十八時〇〇分
(1)灰色の部屋
心臓やい、どこに行ってしまったの。と呼べばひょっこり顔を出すほど聞き分けのいい心臓なら、きっとここまで焦ってはいない。
そもそもぼくは焦っているのかというところまで、疑ってしまうのも無理はないだろう。
喉元過ぎれば――と言うように、ぼくは奪われた心臓の生々しい外見を、はっきりと思い出せなくなっていくうちに、もしかしたらあれは白昼夢の類ではないかとさえ思うようになってきた。
そんな希望的観測に自分の命を委ねられるほど、ぼくは肝が据わっているタイプではない。
けれど、一度見失ってしまった以上、無闇に探し回っても仕方がないだろう。
「うん、家に帰ろう」
自分に言い聞かせるように、口に出してみる。そうしている時点で、その選択は間違っていると否定するぼくもいるのだけれど、他にめぼしい案を閃かない以上、落ち着いて考えられる時間が必要だ。
▼
ええ、楢原メイ的には、やはり不条理だと思うわけですよ。
たとえば詐欺犯罪特集のドキュメンタリー番組。
ぼくは世の中の
彼らは自分の餌を、正常な判断能力を保てない領域に招き入れて、最悪の二択を強いる。
あの子のやり口は、それによく似ているような気がした。
ぼくが強いられた二択は、追いかけるか。足を止めて考えるか。
そのどちらも、一見ぼくの為になることではあるのだけれど、そもそも心臓を奪われていなければ、どちらも選ぶ必要が無かった。
ぼくの心臓にどんな価値があるのか解らないから、今のぼくが、あの子にとってどのような利益をもたらしているのかと、少し強引に思考のアプローチを変えてみるのだけれど……
ろくすっぽ回らない脳みそは何も教えてくれないし、まさかぼくが家に帰るとは思っていないだろうと、ひねくれ根性を剥き出しにした迷走に
心臓が無ければそもそも生きてはゆけないのだけれど、それを可能にしている超常的な事柄の上を歩いている以上、論理的思考の王道を選ぶ為の思案など不毛なのだろう。
もっと柔軟に、もっと突飛に、もっと物語的に――
心臓やい、どこに行ってしまったの。
おもむろに、左胸を撫でてみる。
鼓動がぼくの指を押し返すことは無いけれど、少し肌寒いしお腹も空いた。さらに言うと、全力で走った後に訪れる天然自然な乾きもあったし、なにより足首がずきずき痛かった。
▼
ああでもないこうでもないと、心臓の行方を考えつつ、ちゃんと辺りをくまなく見渡しながらとぼとぼ歩いているうちに、木造アパートが見えてきた。
駐輪場には荷台をバットでひん曲げた自転車が、我が物顔で斜めを向いて止まっている。
パパとママは多分まだ帰ってきていないだろう。コウくんは居る。
今朝、登校途中に朝帰りの彼とすれ違ったから、今までの生活サイクルから大きく外れていなければ、空が橙色に染まり始めた頃に目を覚まして、冷蔵庫を物色していたことだろう。
今頃自室に籠もって煙草を吸いながら、録り溜めたテレビドラマを消化しているのかもしれない。
「ただいま」
控えめに。あまり大きな声を出して、万が一コウくんが寝ていたとしたら、ドア越しに怒鳴り散らされるかもしれないから。
ぎいぎいうるさいフローリングの廊下をすり足で進む。
玄関から一番近いコウくんの個室をそっと通り抜けようとしたその時、勢いよくドアが開いた。
きっとぼくに心臓があったら、わっと声を出して跳び上がったのだろうけれど、幸いぼくの身体を動かす鼓動は不在だった。
恐る恐る視線を滑らせると、真っ暗な部屋から目が痛くなるような金髪が這い出てきた。
「今帰ったん?」
「うん」
頭の中では澱みなく会話出来ているのに、コウくんを目の前にすると、どうしても言葉が詰まってしまう。
「コウくんは、今起きたの?」
聞くまでもなく、大きな欠伸をして頬のにきびを掻いているその姿から察しはつくけれど、他に気の利いた言葉など出てこない。
「悪いかよ」
「別に悪くないけど……」
朝帰りばかりしてるとママが心配するよ。ずっと閉め切ってると部屋にかびがはえるよ。学校には行かない?
けどの後に続く言葉はいくつか思い浮かぶけれど、そのどれも、ぼくには絞り出す勇気がなくて――
「腹減った。めし」
コウくんはパパとそっくりな細い目で、じっとりとぼくの足首あたりを見下ろしている。
その視線から逃げるように、台所に向かう。フローリングの軋みがうるさいけれど、小走りじゃないと駄目な気がした。
少し遅れて、コウくんが像みたいに大股で歩く音が後ろから聞こえる。
それとなくコウくんに目をやりながら冷蔵庫の中身を確認するけれど、そのまま食べられそうなものは無かった。
冷凍庫の冷やご飯をレンジで解凍する。玉ねぎと卵、それと賞味期限が近いベーコンを取り出していると、リビングから煙が漂ってきた。
チャンネルを変えながら煙草の煙で輪っかを作っていたコウくんは、どの局も代わり映えのないニュース番組を流しているのが腹立たしいのか、ぼくの耳にも聞こえるような舌打ちをする。
「チャーハンでいい?」
「食えりゃなんでもいい」
じっとりとした目がぼくに向く。
たまらず目を背けかけたけれど、あまり窮屈そうな態度を見せると、それだけで機嫌を損ねてしまいそうだから、愛想笑いを繕ってみる。
「へらへらすんなよブス」
言いようのない滑りけを孕んでいた目は途端に冷え切って、すぐテレビに向いた。
玉ねぎの皮を剥いて腕捲り。包丁をぐっと握り締める。
ろくに換気もしていない部屋の空気は、灰色を帯びて重苦しかった。
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