(2)弟


 玉ねぎの微塵切りが出来るようになったのはいつ頃だったか。さらに言うと、包丁を握れるようになったのはいつ頃だったか。

 うんと記憶を遡ってみるけれど、小学生の頃から家事のほとんどは出来るようになっていた気がする。そのきっかけらしいものに辿り着くことは無かった。

 事あるごとにこうして昔を振り返ってしまうのは、七時間というタイムリミットのせいだろうか。

 既に、ぼくが心臓を奪われてから一時間が経過している。

 コウくんに炒飯を作っているぼくは、今の状況を鑑みると誰の目にも呑気に映るのかもしれない。

 けれど心臓を盗まれたなんて与太話を信じる人など、少なくともぼくの周りにはいないだろうから、じっくりと、痛みのない場所についての考察……

 油を引いたフライパンが煙を上げる。微塵切りの玉ねぎとベーコン、それと溶き卵を流し込んで、ぱらぱらにほぐれた冷凍ご飯と混ぜ合わせる。

 五徳ごとくを鳴らす音がうるさいだろうか。舌打ちなんかしないで、これくらいは許してほしい。

 ぼくが食べるなら塩胡椒だけでいいけれど、コウくんは濃い味付けが好きだから、少しだけ醤油を足す。

 匂いが瞬く間に広がって、コウくんはちらちらぼくの方を見ている。

 もうぼくとは違う生き物になってしまったんじゃないかってくらい、彼の考えていることなんてさっぱり分からないけれど、そういう反応には昔の面影があった。


「もうちょっと待ってね」


 我ながらよく出来た炒飯。具は少ないけれど味は悪くないはず。

 目についた中で一番綺麗な皿に盛り付けて、刻みネギを振りかける。


「テレビなんもないやん」


「この時間だとニュースとアニメくらいでしょ」


 コウくんの前に皿を置いて、さっさとフライパンを洗い始める。焦げはそれほど無いから、強く磨けば綺麗になるだろう。


「ねえちゃん、お茶」


「はいはい」


 たとえどんなにやさぐれようとも、どんなに酷いことをされても、ぼくたちは血が繋がっているらしい。

 コウくんの全てが分かるというわけではなく、むしろほとんど分からないけれど、なんとなくお茶を欲しがりそうな気がしたと、彼の言葉を先回り出来た自分が、微笑ましかった。

 洗い終えたフライパンを水切り棚に立てかけて、コウくんに麦茶のポットとグラスを手渡す。そうしてようやく一仕事を終えたぼくは、コウくんの向かいの椅子に腰を下ろして、自分のグラスに麦茶を注いだ。

 喉がからからだったので一気に半分ほど飲み干す。

 冷えていたので、背中が縮こまる。悪い心地はしない。乾燥した空気にあてられてざらついた指先まで潤うような気がする。


 そして考える。痛みのない場所について。


 あの子が指す痛みが外傷によるものなのか、あるいは俗に言う心的外傷の類なのか、それすらも判然としない。

 つまり抽象的過ぎるので、どうとでも解釈出来るのだ。

 たとえばぼくは、多くの女子高生がそうであるように、毎朝早くに起きて学校に行くことを苦痛だと捉えている。

 虐められているわけではないけれど、成績不振が著しいわけではないけれど、本音を言えば将来のことを考えず、毎日好きなだけ寝て、好きな時間に起きて、気の向くままに散歩でもして暮らしたい。

 究極的に言えば、この時代に生まれてしまった以上、そういった自堕落な欲求を堪えて生きてゆく痛みは絶えないのではないだろうか。

 ともすればやはり心臓を失ったぼくがこのまま順当に行けばぶち当たる場所、つまり死そのものが痛みのない場所に当てはまる。


 ノー。ノー。ノーだ! 断固ノーだ!


 仮にそうだとして、これ以上ぼくが考えることは一切無意味だということになる。

 それでは本末転倒。自分の人生に見切りをつけられるほど、ぼくは達観していない。


 ニュース番組の報道。

 テレビに映っているのはまだ年端もいかない男の子。心臓移植の必要があるが、適合する心臓が見当たらないらしい。

 お決まりのようにドナー登録と募金を促す文言が読み上げられて、テレビ越しにも伝わってくる厳かな雰囲気はぱあっと弾けた。

 不気味なくらい口角を吊り上げた女子アナウンサーがロケ先の地ビールを試飲するらしい。

 扱うニュースが変わっただけなのに、ぼくはテレビの向こうの世界が、あの文言を境にひっくり返って別のものに変わってしまったんじゃないかと思った。

 心臓移植の手術が出来ないと死んでしまう男の子。

 ぼくだって普通ならば何気なく流し見ていただろうけれど、今となっては他人事ではない。心臓を取り返さなければ、死んでしまうのだから。

 死んでしまう。

 死んでしまう。

 死んでしまう。

 何度も頭の中で繰り返す。痛みのない場所という言葉の影に、大事な言葉があったことを見落としていた。


 ボクはキミの心臓を手に入れないと、死んでしまうんだからね――


 あの子はそんなことを言っていた気がする。

 これはこれで突飛な話だけれど、彼も心臓移植を必要としていて、その為にぼくの心臓を奪ったのだろうか。なんて。


「それ面白いん?」


 コウくんが不意に声をかけてきたから、ぼくは思わずお尻を浮かせてしまった。「全然」と否定する声は、自分でも分かるくらい上擦っていた。

 はっきりと怪訝な表情を浮かべていたコウくんだけど、三つ数えるくらいの間目を丸くしていたかと思えば、すぐに炒飯を取り崩し始めた。

 ぼくのことなど、もうどうでもいいのだろう。機嫌さえ損ねられなければ、彼にとってはぼくも、パパもママも、ノイズを吐く置物でしかないらしい。


「心臓がないと、人って死んじゃうんだよね」


 コウくんは、ぼくのことなんてどうでもいいらしい。


 ぼくは、コウくんを殺したいほど憎んでいるというのに。

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