(5)沼の向こうにさようなら


 シンちゃんは目を伏せて、しばらく黙っていた。かと思うと唐突にうんと伸びをして、大きな溜め息を吐く。

 ぼくはその過程で、自分の言葉を差し込まないように、奥歯を噛み締めて口を閉じていた。


「ごめんな。未練がましくて」


 首を振って否定するけれど、彼にとっては自分が情けなくてたまらないのだろうから、その所作にきっと意味は無いのだろう。

 ぼくは悪いことをしていない。たとえば彼が不治の病に冒されていて、せめて最期の時くらいは恋人と過ごしたいと思っていたとしても、どれだけ物語的な背景があったとしても、ぼくは悪くない。

 だからといってぼくに彼の自己卑下を責め立てる権利なんか無くて、せめて元恋人として出来ることと言えば、この刹那の間に目まぐるしく動く彼の脳内の言葉達の末路を、じっと黙って見届けるくらいなものだ。

 復縁を求められる気はしていた。けれどぼくは、シンちゃんから逃げ続けた。

 きっととうの昔に、ぼくは自分の中で答えを出していたのに。それでもぼくは逃げ続けた。

 理由なんて、わざわざ思考を巡らせるまでもなく解る。

 自分自身の手で関係に終止符を打つのが嫌だったからだ。ぼくにとっては悪くなくても、彼にとっては悪くなる。

 十七年間という長いのか短いのか、よく分からない時の中で、ぼくは時として人がそのように食い違ってしまうことを学習していた。

 恨まれるかもしれないし、もしかしたらぶたれるかもしれない。

 もしもそうなってしまったら、ぼくはシンちゃんに怒りの矛先を向けて、彼を一方的になじってしまうだろう。


 せめて綺麗な思い出のままでいてほしい。

 青臭いかもしれないけれど、それはぼくの、徹頭徹尾素直な気持ちだったし、同時に自分本位なエゴでもあった。


「ろくに連絡もしなかったもんな。それに自分からふっておいて、今更やり直そうってのも、むしがいい話だよな」


 ぼくはまた首をぶんぶん振りそうになったけれど、思いとどまった。

 ぼくがシンちゃんだったとして、自分の言葉を否定して、慰める言葉なんて欲しくないと思ったからだ。

 ぼくには、ぼく達の間にあるこの小さな隔たりが、沼のように見える。

 きっと少しでも、ぼくが彼を肯定するような素振りを見せれば、この沼はぼくの足を掴んで、ぼくが望まぬ場所へと引きずり下ろしてしまうのだろう。


 シンちゃんは悪くない。それは本心だけれど、その気持ちをぶつけてしまったがために、彼を迷わせるのは心苦しい。

 一度でも愛した人だから。だったら、最期くらい、ぼくは彼の為になることをしたい。


「ほんとだよ。ばあか」


 小憎たらしい顔は出来ただろうか。

 悲しい気持ちを抑え込める程度に、ぼくは自分が納得出来るだけの時間を置いていた。

 シンちゃんはどうだろうか。

 悲しげな表情は張り付いたまま。そんな目をされると、ついその胸に駆け出してしまいたくなる。

 けれどぼくとあなたはこれでおしまい。おしまいったらおしまい。

 ぼくは「今更復縁をもちかけてきた煮え切らない彼」に愛想を尽かして、差し出された手を払いのけるのだ。


「送っていこうか?」


「へーき。やることあるから」


 さっきシンちゃんがそうしたように、ぼくもうんと伸びをする。

 こんな風に思うのは失礼なことなのかもしれないけれど、なんだか憑き物が取れたみたいだ。

 あるいは彼に嫌われることを、彼に固執されることを、彼との思い出が汚れることを、ずっと恐れていたぼくがどこかに行ってしまったのかもしれない。

 シンちゃんはブランコの傍に置いてあったぼくのスクールバッグを提げて、普段通りの表情を貼り付けて、ぼくの目の前まで歩み寄ってきた。


「引き留めて悪かったな。あんなに急いで、どこに行こうとしてたんだ?」


 受け取ったスクールバッグを肩に提げて、ぼくはまたピースサイン。

 にっこり笑うのは苦手だけど、それに近い表情を作ってみた。


「ちょっと心臓を取り返しに」


「なんだよそれ」


 シンちゃんが笑ってくれたから、ぼくはやっと胸を撫で下ろす。


 さてさて、少年Aはどこに行ったのだろうか。

 シンちゃんに呼び止められて、済し崩しに逆戻りしてしまったけれど、ぼくは何の危機感もなく、少ない時間を割いたわけではない。

 あの子は言った。痛みのない場所で待っている、と。

 もしかしたらこれは希望的観測というやつなのかもしれないけれど、あの子はぼくから逃げ切るために駆けて行ったのではない。そんな気がする。

 あの子の言う痛みが何を指すのか、現時点ではちいとも分からないけれど、その言葉だけで思い当たるような場所なのかもしれない。

 言葉をそのまま信じるのならば、彼はそこでぼくを待っているのだ。

 ぼくにとっては心臓さえ返してくれればどちらでもいい話なのだけれど、あの子にとって、その場所に辿り着く前に捕まるのは不都合なことらしい。

 それにしたってぼくの心臓を奪う意図やその方法すら謎のままだけれど、そのあたりはきっと今考えることではないのだろう。

 無事心臓を取り返せた時に、飽きるほど考えればいいだけの話。あるいはあの子に直接聞けば解決だ。

 こんな風に考えていると、まるで自分が探偵になったみたいだ。

 シャーロック・ホームズかエルキュール・ポワロか。もしくはジュール・メグレにネロ・ウルフ。

 古今東西の名探偵は往々にして、隠された謎を誰かの為に暴くけど、ろくすっぽ頭も回らないこの迷探偵は、徹頭徹尾自分のために。


「また学校でな」


 公園の出口に向かう途中、後ろからシンちゃんの声がした。

 つたない思考の海の水面みなもから手を伸ばして、その声を辛うじて掴み取る。

 ぼくはシンちゃんの方を振り返らずに、ちょっぴり気取った調子で親指を立てて見せた。

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