(6)ぼくのケモノ
空っぽな胸を埋めるように、時計が刻む律動は段々と大きく聞こえてくる。
心臓の代わりに頭に直接響く音は、ひとたび意識してしまえば、一定の鼓動に合わせて不安を扇動する。
瞬きするたびに、目の前のコウくんが血にまみれてゆくような気がした。
突きつけた刃の切っ先が描くイメージ。頭に響く音と共に、より鮮明に。
この空想の中なら、自分がどこまでも残酷になれることに身震いする。
毛玉だらけのトレーナーの上から、腹筋に何度も包丁を突き立てる。
そして獣のような悲鳴を上げるあなたの二の腕を、筋繊維にそってずたずたに切り裂く。
最早抵抗すら虚しく、湯気立つ鮮血を眺めることしか出来なくなったあなたの頬を、何度も何度も殴る。
頬骨の硬さに、ぼくの小さな拳はさぞ痛むことだろう。それでも構わず、殴り続ける。
悲鳴が呻き声に変わり、やがて白目を剥いて何も言わなくなるまで。
そこまでやったところで、ようやくぼくはあなたの命に手をかける。
何も映さないその眼球を包丁で抉り出して、地の底から響くような断末魔を上げるあなたの
それを引き抜く悪寒に耐える準備を、入念に整えながら、柄を何度も捻る。
そうしてようやく一思いに引き抜いた刃は、血漿と白血球と血小板、それと赤血球で出来た命をまとわりつかせながら、てらてらと笑うのだろう。
空想のぼくがどれだけ鮮血の臭いに酔おうとも、足は床に根を張ったみたいに動かない。
膝だけが震える。息も出来ない。無理に酸素を取り込もうとする。吐き気がこみ上げてくる。吐き出そうとした空気は喉の奥で木枯らしになる。
「人のことを責められる人間なんか。ねえちゃんは」
顔を上げるコウくん。目には涙がうっすらと滲んでいた。
「親父とかあちゃんが喧嘩してる時、一回でも俺を庇ってくれたことがあったんか。俺だって、ねえちゃんに腐るほど言いたいことがあるわ」
「……それとこれとは関係無いでしょ」
「無かったら言っちゃいかんのか!」
支離滅裂なのは、コウくん? それともぼく?
再び肩をいからせ、鼻息を荒くする彼に、未だ包丁を突きつけたままのぼく。
ぼくたちの間には、既に会話の整合性や論理といったものは存在しなくて、ただただ、自分の敵意をぶつけて相手を打ち負かすことだけに注力した浅ましい泥仕合いみたいだ。
「親父にど突かれるのはいつも俺ばっかりや! お利口さんにして、どうせずっと俺のことなんか見下しとったんやろ!」
「それはコウくんが悪いことするからじゃない。ぼくだって、ちゃんとパパとママの言うこと聞いてるのに、二人ともコウくんのことばっかり見てて嫌だったよ!」
「あの二人は俺のことが憎いからぶうぶう文句垂れとるだけやろうが! そんなに嫌なら俺のことをぶっ刺せや! 死ぬほどぶん殴られて、構ってもらえるわ!」
「なんにも解ってない!」
自分でも、こんな大きな声が出るのかと驚いてしまうくらい、部屋中が震えるような声だった。
頭の中で反芻する余韻すら、金切り声のようにキンキン響く。
気付けば、ぼくは包丁を手放してしまっていた。正確には、憤りに任せるまま、包丁をコウくんの足元に投げつけていた。
あんなに楽しそうに、この下衆を殺せと囁きながら笑っていた包丁。
足元で甲高く虚しい音を立てたそれは、もう何の感情も宿していなかった。
それはただの、無機質な鋼だった。
ぼくは自分がしでかしたことの浅はかさに気付いた。コウくんの足元に包丁がある今、ぼくがどのような言葉をもって彼を言いくるめようとしても、暴力の前では無意味だ。
コウくんは目を丸く見開いて、足元の包丁に視線を移した。
どっと汗が噴き出てくる。時計の音が、あまりに近い。
掛け時計の針は、十九時に迫っていた。
頭の天辺から爪先にかけて、冷たい氷が一気に駆け抜けたような寒気がする。
それは一瞬の出来事で、思わず身震いした直後には、足の裏から生えていた根っこは綺麗さっぱり無くなっていた。
「ぶっ殺してやる!」
その怒号がぼくの耳に入る頃には、既にぼくは廊下に駆け出していた。
汗に濡れたブラウスを着替えることもせず、思えば家に帰ってから、心臓のことなどほとんど考えていなかった。
ぼくは何をやってるんだ!
胸の中で叱責し、尻に鞭打つ。目の前に人参がぶら下がっていなくても、後ろで獄卒が火の車を引いているのだから、走るしかない。
踵を踏み潰してローファーを履き、力いっぱい靴棚をひっくり返した。
「帰ってきてみろ! 絶対ぶっ殺してやる! お前だけは許さんからな!」
コウくんは顔を真っ赤にしているのだろう。
ぼくは振り返らずにドアを開き、すっかり暗くなった外に飛び出した。
照らす星は殆ど見えないから、大きく息を吸って、ありったけの力を足に込めて駆ける。
歩き慣れた道だから、前も見ずに、ただアスファルトだけを見つめて駆けた。
身体は風に乗ったみたいに、ぐんぐん進んでゆく。どこに行けばいいのかなんて、さっぱり分からないけれど、ぼくは少しも迷っていなかった。
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