっぱなしのまま放置された傘を飛び越えて。着地した右足を追い越す左足の歩幅も大きい。

 足だけが、ぼくのものじゃなくなったみたいに進み続ける。

 とうに御しきれていないのに、不思議と身体全体が足に噛み合っていて、全てがちょうどぴったりなぼくは、自分のスピードすらちいとも怖くなかった。

 風が鼓膜を撫で付ける音は、悲しみに耳を塞いだ時に聞こえる静脈血の轟々と鳴る音とよく似ている。

 すっかり麻痺してしまっているのだろう。ぼくの小さな頭の中で、行き交う言葉はあまりに多過ぎて、その全てを振り切る以外に選択肢は無かった。

 あと三歩分、二歩分。もう、迫っている。ぼくはそこまで来ている。

 考えるまでもなく、ぼくは手を伸ばしていた。

 男の子の小さな肩がぼくの手のひらで隠れる。あと少し。このまま前のめりに倒れたら、この子を道連れにしてアスファルトの上を転がるのだろう。

 息も出来ないから目が霞む。口の中がからからに干上がって酸っぱい。

 凍りついて零れ落ちそうな指先。震えているのだろうか。もう少し、もう少しだけ。

 少しだけぶれる視界。指先が伸びる方向は。


 振り下ろした手。指先は空を切った。どっと噴き出る汗と共に、身体の熱が機関の排気のように肩から抜けてゆく気がした。

 ぼくだけが崩れ落ちそうになる。最早自分の目が何を捉えているのすら曖昧だ。

 それでも、それでも――

 それでも――

 ぼくの足が、足だけが生きていた。きっと一秒後に空回りを始めるぼくの両足。今はこの世界で何より力強い。

 熱を帯びている。放っておけば自壊してしまいそうな足が、ぼくの指先を宙に留めて、もう少し・・・・だけ押し上げる。

 小さな背中を掴んで引きずることは敵わない。赤色のパーカーのフードに、中指が力無く触れただけ。


 男の子は肩を跳ね上げて振り返った。その拍子にフードが外れ、抑え込んだような黒髪が広がりながら露わになる。

 ちょうど肩にかかるくらいの黒髪が街灯に照らされて燻る。その向こうに、目尻を下げた気の弱そうな顔。

 どこかでお会いしたことがありましたか? ぼくは口には出せなかったけれど、目でそのように訴えた。その子は口を真一文字に結んで。揺れる街並みを映し出す刹那、その目は何も語らなかった。

 酸素が脳を始め、一気に循環してゆくような感覚があった。霧雨のベールすらぼくには重たい。


「あっ、あの!」


 咄嗟に振り絞った声。それ以降を紡ぐことなんて出来ないから。

 伸ばした手のひらをそのままアスファルトの上について、ぼくは地に膝をつけることを堪えるのでやっとだった。

 また遠くなる小さな背中。もうすっぽりとフードを被っている。

 追わなきゃ。そう思って手を膝の上に置こうとしているのに、膝はぼくの手を振り下ろす。

 中腰を保つので精一杯で、喉の奥で木枯らし。ひゅう、ひゅうと音を立てる。

 空気が入って来ない。それを意識した途端、呼吸という行為を取り上げられてしまうような圧迫感が芽生えてきた。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 喉を掻き毟りたい気持ちでいっぱいだけれど、そんなことをしたってどうにもならない。

 右足を一歩。踏み出して。左足がもたつくからまた右足を進めようとする。もたつく。

 咳払いをすると吐きそうになった。嗚咽の最中、木枯らしの向こう側で喉がごろごろ音を立てた。


 どこで待っているのか。痛みのない場所なんて、どこにあるのか。あの交差点の中心じゃないのなら、ぼくはどこに向かえばいい?

 霧雨の向こうにあの姿を見るまで、どこか浮き足立って恐怖を見ようとしなかったぼくなのに。これを逃せばもう心臓が戻ってこないような気がして、涙が滲んできた。

 頭の中で響くはずの鼓動が無い。すっぽりと抜け落ちてしまっている。

 ぼくは空っぽだ。ぼくは空っぽだって言えるくらい、空っぽだ。

 ただ生きているだけが取り柄だったのかもしれない。その鼓動を、息吹をぼくにかえしてください。

 瞼が下がるのと同じ速度で暗闇がのしかかってくるのが怖い。怖いと言い表すことが嫌だ。そう、いやだ。

 膝の震えを抑え込もうとしたぼくの両手。弾き飛ばされて宙ぶらりん。


 そのまま倒れようとするぼくの身体。肩を、誰かの腕が抱きとめた。

 毛ほども残っていなかった気力が、人肌の温もりで少しだけ湧いて出る。

 そのありったけを振り絞って顔を上げると、いつか見た顔。いつからか見なくなった顔。


 ぼくが茶色のお弁当箱を冷やかされた時。スマートフォンに目線を落として、誰の一番にもなれないと悟った時に、およそ四十人分の仮面に向かって吠えた女の子が、そこにいた。

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