(2)猪突猛進行形
何度も躓きそうになったし、ローファーの中は畦道の砂でしっちゃかめっちゃかだ。
ブラウスが背中にぴったり張り付いて、肌との間に出来た隙間に潜り込むように、汗が伝う。
肌を舐めるような気持ち悪さも置き去りにして、ぼくは走る。走る。走る――
▼
畦道を抜けて、団地には
男の子の向こうに見えるのは、ここから数キロほど離れたところにある中学校の学生服、二つ。
片方はペットボトルのお茶を潰しながら飲んでいる男の子で、もう片方は恭しく彼の制服の袖をつまんでいる大人しそうな女の子。
「捕まえて! その子!」
身体は酸素を求めていて、水もないのに溺れてしまいそうだ。
やっとの思いで絞り出した声が二人に届いたらしく、彼らはぼくを認識するなりぎょっと目を見開いた。
「なに!? なに!?」
「やばいって!」
確かにぼくは
まさに今君たちの隣を過ぎ去ろうとしているその子を捕まえてくれないと、ぼくは――
「もういい!」
冷たい風が向かい風になって、ぼくとあの子の隔たりがどんどん大きくなってゆく。
たとえばぼくの背中に、向かい風をものともしない翼があったら……ぼくの足の裏が、ビルすら飛び越えられるような
きっと酷い顔をして、そんなことを考えていたのだろう。
男の子に次いでぼくとすれ違った彼らは、ブロック塀にもたれこむように仰け反った。
「危ねえよ!」
男の子が後ろからペットボトルを投げたらしく、放物線を描いてぼくの頭上を越えていったそれは、あわや男の子に届くんじゃないかというところでアスファルトに着弾して、キャップと分かれた。
緩やかな登り坂。それは足元に向かって転がってきて――
「へあっ!」
自分でも間抜けな声だと思う。
勢いをつけて蹴ったつもりのペットボトルは、這うようにして男の子に向かって転がるけれど、彼には届かなかった。
スカートの裾を掴んで、提げたスクールバッグが落ちないように時折肩を浮かせながら、街の喧騒に向かう彼の背中を追う。
▼
団地を抜けて大通りに出ると、景色はわっと風が吹き込んだみたいに賑やかになった。
人はぼくがそれぞれの顔を把握出来ない程度に行き交っているけれど、誰一人として男の子には目もくれない。
うんと大きな声を振り絞って、先ほどと同じように叫んでみるけれど、誰もがあの子じゃなくてぼくを見る。
違う。ぼくじゃない! あの子を見て!
やがて街のどよめきは、ぼく一人に向き始めた。
恥ずかしさも置き去りにして、心臓を盗まれた直後に実感した死の気配を置き去りに――
「おい!」
不意に呼び止める声があった。
怒気を孕んだその声がぼくに向けられていることは、すぐに解った。
声がした方に視線を向けて、その人を見るなり、ぼくは盛大にすっ転んでしまった。
男の子の背が、小さく、小さくなってゆく。
行き交う人々の足に掻き消されて、まるで
「楢原。楢原だよな?」
頭の上から降ってきた声が、ぼくの名前を呼んでいる。
手のひらに食い込んだ小石の破片を払いながら立ち上がろうとしていると、ごつごつ骨張った手が目の前に差し出された。
手首からなぞるように視線を上げると、それは見知った顔。
今が十一月だから、およそ十ヶ月ほど前まで、放課後はいつも一緒だった人。
「河野くん……」
シンちゃんと呼びそうになるのをぐっとこらえて、カタコトみたいに彼の名を呟く。
ぼくの声じゃないみたいで、むず痒かった。
畳みたいにざらついた手を握る。
向かい風に曝されてきんきんに冷えきった指先がほどけてゆくような気がした。
起き上がり、つま先を立てて脱げかけたローファーを履き直す。
そうしていると、頭から血がごっそりと身体に降りてゆくような感覚に陥った。
地面が頼りなくて、瞬きのたびに視界がぼやける。
まっすぐ立てている自信が無くて、ぼくは咄嗟にシンちゃんの肩を掴んでいた。
「凄い顔して走ってたな。さっきみんなお前のこと見てたぜ」
走っていた……そう、ぼくは走っていた。
そうだ。心臓を、取り返さないと!
シンちゃんの肩を払いのけるように一歩踏み出すと、また視界に
「立ちくらみか? 身体弱いんだからあんまり無茶なことするなよ」
「大丈夫、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないから言ってるんだろ。家まで送ってやるから」
「ほんとに、大丈夫だから!」
掴まれた手首をぶんぶん振り回すけれど、シンちゃんはちいとも離してくれる気配を見せない。
「楢原!」
不意にシンちゃんが大きな声を出すものだから、咄嗟に身を屈めてしまった。
シンちゃんは呆れ顔。溜め息を吐いて、街並みに視線を滑らせる。
ぼくもそれに倣って、ぐるっと辺りを見渡してみると、何人かが目を丸くして、こちらを見ていた。
とたんに恥ずかしくなって、ぼくはやり場に困った視線をシンちゃんの胸元に戻す。
「話があるんだ」
シンちゃんはやけにかしこまった調子で、そう言った。
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