(2)ますますかれーど


 少し休んで。歩いて。立ち止まって。また少し休んで。その繰り返しだ。

 神経が剥き出しになっているみたいに、ふとした拍子に口から内臓が溢れそうな吐き気に襲われる。

 強い風が刺さる指先。光に押し潰される瞼。アスファルトを踏んだ瞬間、ひび割れのような痛みが走る足の裏。

 俗な言い方をすれば、気が狂いそうな苦しみ。

 コウくんに刃物を向けたことが起因しているのか、心臓を奪われたことか、あるいは――

 頭の中できちんと言語化する気力が無くて、最早ぼくの考察に意味など無かった。

 尤もぼくの体調が十全であったとしても、自分の傷口を開いてまじまじと眺めるなんて酷い趣味は無いから、結局のところ項垂れるしかないのだろう。

 何度も何度も泳がせた目が、心臓を奪った男の子を捉えることはない。

 星一つない夜空を見上げる。

 つんと、雨の匂いが漂ってきた。

 降るだろうか。いや、きっと降るだろう。

 あと一時間後か、あるいは一分後。いつになるかは分からないけれど、待ってる。

 あわよくばこの吐き気と罪悪感も、洗い流してくれれば――


 ▼


 満天の星空だったのに、あの日も、雨の匂いがした。


 ▼


「楢原ちゃんのお弁当っていつも茶色いよね」


 確かこんな口ぶりだったと思う。川上さんは嫌味のない笑顔を浮かべて、茶化すようにぼくのお弁当を指差してきた。

 川上さんからすれば、普段友達同士で飛ばし合っている軽い冗談のつもりだったのだろう。

 けれどその時のぼくにとって、塩おにぎりときんぴらごぼう、それとふろふき大根しか入っていない昼食に注目されることは、不愉快でしかなかった。

 不愉快だと思いつつも、ぼくは愛想笑いを浮かべて、蚊の鳴くような声でどうとでも取れる返事をする。

 その次の日から、ぼくは学校で昼ご飯を食べなくなった。

 きっと嫌味なやつだと思われただろう。それでもぼくは干渉されたくなかった。

 友達が欲しい。

 そうは言っても、学校で世間話をする相手がいないわけではない。

 話しかければきっと大体の人が、流行に疎いぼくにも分かるような話題を織り交ぜながら、会話を先導してくれるのだろう。

 それでも満たされないと思っている自分と、その厚かましさを糾弾する自分がいる。

 ふとそんなことを考えた時期があった。そしてその曖昧なわだかまりの原因は、意外にも三日ほどで判明した。

 ぼくと話してくれる・・・・・・クラスメイト達を、手元のスマートフォンを弄るふりをして観察していた時のことだ。

 彼女らは朝登校して自分の鞄を席に置くなり、真っ先に友達の元に歩み寄ってゆくのだ。更に言うと、歩み寄る相手は決まっていて、おはようと声を掛け合ってから共通の話題を広げるまでの一連の流れの中に、互いに示し合わせる様子は微塵も無かった。

 ぼくはそこに孤独感を見い出すことは無かったけれど、自分はこの人達のようになれないんだと思った。

 そして同時に、この人達が一番にぼくの元に歩み寄ってくることは絶対にないということに気付いた。


 川上さんは立花さんと。

 後藤くんは八田さんと。

 木原さんは板井さんと。

 島田くんは三崎くんと。

 木部さんと渡辺くんと、川津くん。

 安東くん。松尾くん。清水さん。松本さん。末次さん。佐藤さん。高崎くん。


 エトセトラ。エトセトラ。


 その他大勢のギャラリーと職員一同。


 そして、ぼく。


 人は独りでは生きていけないと、誰かが言った。

 だとすれば誰かにとっての一番になれないぼくには、何の価値もないのではないか。

 辛くも苦しくもない現実から逃げる為に飛躍した論理。けれどその時のぼくにとっては、疑問を抱こうだなんて少しも思わない、正常かつ真っ当な思考だった。

 手首から血が流れればいいのに。薬によって鎮静化された心がそこにあればいいのに。

 ぼくが叫び散らしたとして、水を打ったように静かになる教室の中で、超新星爆発のように輝いて消えてしまいたい。

 死にたいと呟いて気持ち良くなれるだけの痛みを持っていないからこそ、この衝動が湧き上がってくるのだということを知ったのは、ちょうど、ぼくには自分の命を終えて、蒸せ返るような輝きを放つことが出来ないと気付いたのと、同時だった。


 ある日、いじめられていたクラスメイトが、ずっとぼくが出来なかったことをやった。

 彼女は昼休みに突如立ち上がって、気が狂ったように叫び散らした。

 掠れてしまいそうなその声を聞こうとすると、肌が痛くなってしまいそうで、ぼくは素知らぬ態度を取り繕うのに必死だった。

 もううんざりだ。私は痛い。なぜ私でなければならなかったのか。

 防ぎ損ねた言葉を拾い上げると、そういった叫びが浮かび上がってきた。

 ぼくは自分の表情筋を動かすことすら怖かった。クラスの皆はばつが悪い思いをして顔を伏せるのか、あるいは滑稽な被害者を嘲笑うのか、どちらかだと思っていた。


「何のこと?」


 誰が呟いたのか忘れてしまったけれど、とにかく、そんな言葉が聞こえてきた。

 そして次の瞬間、誰もが本当に困ったような表情を浮かべて、極々自然にどよめき始めた。

 彼女は怒りの矛先を向ける場所を失って、肩を震わせながら椅子に座る。

 その十秒後には、雑談の喧騒が教室を埋め尽くしていた。


 ▼


 エトセトラ。エトセトラ。


 頭の中で反芻する言葉。もしかしたら、口に出してしまっていたかもしれない。

 たとえばぼくが何らかの物語を駆け抜ける傷だらけの主人公だったとしたら、きっとぼく自身が納得出来る答えがそこにあるのだろう。

 物語的に心臓を盗まれて、エトセトラのぼくはどこに行く?

 誰かにとっての一番になれないぼくの背中など、だあれも押してはくれない。

 悲観するのは筋違い。きっと誰一人悪くない。口に出すなんてただただイタい・・・。きっと傍迷惑な勘違い。


 雑踏が、一際強い雨の匂いを運んでくる。

 泣いてなんかいないのに、頬に雫が垂れてきた。

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