(2)ぼくは心臓を盗まれたと彼女に言った


「あんたはいつもそう言う。都合が悪くなった時も、考えるのが嫌になった時も」


 ぼくを支えていた腕がぱっと離れ、胸ぐらを掴む。ぼくはそれを自分でもびっくりするくらい冷ややかな態度で見下ろしていた。

 そんなことを言ったって仕方ないじゃないかと、ほどほどのところで諦め、自分を納得させることだけは上手になったから。ぼくは、自分に伸びる腕すらも、こんな目で見ることが出来るのだ。


「……ほんと白ける目。もういいわ。急いでるんでしょう? 行きなさいよ」


 捻りを込めて突き飛ばすその腕を掴んで、ぼくは何も言わずに顔を伏せた。佐伯さんは怪訝な面持ちで、ぼくの顔を覗き込んできた。少なくともぼくには、そのように見えた。


「なに。私にどうしてほしいのよ。言わなきゃ何も分からないんだけど」


 佐伯さんは、いつもこうだ。

 あまりにも分かりやすく、符号化されてるんじゃないかってくらい明確な態度を貫いているからこそ、人にもそれを強要する。

 あるいは文武両道の才女。あるいは人心収攬の生徒会長。

 彼女のキャラクターは絵に描いたような性質を持っていたけれど、だからこそ、現実には受け入れられなかった。

 佐伯さんが誰かと会話する時、まず自分の意見というものが一番上にある。自分がどうしたいか、自分はどのように会話を切り上げたいか。

 あまりにも明け透けなその欲求は、多分ぼくが本来したいこととよく似ていた。

 自分が、別の肉体を手に入れて好き勝手に振る舞っているのではないかと思ったくらいだ。

 やがて、佐伯さんは孤立していった。ぼくはそれを、指をくわえて眺めていた。

 靴を隠して、教科書を盗んで、机の中にごみを詰めて。

 自分に忠実過ぎた佐伯さんに降りかかる嫌がらせは、嫌味なくらい分かりやすくて、これもまた符号化された悪意なのだろうと思った。

 それでも佐伯さんは孤高で在り続けた。その生き方は、ぼくの目には美しく映った。願わくば彼女の美しさが、高校三年間の鬱屈とした泥に穢されぬように。そんな祈りを捧げ、ぼくが何もしなかったのは、去年の今頃だったか。

 何もしないということがどれだけ罪深いことか、ぼくはよく知っていた。義務教育の課程、道徳の授業でそういった観念はきちんと教わっていたし、しかし同時に、教科書通りに正しく生きたところで、自分の身は守れないのだということも知っていた。

 だからぼくは何もしなかった。そして身勝手に、佐伯さんの美しさに見惚れ、その輝きが永遠であると信じてやまなかった。

 そして佐伯さんは、自身の均衡を保っていたか細い糸を手繰り、叫びながら引き千切った。

 クラスメイトは一斉に仮面を被り、彼女の激情をやり過ごした。誰一人示し合わせることなく、生きるのが上手な彼らはそれぞれの意思でそのように自分の身を守ったのだ。

 防空壕で戦火をやり過ごした若い命が、復讐の火を焚きつけるように、彼等の悪意は報復という名の大義名分を得て、より一層激しく燃え上がった。

 佐伯杏奈は、そのようにして滅ぼされ、学校を去った。

 通信制の学校に編入したという報せを聞いて、彼女を慮る者は一人だっていなかった。


 ぼくは、あの時より少しだけ垢抜けて、より美しくなった佐伯さんに、かける言葉が見当たらなかった。

 喉の奥でごろごろ鳴る木枯らしを飲み込んで、ほんの少しだけ落ち着いた胸。ぼくの身体。


「……ひさしぶり」


 きっと第一声でかけるべきだったであろう言葉をひねり出すと、佐伯さんは鬱陶しそうに眉をひそめた。


「はい、久しぶり」


 形式的な挨拶ならいくらでもしてやる、とでも言わんばかりに無機質な鸚鵡返し。

 そしてぼくの手を振りほどき、忙しなく膝を揺らす。

 佐伯さんの癖だ。彼女は会話が自分の思う通りにならないと、きまってこのように膝を揺らした。あるいは、両手が宙ぶらりんになっていなければ、手頃なテーブルの角を一定の律動に乗せて、指で小突いただろう。

 彼女の所作を要約すると、その身体は、はやく要件を話せと訴えていた。

 ぼくはクラスメイトとの会話が思うようにいかなくなって、結局彼らが軌道修正するという形でぼくの望む方向に進むまでの間、このようなじれったさを覚えることがしばしばあった。

 それを口や態度に表すことなど到底出来はしなかったけれど、佐伯さんは悪びれもせずに態度に表す。

 彼女の所作の一つ一つから、ぼくは自分とよく似た感性を見い出すことが出来た。同じものを見て、同じように感じるのに、それを素直に吐き出すか否かで、ぼくたちはこうも変わってしまうのだ。

 それでも根本が同じだからこそ、ぼくはもしかしたらと思ってしまう。

 この馬鹿げた心臓の逃亡劇。心臓を盗まれるという理不尽に立ち向かうにあたって、唯一の協力者が彼女になるのではないかと。

 頭の中で、懸命に言葉を練った。彼女が、ぼくが好むような、シンプルで解りやすい言葉を形成するために。

 それでも上手いようにはいかなくて、人に伝えるという作業を通じて、ぼくは事の重大さ、荒唐無稽さを改めて知り、同時にうんざりしていた。


「どうしよう佐伯さん。私、心臓盗まれちゃった」


 ぼくは言い終えるよりも先に、自分の声が震えていることに気付いた。

 それだけ伝えると、声は一目散に喉の奥に逃げ込んでしまったから、ぼくは真一文字に口を結ぶ。

 馬鹿げていると言われる。あほくさいと言われる。急いでいると一蹴される。からかっているのかと窘められる。

 そう思った。

 けれど佐伯さんはそのどれもをすることはなく、眼鏡の縁を指で整え、胸が凍りつくんじゃないかってくらい、真っ直ぐぼくを見ていた。


「……少し歩こうか」


 佐伯さんは唇を舐め、少しだけ口を開いてから三秒。慎重に選んだ言葉を吐いた。ぼくには、そのように見えた。

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