十九時〇〇分

(1)表面張力の限界を迎えたジプシー


 ブレザーの右ポケットには財布が。左ポケットにはスマートフォンが。

 ぼくには、これだけで充分だ。これだけあればどこにだって行ける。逆に言えば、十七年間の中で、手離せないものはたったこれだけだった。

 夜の街を灯りが照らす。建ち並ぶファストフード店の明かりと、そこに群がる人々の喧騒は絶えなくて、ずっと見ていると酔ってしまいそうだ。

 心臓が無いことを、ふと意識する。

 胸に手を当てて、鼓動が無いことを確認すると、吐き気が込み上げてきた。

 昼ご飯は食べなかった。朝に調理パンを食べたきりだ。空っぽの胃がきりきり痛む。

 あてもなく走り回るだけの気力がない。きっと到達点がはっきりしていたとしても、ぼくはメロスになんかなれない。

 ざわざわだったり、ぎちぎちだったり、がんがんだったり、色んな音が聞こえる。

 いっぺんに、ぼくの中に入ってこようとするから、いっぱいいっぱいになるのはすぐだった。

 風が冷たいから、骨が痛んでしまいそうだ。

 行き交う人々の歩幅を、もう見ていられない。立ち止まって、立ち止まって、蹲る。

 きっと何人かが足を止めて、ぼくを見ただろう。

 息が出来ない。ごうごう、ごうごう、人殺しのオノマトペ。心臓の鼓動が鳴る方へ。

 どっと膝に襲いかかる震え。気持ちだけが先走って、身体はちいともついてこない。

 聞こえてくる音がうるさいから、目を閉じたって視界がぐるぐる回ってる。

 あちこちの随意筋がぼくの意思とは無関係に跳ねている。

 自宅から迷わずここまで駆けてきた。行き交う人々、というよりは街の営みか。漠然としてはいるけど、そういうものに触れた途端、糸が切れたみたいに、どこに行けばいいのか分からなくなった。

 このアスファルトを砕いて、露わになった土をひたすら掘り進みたい。脇目も振らずに、ただ穴を掘り続けたい。

 そうしてぼくの身体をすっぽり収められるくらい深くなった穴が、ぼくの墓標になればいいのに。

 死にたいなんて微塵も思わないのに、突飛な発想に包んでしまえば、そんなチープな願望すら吐き出せてしまいそうな自分が嫌になる。

 じっとこうしていても埒があかないから立ち上がるけど、目眩がしてサラリーマンに肩をぶつけてしまう。

 わざとらしく舌打ちをする彼にとって、ぼくは文字通りゴミみたいな存在なのだろう。

 紳士服店の前に設置されているベンチまで、這い蹲るような速度で歩く。 木造りのそれが破れてしまうんじゃないかってくらい、勢いよく座り込む。

 深呼吸すると幾分か吐き気は紛れたけれど、酷く喉が渇いている。

 水が飲みたい。一切味がついていない真水が飲みたい。ナトリウムもカリウムも、重炭酸塩もいらない。

 混じり気のないものを身体に取り入れれば、少しはましになるだろう。


「ああ」


 声を絞り出してみる。じぶんのものじゃないみたいにざらついていた。

 それは生存確認のようなもので、ぼくは自分が殺人という禁忌タブーを正常に忌避していることに気付いた。

 熱に唆されたアリス症候群みたいに、コウくんとのやり取りが脳裏をよぎる。

 突きつけた包丁が彼の肉に到達したら、ぼくは一体どうしたのだろうか。

 胃の痛みがそのままぼくを窘めているとさえ思えてくる。

 ぼくの右肩の上で首をもたげている憎悪ちゃん・・・・・に、まずははじめましてから。

 

 きみはコウくんを殺そうとした。未遂であれ、そんなつもりは無かったとうそぶいたところで、歪めようのない事実だ。

 ニュース報道で吊るされた殺人者の境遇が踏み躙られ、歩いてきた道すら無かったことにされるように、きみの行為は決して許されることではない。

 誰もきみの肩を持たない。溢れる涙には紛い物の烙印を押される。

 当然のことだ。当たり前のことだ。

 やがて未遂に終わった強姦未遂の事実は捻じ曲げられ、きみは実の弟に破瓜はかの痛みを刻みつけられることになる。

 そこに同情なんて微塵も無くて、わけ知り顔な見知らぬ人に、コンテンツとして消費される。

 阿婆擦れ。売女。ファッションメンヘラ。自制心皆無のピーターパン。深呼吸代わりのリストカット。ホテル代込み一五〇〇〇円の安い感性。一人称ぼくの生放送。温度の無いインターネットの温もりと、それすら破り棄てる裏アカウントの罵詈雑言。

 きみの望まぬ尾ひれがついて、やがて膨れ上がったきみというコンテンツは、風船のように弾け飛ぶだろう。

 残ったその場所には人の悪意すら温もりと思える冷たさしかなくて、否定され尽くしたきみという人格は泡沫に溶けて消える。


 やい人殺し。自分勝手な悪意にまつろう犬。


 今更になって、一体何処に行こうというんだい。

 

 憎悪ちゃんイコールぼく。つまりぼくのぼくによるぼくの為の罵声。

 自己卑下が免罪符となって、この吐き気を取り除いてくれるのならば、いくらでも自分を貶したいくらいだ。

 額の汗を拭って、スマートフォンの光で自分の顔を照らす。

 手短かにメッセージアプリを確認する。どうせ通知など一つも来ていないのだから、それが一週間は続いているのだから、もう慣れたものだ。

 画面に表示された友達。アイコンは皆眩しくて、自分のアカウントがピクトグラムのような無機質を映し出していることが、この世界のどうしようもない事実であるように思えた。

 もう一度、深呼吸。汗は冷たい風に曝されて、手がかじかむ。

 

 ざわざわ。

 ぎちぎち。

 がんがん。


 ごうごう、ごうごう――


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