(3)ブランコノスタルジー



 シンちゃんに手を引かれて、ぼくは街の喧騒から離れてゆく。

 さっきの団地の一角にある、公園という体を保つために作られたようなスペース。

 申し訳程度に設置されている二台のブランコと、錆び付いたすべり台。滑り板が伸びる先には、ろくすっぽ整備されていないぼこぼこの砂場があった。


「あの、出来たらまた今度にしてくれたらいいなー、なんて」


「いつもそれだ。今日という今日は逃さないからな」


 ぼくは日頃の行いを悔いた。

 シンちゃんは同じ学校の先輩なので、頻繁にというわけではないけれど、顔を合わせることがある。

 交際時はむしろぼくの方から、時には手作りのお弁当を持ってシンちゃんを訪ねることすらあった。

 けれど二人の関係が終わってから、ぼくは自分に向けられる彼の視線から、ことごとく目をそらし続けていた。

 何度か、彼の口から今のように話があると告げられたこともあったけれど、都合が悪いと断り続けた。

 それを聞き入れてしまえば、少なくとも今はぼくにとって無害な関係性が、ずっしりと肩にのしかかってくるような気がしたから。


 公園をぐるりと一瞥し終えた時、ぼくはもう、いよいよ観念する時だと腹を決めていた。

 それがよりによって今日になるとは思いもしなかったけれど、いつか、話さなければならないことなのだろうから。

 けれどシンちゃんはぼくが話さないと碌すっぽ口も開かない。相槌は空に向けているみたいに淡々としている。


「小学生の時ね、よく遊んでたんだ」


「ここで?」


「うん」


 このままだんまりだとたまったもんじゃない。

 不意に思い出したあの時の情景をなぞるように、ぼくは言葉を零していた。


「お父さんとお母さんが喧嘩した時、よくここに来てぼうっとしてたの。その時はお小遣いも貰ってなかったし、なにより他の遊び方なんて知らなかったから」


「そんなもんだろ、小学生なんて」


「まあね」


 錆び付いたブランコが二つ。ぼくたち二人を乗せて。

 思いきり、空にも届くんじゃないかってくらい漕ぎ出して――

 それが出来なくなったのは、いつからだろう。


「いつだったかな。夜遅くに両親が、殺し合っちゃうんじゃないかってくらいの大喧嘩を始めちゃって。コウくんは部屋の隅でわんわん泣いてるし、私だけ家を飛び出しちゃったんだよ。もうこんなところにいられるかって」


「家出か?」


「そう、家出」


 ぼくは子供の頃の感覚を思い返すように、慎重にブランコの鎖を握り締める。

 赤錆がざらついている。指先から零れ落ちる感触が、はっきりと分かった。

 何故だろうか。今なら、あの時のように漕ぎ出せそうな気がする。

 きっときっかけなんて、必要なかったのだろう。

 地面を蹴って、どこかに飛び出したいという気持ち。

 多分ぼくは、それだけで良かったのだ。


「だあれもいない夜の公園だから、その時の私にとってはすごく怖いのね。キジバトがほう、ほう、って鳴いてるのが、お化けの声みたいに聞こえてさ。それに、そんな時間に子供一人で出歩くのは悪いことだって、はっきり分かってたから、大人の人に見つかりませんようにって。でもひとりぼっちだとお化けも怖いし、もうどうしたらいいんだろうって半べそかいてたの」


「その時点で家に戻るつもりは?」


「無かったなあ。絶対お母さんに怒られるって分かってたから。もうこのままどこかに行っちゃいたいって、そう思って、なぜかがむしゃらにブランコを漕いでたの」


「なんだよそれ」


 シンちゃんはここに来て初めて笑った。

 漕ぎ出したブランコは止まらない。

 振れ幅はどんどん広がっていって、もう、その軌道に身を預けているだけで、何処へでも行けそうな気分になる。


「おかしいよね。でもその時たまたま通りがかったお姉さんが、話を聞いてくれたんだよね。色々話したのは覚えてるんだけど、内容までは覚えてないや。でも、すごく優しかったような気がする」


 視界がぐるんぐるん回っている。

 振り幅の端に辿り着くたびに、伸びきった鎖が弛む音を立てる。

 まだまだ。もう少し。負けないように。何に?

 空が、もうすぐそこまで近づいてきている。

 これくらいならきっと届くだろう。

 身体は、どのタイミングで飛べばいいのかを覚えていた。

 風にお尻を持ち上げられるような感覚。ぼくは考えるよりも先に、両手を広げていた。

 楢原メイがブランコから撃ち出されて、放物線を描き着弾するまでの、およそ一秒ほどの世界。

 息が出来なかった。というより、息すらしたくなかった。

 靴底が地面に触れ、膝まで、痺れるような痛みが走る。

 置き去りにした時間がぼくに追いついて、その瞬間どっと汗が噴き出てきた。


「いえい」


 振り返って、シンちゃんに向かってピースサイン。

 呆れたような笑みを浮かべる彼の頬にはえくぼが出来ていた。

 これは今思い出したことなのだけれど、ぼくは初めて彼の笑顔を見た時、そのえくぼを指で突いてみたいと思っていた。

 その呆れたような笑顔は大人びているのに人懐っこくて、頼れる先輩でもあるシンちゃんが、ぐっと身近な存在であるような気がするのだ。

 きっと好きだった。

 その気持ちはどのような欺瞞をもってしても騙すことは出来ない。


 そんなかつてと、これからのお話――


「いいよ、河野くん。話して」


 奪われた心臓。こんなことをしている場合じゃないのに。


「逃げたりしないから」


 自分の行為は、他にないくらい適当であるように思えた。

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