ドグマ66「きみの名前のほんとうのりゆう」



   †



 白い闇が続いている。

 どこまでもどこまでも白い闇が続いている。

 それはまるで永遠に醒めることのない隔世された遺伝のようだ。

 決して蕾の花ひらくことのない、どこかに仕舞われた太古の情報胚芽

 無意識の深海よりさらに深く、深く沈められた、自分の始まりから導かれる展開図。

 それが永遠に終わることのない<夢>となって、雪原に降る雪のように羅列されていく白い光の点滅として映じられ、まぶたの裏に続いていく。

 その真白い世界、音もなく、色もなく、手触りもない、全ての始まりの場所、全ての終わりゆく場所、忘却の世界の彼方――無限の安楽に近づいたその虚無の深遠の畔から、ふいに美しいピアノの旋律がこぼれてくる。

 雪となって白い闇に同化していた鳩が飛び立ち、草の匂いがする。土の匂いがする。花の匂いがする。風を感じる。失われたはずの知覚と触覚が戻ってくる。


 あたたかい体温を感じる。


 それが自分のこめかみから流れる血液のせいだと気づいたのはいつのことだろう。

 そしてそれが血液だと感じられるのは、味覚と触覚と聴覚と嗅覚とを認識できるのは誰のせいだろう。誰の作用だろう。これは、誰の知覚なのか。

<誰か>の知覚がすぐ耳元で流れこんでいる。自分は、一呼吸ごとに、誰かの目になる。耳になる。足になる。手になる。だけれど、と思う。

 それがとても心地良い。


「観念したのか」


 そういって、その存在は、ゆっくりと近づいてきた。

 耳馴染みのうすい音階の崩れた靴音が、一定の間隔で迫ってきて、

 靴の鳴る音に羽音がまぎれこんで、

 天上から舞い降りてきた鳩と断罪の巫女の存在から、これまで経験したことのない別の世界の匂いがする。

 草と土と花の匂いがする。

 靴音がさらに近づく、


「お前はもうじきしぬ」


 ボコっ。

 その存在の到来に、あたまの裏で何かが弾ける。

 胸に不思議なほどの高揚が流れ出して、ボコボコと感情が結晶化していくのがわかる。

 鼓動のざわめきが音に変換され、音は可視化された漆黒の玉となって浮かび上がって、さらにバラバラと頭上で轟音をひらめかせるミサイルの雨の音が流れこみ――自分の知覚が、別の世界と接合していく。

 時間の感覚が、こぼれだしているのだ。

 自分が、世界の外に流れ出しているのだ。


「おきろ」


 目をあける。

 白銀の白い羽根が漆黒の泉の畔で濡れている。

 それはこめかみから手足まで一瞬のうちに撃ち抜かれたからだの、出血のせいだ。

 ねっとりとした墨汁のオイルに浸されたように、黒い鮮血のなかで自分はちぎれた羽根とともに倒れていて、その円形の踊り場のまわりを繭のように梁のめぐらされた白い回廊が取り囲む。

 頭上には、巨大な魚の上顎のように飛び出した、壊れた石の伽藍がらんがかかっていて、そこからボタボタと闇色の液体が落下してくる。

 それは漆黒の雨のように、すぐ近くの人工的な光に点滅しながら円形の踊り場に降り注ぎ、自分の首元へと続いている。

 自分はあそこから落下したのだ、と意識を失う前の情景を、思い出す。

 最後の回廊の扉、世界の出口に到達する目前で、撃ち落とされた。

 その漆黒の液体の源には、支柱に腕を括りつけられたアリカがいて、その階下には、黒いセーラー服を着た少女が立っている。


 ユリア。


 自分は、その存在をしっていた。

 名前も、瞳も、肌も、肌のあたたかさも、すべてしっていた。

 その役割も、しっていた。だから跳ね起きた。だから這って逃げようとした。

 轟音が、聞こえた。衝撃がからだではじけていき、鮮血が飛び散る。

 空が反転して、ひっくり返った。気付いたときには八つ目の弾丸を足首に食らっていた。

 くさびのように。


「なぜ逃げる。なぜあらがう。なぜ存在の虚無に抵抗を感じる?」

 

 荒い吐息が聞こえる。

 すぐそばで、こんなに近くで、耳に響いてくる自分の呼吸の音が聞こえてくる。

 まるで他人のもののように感じられる。誰かがあえいでいるように感じられる。

 少女の言葉が、断罪の巫女の言葉が、繰り返される響きとなって、脳裏に反芻される。

 自分なんて、死んでしまえばいいと思っていた。

 間違ったやり方で、人々を暴力の渦に巻きこむ父親たちを滅ぼして命を絶つことが、この世界に産み落とされた自分の、役割だとさえ感じていた。

 それが自分の過去の、すべてだった。だけど、


「それは恐怖か?不安か?怒りか?憎しみか?お前が手にできるものはない。お前は何一つ与えられてはいない」

 

 だけど、今は違う気持ちがある。

 ズルズルとからだを這わせて、液晶パネルの地面を進む。

 激痛を抑えて、立ち上がる。裂けた筋肉の隙間から鮮血が飛沫をあげる。

 からだを引き摺って、回廊のカベに手をついて、ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ前へと進んでいく。

 手を触れた壁からパネルがひらめいて、視界に次々に続いていき、映像の道ができる。

 行く手の暗闇にぼうっと自分の記憶が浮かび上がる。

 記憶は徐々に過去へと遡っていって、時間が巻き戻されてシャフルされ、そして螺旋式の空洞となって通路の先の漆黒の祭壇の上へと続いている。

 

 トワノ・アリカの場所へと続いている。

 

 遥か頭上に浮かぶ天空の伽藍のように映った回廊の終わりは、たった数メートル先の上階にあった。

 実際上の姿より高く瞳に映ったのは、地盤が沈下したかのように目覚めとともに低くなった、自分の目線のせいだろう。

 鮮血に染まった、自分の両手をみる。

 それはとてもちっぽけで、水ぶくれしたみたいに肉厚で、

 みずみずしい弾力に富んでいる。

 

 今では、自分のからだは、三歳児くらいの背丈しかもっていなかった。


 このまま時間が巻き戻れば、とかすむ視界のなか、考える。

 きっと自分は消えてなくなるだろう。

 海中に浮かぶ泡のように、透明に弾けて、ゼロになるだろう。

 

 ――そこで膝が崩れて倒れそうになり、目の前の映像の壁に手を突く。

 パネルには、あどけない自分の顔と、自分の顔の奥で足を交差させて立っている、断罪の巫女の姿が映っている。


 ぱぁん、


 と、耳に心地の良い音が鳴って、視界がブレて色と光を撹乱かくらんする。

 目の前にカベがある。カベに叩きつけられている。肩を打たれたのだ、と遅れて気づいて、次の瞬間には天を見上げていて、新たな銃撃にからだが反射的にり返ったのだとぼんやりと思って、直後、連続的な銃声が狭苦しい回廊に反響する。


 獣のような絶叫が、無痛状態の自分のくちびるからこぼれている。

 

 足元の地面を覆う壁面のパネルに増殖していく漆黒の血液を眺めながら、思う。

 自分は、痛みを感じていないのに、痛みを感じて絶叫している。

 痛みを感じている自分と、自分から切り離された自分が一体化して、あたまのちょっと上から自分を見下ろしているかのような錯覚に包まれる。

 自分が壊れているのか、魂の組成が壊れているのか、どちらも壊れているのか、まるでわからないが、自分は回廊に手を着いて先へ先へと進み続けた。

 カラカラと、薬莢やっきょうをあけて弾丸を詰め替えているユリアの指先の音が聞こえてくる。

 映像の道はしだいにうすれていき、視界が真白い世界に包まれ始める。

 あまりに血液を失い過ぎたのだ、

 それでも自分は、逃げた。

 それが、最後の、

 逃走だった。

 自由からの逃走は、

 ありきたりなテーマだが、

 フA+ァ羅g歩ほいgfgな%%%%%ない

 狂った思考の演算を吐き出し続ける自分とは別の自分、冷静な理性が結論を導く。

 意識をつかさどる冥界のプログラミングが壊れ始めているのだ。物語が、狂い始めているのだ。

 視界がガタガタと揺れ動いて、真白い瞳のスクリーンが傾き始めているのがわかり、だがその先に、手を伸ばせば触れられそうなほど近くに、ぽうっとひらめく透明な白い光のカタマリのような、存在を感じる。


 彼女だ。

 

 なぜか、確かめもせずに、わかった。

 その瞬間、霧がかかっていた視界が一気に色と深みを取り戻し、世界が連続した微細な画像情報となって、瞳に立体化される。

 白い髪の少女がこちらに向かって、何かを叫んでいるのがみえる。

 自分も、それに答えようとしているのがわかる。

 応えようとしていた、必死で、叫ぼうとしていた。

 自分は彼女の名前を呼んだのだ。

 だが、声が出ない。声は壊れてしまっていた。のどは潰れてしまっていた。

 のどは自分で突き刺した傷のせいで空洞ができて、人工呼吸器の内側で鳴る呼吸のように空気のカタマリを吐き出している。そのまま崩れ落ちた。両足の膝でこらえきれずに、跪く。

 だから自分は、とっさに、前方に手をのばした。

 

 ぱぁん、


 轟音が鳴って、鳩が飛び立つ。手首ごと吹き飛ばされていた。

 獣のうめき声のような振動が耳元でふるえて、自分が腕を抑えてうずくまったのだとわかった。

 次の瞬間には回廊の天井を見上げていた。

 さらに弾丸を打ち込まれ、ひっくり返った。暗闇の天井がみえた。

 

 どこまでもどこまでも黒い闇が続いていた。

 どこまでもどこまでも羅列される宵闇の海面のようにのびていた。

 自分は、声に、だした。


「ひかりが、みたい」


 ガン、


 轟音がひらめいて、頭蓋がはじきとばされた。

 右の眼球が打ち抜かれて視界が半減する。

 砕かれた眼底のスキマから鮮血が咥内を通ってあふれてくる。


「化け物が」


 彼女が吐き出すようにいう。だがそんな言葉とは反対に、黒装束の巫女の顔は、不思議な緊張に満ちていた。どうして、泣くんだろう――。一秒先の未来を知覚して、くちびるが囁く。そんな声のない声、くちびるの動きを拒絶するように、彼女は銃口を自分に向ける。


「死ね」


 手が、目が、頬が、足が吹き飛ぶ。

 弾丸が連続的に発射され、自分の肉体がどんどん失われていくのがわかる。

 生命活動を維持できる限界を超えていく。


「死ね」


 ついに心臓を貫く。心臓に五つの孔があく。

 さらに断罪の巫女の弾丸は、胃を、肺を、肋骨を、内臓を粉々に砕いてさらに威力を増し、左の足首が飛ぶ。

 左の片腕が吹き飛ぶ。耳が千切れて平衡感覚が失われる。

 だが、それでも、自分は、自分の魂は、なんとか原形を、原形があったものの機能を――保っていた。

 地上に生を押し留める一個の肉体として、獣のように前に進んでいた。

 真白い玉に向かって近づいていった。

 五感が失われても、なぜかその姿だけは、瞳に知覚することができた。見ることができた。自分の行く手の先、回廊の中心――その漆黒の鮮血の道の先には、彼女がいる。トワノ・アリカが、真白い世界を染める漆黒の泉の畔で待っている。


 ゴトン、鈍い音とともに、倒れかけたからだが、回廊の行き止まりに突きあたる。

 ぼやける視界のなか、気付く。

 ここが終わりだ。

 自分は回廊の終わりに辿り着いたのだ。

 だが、失望はすぐにやってきた。


 回廊に出口など存在しなかった。

 頭上には円形の高い天井が蒼白い廃炉の光に浮かびあがって、地下には扉らしい扉は一切見当たらなく、ただ再び地下の深部へと降下していくダストシュートのポッドがあるだけだった。

 半径数メートルほどの大きさに狭まっていく、天窓のような高炉の蓋が自分のすぐ頭上を覆い尽くしているだけで、地上へと繋がるエレベーターや、梯子や、階段や、それに繋がる出口などといったものは存在しなかった。

 

 そして、気付いた。


 そんなものは、なかったのだ。

 物事の、始まり――伝承で伝えられる遥か古の時代には、確かに、それは存在したのかもしれない。

 だが、いまでは、この地下は、地下自体で完結していて、ここから出ていこうとする発想と欲望を失っていた。

 この世界はこの世界だけで充足していて、一つのユートピアを形成し、この世界の人々の感情から生み出される悪意を全て吸い出し、自分という変換機械プラグののどを通って外部へと――つまり地上へと輩出する平和を実現した『禁区』として楽園をつくっていたのだ。

 楽園は地上ではなく、この蒼白い洸炉の人工的な灯火の降り注ぐ場所、

 光に閉ざされた、枯れた井戸を改修してつくられた、この地下の空洞だったのだ。


 そこで視界が、ぐらりと傾いた。

 何か、自分を支えていた一本のはりのようなもの、

 その梁を下から支えていたびょうのようなものが外れて、

 土台から崩れていく。

 そう自覚した瞬間に、ブツブツと音をたてて、

 何か自分のからだのやわらかいすじのようなものが切れて、

 自分が、再び肉体を離れて、液状化し始めているのがわかった。


 視界が七重のイメージに分裂する。

 必死で、手を、足を、指を、顎を動かし、四つ足の、いや四つの手足すら捥がれた蛇のように、地面を這って進む。

 視界がたちどころにうすれていき、四つの時空座標に分割され、魂が格納されていく、そんな複雑なヴィジョンに襲われる。

 自分がどこに進んでいるのか、どこに向かおうとしているのか、何のために向かうとしているのか、だんだんわからなくなって、彼女の存在さえ忘れていき、彼女の名前もあたまから失われて、それでもただ意味もなく、意図もなく、四分割されていく詩的イメージの中央、世界と世界が十字に直行する白いカタマリの中心へと進んでいみ続ける。

 どれだけのあいだそうしていたのかわからない。

 時間の感覚は、とっくに自分の中から抜け落ちてしまっている。

 だが自分は、ついにたどりついたのだ。

 世界の終わりに。或いは始まりに。

 その光の世界の中心に。

 そして、声を聞いた。


『ヴィンセント』


 その名前を確かに呼ばれて、分裂しかけた自分が魂のいれものに戻ってくる。

 白い髪が顔の前で揺れている。

 それは白い光のヴェールのように瞳のなかで点滅しながら揺れ動き、まぶたに閃光のようなイメージをつれてくる。

 泣いて、いる。

 ぼんやりとした光のイメージの移ろいのなかで、彼女の大きな琥珀色の瞳から、涙がこぼれているのがわかる。

 前方にのばしかけた手は、しかし行き場所が定まらずに曖昧に空を切って、途中で力なくだらりと落ちていく。

 

 触れれば失われてしまうこと。

 手のなかで、脆く崩れ去ってしまうこと。

 それが、わかっていた。彼女は自分とは違う。

 その魂の起源は、この世界の組成とは、別々の時空にある。

 決して交わってはならない地平に遠ざけられている。

 だから彼女にかけてやる言葉など最初から自分にはなかったのだ。

 泣いている彼女に手を差し出すことも、この自分の黒い手にはできないのだ。

 触れることはできないのだ。


 どうすることも、できなかった。

 どうすることもできずに、眼球の底から熱い液体がボロボロと流れていく。

 

 その感情は一体何だっただろう。

 悲しみも、憎しみも、いつくしみも祈りも、もはや自分からは遠くなって、それでもなお、すがりつきたい気持ちがある。

 離れたくない気持ちがある。あきらめたくない、記憶がある。


『 』『 』『 』


 それは、どんな言葉だっただろう。

 あの、すべての始まりの日。すぐ近くで、ドクドクと脈打つ体温のように響いていた音。

 それは、とてもあたたかいもののような気がしていた。

 そこで自分は、目の眩むほどのあたたかい地上の日差しに、包まれたような気がしていた。

 そのすべての源のような熱の中心で、自分は光を、みた気がした。


(――自信だけが、なかった)


 弾丸が、発射された。

 真白い景色が、薔薇型の血痕に炸裂する。

 後頭部から口内を撃ち抜かれ、崩れ落ちる。

 吐き出した鮮血は、漆黒の泉となって、白い地面を濡らしていく。


(――あたたかい日差しも、目の眩むような光も)


 誰かが、獣のようにあえいでいた。

 失われた右の手首で、地面に手をつき、膝をつき、俯いて、ひとすじの閃光のように自分のふるえる顎先に合わせて縦に引かれていく、墨色の文字をみる。

 しだいに増殖していく。

 怪物の体液の滴が、ボトボトと積み重なって、白い地面を汚していく。

 自分は、左の手首を動かした。腕の先でこぼれていく鮮血をのばしていき、真新しい漆黒の横線をつくる。横線を、縦線でつらぬく。読点を右隅にうって、余白の左隅へと先端の長い輪を描いて、くるりと手首を回転させる。

 

 自分は、また「な」を逆向きに書いた。だが「む」は間違えなかった。「た」は簡単だった。それからゆっくり、ゆっくりと、カタカナの文字を、よどんでいく視界のなか、混濁していくイメージのなかに、手首ごと打ち下ろしていく。


「なむたヴィンセント」


 そして自分はほとんど力を使い果たして、両膝をついて跪いた。

 顔の前には、あたたかい光が、崩れた網膜の裏側を透かすように覆っていた。

 カラン、と音が鳴って、自分はその存在を感じた。

 四角い、手のひらサイズのハコが、名前の先に落ちていた。

 その小型のブラックボックスを連想させる漆黒の容器の前面が、液晶パネルのように点滅している。

 それはまだ自分が決してマスターしていない、九つの数字を映している。

 それは通信機器だろうか。

 だがハコの正体よりも、その容器の持ち主の方に意識がいった。

 すぐ近くに、彼女がいた。

 自分は、彼女の首もとに鼻先をうずめるように顔を近づけた。

 音はなかった。あたりは不思議なほど静かで、銃弾はいつのまにか止まっていた。

 自分の背後のイメージが、壁面のパネルに鏡像となってひらめいて、断罪の巫女の姿が瞳に映じられる。

 彼女は、銃をもつ腕をいったん振り上げてから、少しの静寂の後再びおろし、何もいわずにこちらを観察していた。

 攻撃の必要は、なくなったのだ、と気づいた。

 断罪の巫女は、もう、断罪の責務を終えたのだ。

 鏡に映る自分の姿は、もはやヒトではなくなっていた。

 いや、自分のよくしっている自分の姿、というべきだろうか。

 自分が、鏡にいつも描いていた姿とは違って、その完全体のヴィジョンの上に、反時計回りに渦を描いていく蝸牛かぎゅうを連想させる古代魚のようなイメージが、ホログラフィックに点滅しながら折り重ねられていく。

 

 心臓は、まだ動いていた。

 だが正確には、それは、音だけだった。

 鼓動の動きは止まっていて、血液を送り出すポンプの音が、残響のように漂っていた。

 そこで、ふいに理解した。

 もうすべては終わったのだ、と。

 決着がついたことなのだ、と。

 いまはただ魂と肉体のタイムラグ、世界と異世界とのあいだの調律のズレ――そんな存在の揺らぎが生み出す、魂が肉体を稼動させるロスタイムなのだ、と。

 自分は、もう――、


『なんで、わらってるの?』


 微笑みながら、トワノ・アリカが囁いた。

 その首もとから赤い鮮血が滴り落ちていく。

 彼女もまた、どこかで、誰かの傷で、ともすればいまここで、被弾を受けたのだろうか。

 だがすぐに、その傷が、強引にくさびをからだから引き剥がそうとしたことによるものだとわかった。

 彼女の白い羽根は鮮血に染まっていて、

 その背中から腕にかけて、とても鋲の大きな茨のトゲで、

 背後に括りつけられていた。

 背中の肉が削げて、強引に振りほどこうとした腕が引きちぎれそうだ。

 だがそれが凄惨なものだとか、痛そうだとか、痛みに対する共感とかいった気持ちはとっくに消えて、自分たちのあいだにはただその一瞬を待ち望む、未来への志向だけがあった。

 自分の目じりから、次々と涙がこぼれてくる。

 それは、悲しみの涙ではなかった。

 彼女は、そんな自分をみて、黙って頷きながら、また一歩、近づいた。

 ブチブチと壁面にくくりつけられたその羽根が千切れていく。

 棘の鎖でからめとられていた彼女の背中が剥がれて、やわらかい匂いが近づいた。

 どこか別の世界の、断罪の巫女とも天上より飛来してきた鳩とも違う、何か目新しい、しかしそれでいて心のどこかでよくしっているような存在の手触り。

 胸に懐かしいものが流れだして、頬を液体の滴となって濡らしていく。

 もう、ためらうことはないのだ、と自分は思った。

 数分後には、きっと自分は消えているだろう。存在がゼロに巻き戻って、このからだも声も、跡形もなく失われているだろう。だけど、

 

 だから、

 これで、ようやく彼女に近づける。


 ――蒼白い高炉の光がこぼれてくる漆黒の鉄格子の祭壇の手前、スリット状に色が抜けていく回廊の突き当たりで、彼女は優しげに笑っていた。

 自分たちをつないでいた銅線は千切れていて、足元に打ち捨てられている。

 彼女と自分の、肌と肌のあいだを引き離すものは、もはや何もない。

 ありふれた日々が、そこで光にくりぬかれた白い埃のように舞い上がって、感情のはけ口を胸に堰きとめるようで、自分は息を止めて、目の前の、すぐ近くの、彼女の顔を見上げていた。


『ごめんね』


 彼女が告げると、自分の瞳からぼろぼろと大粒の涙がこぼれていった。

 遠い日の約束のように、曖昧でぼやけた光が、頭上から閃光となって流れ出した。

 監視のサーチライトが、ついに自分たちの姿をみつけたのだ。

 それでも自分は、ただ笑って、また一歩前へと進んで、さらに前へと、光の中心へと近づいていった。

 甘い匂いがして、こらえればこらえるほど次々と涙はあふれてきて、

 まぶたの裏に真っ白い光のカタマリが点滅していく。

 その、氷結していく光のように結晶化していく景色のなかで、

 自分は、ただ笑って、待っていた。

 彼女が両手を広げて、穏やかな声で、自分を呼んだ。


『おいで』


 そして自分は彼女の胸に子どものように飛びこんだのだ。

 その腕に、胸に、指に、肌に触れて、あたたかい熱がまばゆい閃光とともにほどけていく瞬間、自分は、あの、夢のなかの景色を、みた気がした。

 あの、目も眩むほどの鮮やかな光を、みた気がした。

 からだのすぐそばで流れていた、あたたかい熱をしって、囁かれた言葉の響きを耳にした。

 そうやって、もう一度出会った、


『 』『 』『 』『 』『 』


 そんな気がして、あふれる音と光のなかに吸いこまれていった。

 囁きが浮かび上がった途端に、あたたかい熱は薄れていき、

 彼女の姿は閃光を放ちながら逆流する雨のように白い蛍火のような玉をつくって天上へと浮かびあがり、きらきらと点滅しながら消えて、闇に飲みこまれた。

 彼女のからだを抱きしめるほど真白い衣類のなかに自分が沈んでいって、あとには両腕で己のからだを抱きしめながらひざまずく、胸の鼓動だけが残った。

 鼓動の響きだけが、残った。


 気づいた時には、自分は仰向けに倒れていた。

 背中で大地の脈打つ音がする。

 目の前には闇がある。

 どこまでもどこまでも続いていく暗闇がある。

 どこまでもどこまでも果てしなくのびていく漆黒の冥界の入り口がある。

 それは闇色のトンネルとなって蒼白い魔高炉の天上を蝕のように覆っていく。

 

 生命が、終わる。

 

 自分の生命が終わって、ただ漠然とした暗闇に沈んでいくダークホールのような穴だけが、失われていく五感からこの世界にわたされた最後の橋のように遥か遠くに浮かんでいる。

 

 これが死か、と自分は思った。

 限りなくあたたかく、すべてに包まれていて、そしてどこか少しだけ寂しい。

 だが自分のからだが死を覚悟しても、世界がその望みを許さないようだ。

 そんな風に自分は心のどこかで直観していた。

 自分はこのシステムの中枢機構、楽園を維持する<パンドラの箱>で――自分をこの世界に受肉させた世界が悪意となって可視化され、自分の魂を再利用リユースするべく、凝集していく磁場の砂金のように漆黒の点描となって中心に集まってくる。

 しだいに自分のからだは転位し始めた。


「化け物が」


 ブクブクと耳元で水が膨れていく。

 首元で空気が潰れて泡になる。

 ボコボコと自分のからだから流れた血液が結晶化して、

 その蒸留を、首と地面の間の空洞を利用して声帯に見立てて、

 背中から悪意が飛び出そうとしてくる。

 漆黒の玉が、玉の粒が、弾と球と珠が、墨汁の塗りたくられた真珠のように浮かび上がり、自分の傷だらけの肉体を修復して、怪物が――自分以外の誰かの名前を与えることのできない怪物が、起き上がろうとする。

 目の前に鏡がある。

 鏡に映る自分の姿が分裂していく。

 その細胞の転生を押しとどめようとして、断罪の巫女が鏡のなかでもう一度銃を構えて、漆黒の闇が爆発する。


「死ね」


 薔薇型の花火が中空に弾けて雨になる。

 だが散らばった自分は、その魂の可逆性は、魂が招き寄せる世界の悪意は、極限まで引き延ばされながら弓状に物質化してターンして、ブクブクと泡立ちながら無数の槍状に天に向かってひらめいて、透明なシールドの保護膜でその身を覆っていく。樹木にのびる木々の枝葉の笠木のようにのびたシールドは、突如として射しこんだ天上からの光に、複雑な十余の角度に割れ、細かな結晶となって降りてくる。

 暗闇が急速に晴れていき、闇の狭間から蒼白い光がこぼれてきて、漆黒の雨が銀色の線に点滅する。そして、頭上から、透明に口を開けた冥界の入り口から、攻撃は舞い降りて来た。

 音も立てずに、レーザー状のミサイルが頭上から幾条も幾条も撃ち降ろされて、ゆっくり旋回しながら投射面に8の字を描きながら閉じていく。塔の内部は、地下に掘った枯れ井戸を掘り進めてつくられた神殿は、その要塞からの、要塞を超えた存在――ともすれば要塞より遥か上空の磁場の裂け目を通って、別の惑星系から流れこんできた超高高度極超音速メテオミサイルのゆるやかな閃光に、粉々に破壊されていく。だが高さ四、五メートルほどの、実体のない砂上の楼閣のように舞い上がった液体の自分は、ゆるゆる大気中を移動して、変幻自在に姿を変えて直撃をすり抜け、爆発をまぬがれてさらに高く、高く上空へとのびていって、裂け目から世界の外部にこぼれ出ようとする。新しい光が音もなくひらめき、まばたきの後には線上にのびてきたレーザーが自分の隙間を通過して降りていき、断罪の巫女の肩ごしをかすめて、擬似的な被爆対象にマーキングされた彼女のからだが爆撃の予感に浮きあがる。十数個の橙色の弾丸が落下してきて、彼女の腹部で次々に爆発し、衝撃を食らったユリアは瀕死の状態で石灰質な地面に両手をついて、凄惨なサイレント映画のように音のない世界でからだを小刻みに震わせながら血を吐いている。

 

 ――自分が生まれた瞬間の光景を覚えてる


 そんな様子を、一切の非現実的な情景を、自分は、いつのまにか立ちのぼる液状の槍となって見下ろしていて、空の色が変わっていくのがわかる。再び暗闇があたりを包み始めるていることをしる。だがその暗闇の向こう、暗闇の奥の天蓋の向こう、天蓋の向こうの地上の遥か上空で、確かに黒シリーズは存在していて、地鳴りのような重苦しい重低音を響かせながら頭上をぐるぐると旋回している。


「いい加減さ、お前。はやく死ねよ」


 腹を幾つもの閃光の輪に穿たれた断罪の巫女は、まだユリアの、人としての原形をとどめている。彼女は肩で荒い息を吐きながら、銃を投げ捨てて立ち上がろうとして、祭壇の前に崩れ落ちた。それからカベに背をつけて、天を見上げるようにして、まぶしそうに目を細めてから目を閉じ、その言葉をくちずさんだ。


『 』『 』『 』


 自分の視界が四五重のイメージに分裂して、目線が揺り動かされたあと、再び、元の個体へと戻ってくる。その言葉は、その音は、どこかで聞いた響きに、よく似ていた。

 彼女は歌っていた。

 母音の韻律を確かめるように、くちびるを動かしていた。

 暗闇が割れていく。木漏れ日に目覚めた瞬間のまばたきのように、しだいに視界がひらけてくる。その歌声は、しかしすぐに止まった。液体に投下されたミルクのひだのように、漆黒の闇が大気中で織り混ぜられながら濁っていく。それが自分の心の乱れのせいだと気づくまで、時間がかかった。それが、彼女がこれから始める儀礼的な行為への個人的な前座、のどの調子を整えるための精神的な準備なのだと、遅れて気づいた。あたりに再び暗闇が包まれ始めて、彼女は目をあけた。天を見上げていた。断罪の巫女は、白百合百合亜のからだは、絶対に所有できない魂の強度だけが持つ非人間的な調和に満ちていた。触れることも近づくことも躊躇われた。そこで自分が待っていることに気づいた。何を待っているのか、誰を待っているのか、誰でも何でもない自分自身を待っているのか、わからないが、先ほど消失したトワノ・アリカに抱き寄せられるのを待っているときのような軽やかさとはうって変わって、一切の終わりが紡ぎだす、終わりへの予感が紡ぎだす、カタストロフにも似た破壊をただ観念して心待ちにするときのような、そんな安楽の境地に導かれていた。だがユリアは、その終わりをもたらす当の本人である断罪の巫女の彼女は、全ての終わりも始まりも、愛しみも慈しみも憎しみも悲しみも、一切の感情的事柄が自分には無関係だというように、そんなものは自分の使命には何の意味ももたないとでもいうように、ゆるゆると上空へと舞い上がっていく漆黒の化け物を眺めて、


「バイバイ」


 そう呟いて、手をあわせて、死にぞこないの巫女のからだがついにその言葉を唱え始めた。

 、どんどん異形の物質へと組成していく化け物の視点から遊離していき、白を白と認識し、黒を黒と知覚し、獣の絶叫を察知して、自分を自分と自覚して、しだいにはっきりとした意識を取り戻し始め――手紙を括りつけられた足を、白い羽根を、反り返った胴を動かし、漆黒の闇に濡れた翼をひらめかせて羽ばたこうと懸命に足掻いて再び鮮血の泉のなかに落下して――、


 《僕》が目覚める。そして、気づく。目の前の石畳の地面に墨で描かれた九つの文字。それは、確かに名前だが、あるいはこの世界ではその表音文字の響きの視覚化が正しいのかもしれないが、本来的には間違っている。『な』『む』『あ』『び』『ぃ』『、』目を閉じて繰りかえす彼女の唇の動きが動作を反復するうちに自動性をもって飛翔して、連続的な音の魔弾となって耳のうちがわに吸いこまれていく。

 そして僕は、思い出していた。あの、自分の生まれ落ちた瞬間に、耳元で流れていた心地の良い響きの正体を。すぐそばで、こんなに近くで、ドクドクと背中を打つ拍動の音のように鳴り響いていた、規則的で、韻律的な、音の正体を。

耳元でささやかれた名前は、なむた、じゃない。


『南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿……、』

 

 

 無数の鳩が漆喰の剥がれ落ちた白い地面から次々と羽ばたいていく。

 足元から生み出される羽根たちの群れは、臨終のあえぎを存在から撒き散らす異形の化け物、世界の悪意に結晶化された殺戮の兵器の吐き出す音のカタマリにターンしながら、瞳の奥で増殖していく。

 鳩たちは、燃料タンクの腹からぶちまけられた重油が火焔をあげて豪快に燃えていくように、世界の上空へと黒々とたちのぼっていく化け物の凄まじさとは反対に、そんな凄まじさを嘲笑うかのように、ゆっくりと彼の周囲で身をひらめかせながら、天上に向かって舞い飛んでいく。

 自分は、僕は、鳩の群れとともに羽ばたきながら、悪意を浄化されていくもう一人の自分を視界に映した。天上へとのびていく漆黒の化け物は、だが決して地階の外の世界には辿りつけずに、天蓋の蓋の近くの空間に空いた別世界への切れ目のなかへと次々に吸い込まれていく鳩たちとは違って、断罪の巫女の言葉の魔弾に漆黒の雨となって撃ち落されていく。

 まるで気化することを途中でやめた気まぐれな液体のように、彼のからだから化け物の部分が滅ぼされ、滅ぼされた部分は雨となって、蒼白い人工的な高炉の火に照らされながら地面に降る。

 彼の物質の組成が徐々に転位する前の姿へと戻っていく。

 漆黒の感情で編まれた鎧がほどかれ、可視化された悪意の呪縛が解かれ、ブクブクと泡立ちながら数千個の漆黒の玉の並ぶ数珠となって再結晶化していき、不安や憎しみや殺意や悪意からなる負の根源を焼失させて――名前を与えられた怪物が十五歳の人間のからだを復元させていく様を目撃する。

 そして自分は、蒼白い光の源へとのみこまれていく刹那、化け物の世界から完全に切り離され意識が途絶えていく瞬間に、一度だけ、彼の声をきいた気がして、その絶叫に鎮魂の呪文が引き千切れた数珠のように次々と途絶えていって、

 咆哮が、こだまする。


『南』

『無』

『阿』

『弥』

『陀』

『仏』

『…』

『 、

 







 

 

 

 

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